第六章 証言記録
女性の証言


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戦争で夫を亡くして

幸喜※※(旧姓松田 大湾・※※)大正元年生

台湾へ

 私の幼名(ワラビナー)は※※です。小学校二年か三年頃までは※※という名前だったんですが、松田※※という同姓同名の人がいたので、波平の比嘉※※先生が※※という名前をつけてくれました。母親は十歳の時亡くなり、父は後に再婚しました。
 私は首里の工芸学校に通っていましたが、教師になろうと師範学校にいくつもりで中途退学しました。それもうまくいかず那覇のN病院に看護婦として勤めるようになりました。その頃、大阪に働きに行っていた親戚の松田※※さんが大湾に帰って来たので、彼女に面会するために那覇から実家に戻りました。彼女の話では、台湾では見習い看護婦でも二十三円貰えると言っていたので、その頃の私の給料よりも高かったので台湾に行くことにしました。渡台の費用を借りようと親戚をまわったのですが、「年頃になってから女が旅に出るのは良くない」とあちらこちらで断られましたが、どうにか工面して、※※さんと一緒に台湾基隆(キールン)へ行きました。一九三三年(昭和八)、私が数えで二十二歳ぐらいの時でした。
 台湾では最初比嘉※※さんの家に二人でお世話になりました。H医院というところに一か月ほど勤めて、その後、給料の高かったM病院という小児科の病院に、自分の意志で移りました。給料は、確か二十二、三円だったと思います。

夫の戦死、基隆での生活

 看護婦として一、二年勤めた後結婚し、一九三五年(昭和十)には長男の※※が生まれ、それからは子育てに専念しました。夫幸喜※※は那覇の久米出身の人で、台湾航路の客船の船員でした。大阪商船の客船で、航路は基隆、廈門(アモイ)、香港(ホンコン)、広東(カントン)、汕頭(スワトウ)などを回り、時には上海にも行っていました。長男の次には、長女※※(昭和十二年生)、次女※※(昭和十六年生)、三女※※(昭和十八年生)と四人の子どもに恵まれましたが、一九四四年(昭和十九)の年明けから空襲が激しくなりました。※※は生まれて三か月ぐらいでした。
 基隆は南進兵站基地ですから、食糧を集めて軍用船に積み込んで出港するのですが、その船がやられると、食糧が流れ出しました。それを漁船が集めて来て、その米や豆を使ってハチャグミ(菓子)や豆腐を作って売っている人もいました。その頃までは日本の兵隊を見たことはありませんでしたし、空襲はありましたが地上戦はありませんでした。
 夫の乗っている船は客船でしたが、戦況が悪化してくると軍用船になり、兵隊や軍需物資を載せて南方方面を往来するようになりました。危険なので仕事を辞めるように言いましたが、契約書のようなものに拇印を押させられ、辞めたくても辞められないと言っていました。船は広東丸・盛京丸・香港丸などと地名を船名にしていました。
 ある時、夫の乗った広東丸が航海中に魚雷を撃ち込まれて沈没してしまいました。漂流していた夫のすぐそばを救助船が通りかかったのですが、気がつかずに行ってしまいました。が、その時一人の水兵が、近くで夫が泳いでいるのを見たと言ったので引き返して来てくれて、それで助かったそうです。
 しばらくして元気になったのでまた勤務することになり、船に乗りました。次に乗ったのは盛京丸だったと思います。ちょうど※※が小学校に入学する頃でしたから「上海や香港のランドセルは本皮で上等だから買ってくるからね」と言って出て行ったきり戻って来ませんでした。その頃は、基隆でも空襲がひどくなっていました。
 ある日、防空壕に避難している時に、空襲解除になったら会社まで来るように言われて、※※をおんぶしたままで行きました。そしたら、会社の人は「風邪もひかないで子ども達を大事にして、何かあったら会社に連絡してください」と言うんです。夫が戦死したとは言わないんです。それだけです。香港あたりで亡くなったらしいんですが、会社は知っていたと思うんですが、死んだとは言いませんでした。その時、私は三十二歳か三十三歳でした。そして、会社から一時金として七千円か八千円のお金をもらい、それを風呂敷に包んでお腹に巻いて帰りました。後で、会社に呼び出されて行き、夫が亡くなったのは一九四四年(昭和十九)二月十一日頃だろうということで、その日を命日にしました。
 次第に基隆でも空襲が激しくなり、その都度トンネル式の壕に避難しました。上から水が落ちてくるような壕で親子五人一緒にいました。その頃、※※と※※は学校に行き、※※は私がおんぶしていましたが、※※の面倒を見ることが出来ないので、※※は自ら「おかあちゃん、壕に行っておこうね」と言って一人で防空壕に行ったりしていました。かわいそうに思いましたが仕方ありませんでした。親として何か出来ることはないかと思い、一番上等のふとんをほどいて五人分の防空頭巾をつくりました。
 昭和十九年三月二十九日か三十日の空襲の時、朝から闇で買った鰹節やおにぎりを持って壕に避難していました。壕の中では「今日の空襲は特に近いみたいだね」とみんなで話していました。空襲が終わって家に帰ってみると、私の家にも大きな爆弾が落ちて、家は壊れてしまっていました。警防団の人達が瓦礫(がれき)の中からいくらか生活用品を掘り出してくれました。夫も亡くなり、追い打ちをかけるように家も無くしてしまい、避難壕で生活するようになりました。その頃、赤十字マークの病院船には爆撃はしないということでしたが、それも攻撃されるようになり、たくさんの負傷兵達が私達のいた壕に連れてこられました。

