第六章 証言記録
女性の証言


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空襲を恐れてカーブヤーガマ(恩納村山田)へ

長浜※※(大木・※※)大正八年生

横浜で

 私の家族は一九四四年(昭和十九)四月頃まで横浜に住んでいました。父が横浜の郵便局で働いており、弟も学校卒業後父のもとへ既に行っていました。私が横浜へ行ったのは二十歳くらいの時でした。その後、母も呼び寄せ、家族で生活していました。横浜にはいろんな会社があって、女の人でも仕事はたくさんありました。軍需工場が多く、流れ作業でラジオを組み立てたりしました。そこには、出稼ぎというよりも家族で移り住んできた人達が多かったようです。
 横浜にいるときは特に「戦争」を感じることはなかったのですが、一度空襲がありました。「何かねー」と、外に見に行って空襲だとわかりました。それからここにいては危ないと思って沖縄に帰ることにしました。沖縄に帰ったら、こっちはよけいに大変でした。
 家族全員で沖縄に帰る手続きをしていましたが、父は郵便局で働いているので帰れないということで、母と私と横浜で生まれた※※(※※)と三人で帰って来ました。父は私達が沖縄に引き揚げた後、すぐに横浜で亡くなったことを知りました。

横浜から沖縄へ

 私たちが沖縄に帰るために乗った船は、奄美大島の港で四、五日足止めになりました。学童疎開船が米軍にやられたから危ないということでした。その後「船が出るから、口をつぐんで何も話するなよ」と言われていましたが、そのやられた船で助かった人が私達の船に乗ってきて、ブルブル震えて「デージドー ヤーマディ トゥドゥチエースガヤー(大変なことだよ、家までちゃんと着くことができるだろうか)」と言っていました。また敵にやられるのでは、と怖くなったのだと思います。他にも山原の人で、子供を四人亡くした夫婦がいましたが、母親はそのショックから精神的にまいった様子でした。

十・十空襲

 十・十空襲は大木で体験しました。その頃、※※には医務室があり、井戸のある※※には炊事場がありました。私達民間人が炊事場に手伝いに行くような事はありませんでした。
 十・十空襲の朝、私は豆腐を作り、母は芋をふかしていました。そこへ突然パラパラパラと音がしたので、「ヌーヤガ」と外に見に行きました。すると敵機からの攻撃だということでした。「アイエーナー 空襲ドゥヤシガ(さー大変、これは本物の空襲だ)」と、すぐ家に戻り、※※を抱き、布団を持って家の前庭の壕に避難しました。怖かったです。爆弾がボンボン爆発するので柱時計が落ち、家のクサビも抜け落ちていました。うちの壕はまだ作りかけで上に木の枝をかぶせただけで、隙間から外の様子が見えるほどでした。爆発音がしなくなってから外に出て、ウフヤーの壕に入りました。ウフヤーにいた炊事の兵隊達が「あっち(比謝)に友軍が造った大きな壕があるから、そこに行きなさい」ということで、兵隊さんが連れていってくれました。

比謝の壕で

 現在のわらべ会館から大湾に降りる道の右側にその壕はありました。特に名前はなかったのですが、比謝地番にあったので「比謝の壕」と呼ぶことにします。
 夕方には、私達の家族とウフヤー等の親戚も一緒に比謝の壕に着きました。その壕はとても大きく、大木の人はほとんどそこに来たのではないかと思います。壕の中にいたのは民間人だけで、日本兵はいませんでした。
 比謝の壕に移動した頃には空襲は終わっていましたが、怖くてすぐには家に帰ることができませんでした。
 その壕に一〇日間くらい入っていましたが、顔見知りになっていたウフヤーの炊事の兵隊が壕まで御飯を持ってきてくれました。壕に座っていると米軍の飛行機が飛んでいくのが見えました。

山田(カーブヤーガマ)に避難

 比謝の壕から大木に帰って来てからも、私は怖くて体がブルブル震えていました。恩納村山田に従姉妹が嫁いでいたので、その家に