疎開地魚池庄へ

 一九四四年(昭和十九)四月以降、日本軍の命令で、空襲が激しくなった基隆から強制疎開させられることになりました。特に小さい子どものいる家族や母子世帯などは早く疎開するように言われました。基隆からの疎開指定地は台中州新高郡魚池庄(ニイタカグンギョチショウ)というところで、日月潭(ニチゲツタン)の上の方にあって標高の高い所でした。警備の兵隊二人が同乗したトラックは、私達の住んでいた基隆の明治町の人達でいっぱいでした。
 疎開地に着くと、基隆の警防団の人達が先に送ってくれた荷物が届いていました。疎開割当がすでにされていて、私達は※※さんという人の薬屋跡に入りました。床は無くて、竹を編んだ上に藁を敷いてあるだけでした。魚池庄は自給自足の村で、劉さんは畑に子ども達を連れていってくれて、農作業を手伝わせたり、その帰りにはたくさんの落花生や野菜などをザルいっぱいに持たせてくれたりと、本当に親切に世話をしていただきました。でも、私たち大人は毎日警察に呼ばれました。というのは、それまで静かな農村だった魚池庄に都会からたくさんの人が来て、安いということで何でも買ってしまうものだから、経済が混乱しているという地元の人達からの苦情があったからです。警察の人は、ここの値段で品物を買うように指導していました。闇値で買ったら逮捕すると言っていました。そこでは、夫が戦死した時に会社からもらったお金を使いました。地元の人達は、食べ物を持って来て、服と換えてくれと言っていました。たまには山の中からも物々交換のため地元の人々がやって来ました。まずは夫のレインコートから換えました。基隆にいる時に空襲で焼け残った脚の折れたミシンは、※※さん(後述の警防団長の弟)が買ってくれました。後で溶接して直すのだと言っていました。また、夫が土産に買い込んでくれていた反物(シーツ布地)がたくさんあったので、それでカーテンを作ってあったのですが、それも食料と交換して一枚も残りませんでした。そんな風に食べ物と交換するので、そこにいた一年の間に、家族五人分の服は柳行李の一つ分しか残りませんでした。
 基隆ではじゅうたん爆撃をされましたが、魚池庄では空襲はありませんでした。たまに上空を米軍機が飛んでいましたが、ほとんど基隆か高雄の日本軍の兵站基地をめざしたものだったということでした。
 水道はあったんですが、水源地がやられて飲めなくなり、沼の水を汲んできて使いました。その頃四千円か五千円位のお金を持っていたんですが、疎開者は持っているお金を全額最寄りの金融機関に預けるように言われて預けました。その預金の中から月々わずかな額しか引き出せなかったので、生活に支障をきたさないようにと、持っていた端切れで、子ども達も一緒に下駄の鼻緒を作って、台湾の人がやっている店に卸していました。それを「バッキャヘン」と呼んでいました。
 終戦の「玉音放送」は魚池庄で聞きました。私達は農協(信用組合)にお金を預けてありましたから、基隆に帰る時に、そのお金を返してくれと言ったら、台北にいる会長の許可をもらって来るように言われました。それで、台北まで行って印鑑を押してもらって、魚池庄に持っていったら、お金がないということで支払って貰えませんでした。その後、もう一度支払いをお願いしたところ、今度は、そこに住んでいる人達がお金を預ける形でお金を集め、やっと返してもらいました。警防団の団長をしていた黄さんが、かわいそうに思っていろいろ働きかけてくれたようでした。

終戦、再び基隆へ

 終戦後、各地には方面委員(引き揚げの世話係)が置かれていました。私達の所には後藤さんという方がいたので、その人に「私達も早く沖縄に帰して下さい」と言ったら、「沖縄は、アメリカになるのかどうなるかまだ分からなくて、今沖縄に帰ることは出来ない」ということで、日本人が先に引き揚げていきました。それで、闇値でトロッコ(台車)を一台借りて、それに子ども達も荷物も一緒にのせて、ガイシャテイという駅まで行き、そこから汽車で台北へ行き、そこで基隆行きの汽車に乗り換えることにしました。その間泥棒が多くて、ちょっとでも荷物から手を離すと、あっという間に盗まれてしまいました。※※をおんぶして、お金をお腹にくくりつけて台北の駅に着きました。帰郷を待ちわびる人々はお金を持っていることをみんな知っていますから、お金目当ての青年が近づいてきて、切符を買ってあげようかと言って、子どもを降ろさせようとしたんですが、※※は私にしがみついて来ました。大変なことになったと思って、その人がちょっと離れた隙に駅員室でわけを話して、そこの寝台の下に一晩泊めてもらいました。「フィーッ」と私達を逃がしたという合図の口笛が聞こえました。その音は今でも耳に残っています。がたがた震えながら夜が明けるのを待ちました。朝一番の汽車は乗る人が少なく、昨日の泥棒が何処かで見張っていないかと心配だったので、二番目の汽車で基隆に向かいました。そこに着くと明が泣いているのでどうしたかと聞くと、一枚しかない毛布を盗まれたということでした。
 基隆には夫の兄がおり、また波平の知花※※さんと与久田※※さんら同郷の人々も結構居ました。知花※※さんが隊長で、日本軍が残してあった食糧を使って沖縄出身の兵隊さん達が食事を作って、私達避難民に食べさせてくれました。基隆には沖縄の人達がたくさん集められていました。日本の人は少ししかいませんでした。空き家が多く、どの家に入ってもよかったのですが、老人や母子だけの家族などが集まっている集中営(難民収容所)の中に、その日のうちに引っ越しました。そこにも世話係のようにして沖縄の人がたくさんいたので、沖縄に着いたような気持ちになり安心しました。翌日からもご飯は兵隊さん達が炊いて食べさせてくれました。飯上げの合図があるとバケツを持って食事をもらいに行きました。今の学校給食のように当番を決めていました。無償でした。その頃食べていたのは日本軍が残した食糧でした。それからしばらくしてから、沖縄はアメリカの領土になったという噂が流れ、待遇も良くなって、少しは小遣いも貰いました。働ける人は基隆の郊外に作業に出かけていました。とにかく、沖縄出身の兵隊さん達は私たちが帰りの船に乗り込むまで面倒を見てくださいました。
 海軍の連絡員として沖縄と基隆を往来している本部(もとぶ)の池宮城さんという人がいました。彼に、沖縄の状況やいつ帰れるかを尋ねましたが、笑うだけで答えてくれませんでした。いよいよ沖縄に帰れるという時は躍り上がって喜びました。早く帰りたい人は申し込むようにと彼に言われ、申し込みをして一九四六年(昭和二十一)八月の第一回目の船で帰って来ました。

沖縄への引き揚げ

 台湾から引き揚げてくる時に二人の山原出身の人が、沖縄で困らないようにということで食糧を詰めて持たせてくれたのですが、沖縄に上陸するまでには無くなっていました。どうなったかわかりません。というのも、ほとんど船酔いで寝ていたからです。でも※※だけは元気にしていました。久場崎に着いてからの食べ物は、干しキャベツ・乾燥ジャガイモなどでしたから、子どもたちはご飯を食べたがりました。米を少し持っていましたから、どこかでご飯を炊けないかとあちらこちら探して炊事場を見つけましたが、炊くことはできず少し分けてもらいました。
 台湾にいる間、沖縄にいる親や兄弟の消息は分かりませんでした。夫は那覇出身ですから、夫の兄が那覇に行こうと迎えに来たんですが、私は読谷に戻ることにしました。
 久場崎からインヌミヤードゥイ(キャステロキャンプ)の幕舎に移されると、幸運なことにそこの係は古堅の佐久本のおじさんでした。佐久本のおじさんは名簿を調べて「読谷の大湾には幸地という姓はありません」といわれたので、私は※※の娘ですと言いました。するとその人は私の親を知っていて、その日のうちに親に連絡してくれました。翌日、父と母が大八車を引いて迎えに来てくれました。そして家族のいる嘉間良(カマーラ)という所に帰ることができました。その後照屋に移りました。そこでは一軒の家を半分に仕切って、隣は※※のウンメーとタンメー、後ろは※※のおじいさんとおばあさんらが住んでいました。父はどんなふうにして行ったか知らないのですが、金武の中川まで行って、区長さんだった石嶺※※さんに、台湾から帰って来た親子がいるので何とかしてくれと頼んできてくれました。それで中川の農業組合の麦がたくさん入れられている倉庫のような所に移りました。倉庫といっても、カバーがかけられているだけで、雨が降ると雨が入ってくるし、風が吹くと風が入ってくるような所でしたが、そこから子ども達は中川小学校に通っていました。そこに兵隊に行っていた従兄弟の松田さんが来ました。久場崎に引き揚げて来て、私達の消息を知り、やってきたということでした。突然兵隊が来て靴を脱ぐので、初めは誰だかわからずびっくりしました。

読谷へ帰る

 戦後、読谷での生活の始まりは、大木のキカクヤー(規格家)からでした。二つに区切って半分は名嘉真※※さんの家族が、残りの半分に私達の家族が入りました。子ども達は古堅小学校に転校しました。子ども達を育てるためにはお金が必要なので、現金収入になると聞き、字の佐事をさせてもらおうと松田文太郎区長さんにお願いに行きました。すると「大湾の人は大木や楚辺などあちこちに離れていて大変だが本当にできるか」ときかれましたが、「大丈夫です」と答え、その仕事に就きました。その後も子ども達を育てるためにいろいろな仕事をしてきましたが、古堅小学校に幼稚園ができた時、山内※※先生が欠員があるからと声をかけていただいて、幼稚園に勤めるようになりました。それからは講習、講習の連続でした。
 また、大木のキカクヤーから出ようと比謝に家を造ったのですが、台風「ゼナ」で潰れてしまいました。その残骸を山内※※先生達が片づけてくれました。その後、村から材料を少しもらって、また家を造りました。それから大湾の一班に家を造りました。その頃には明も学校を卒業していました。材料があまりないので、材料を見つけるとバスに乗っていても降りて買いました。そんなふうにして造った家ですが、道を造るためにまた壊すことになりました。
 久場崎、嘉間良、照屋、中川、大木、比謝、大湾を転々とし、現在の家に落ち着きました。今思えば、台湾での出来事は悪い夢でも見ていたような感じです。でも、魚池庄だけはもう一度行ってみたい、素晴らしいところだったし、何よりお世話になった方々にお礼を申し上げたい、そんな気持ちです。
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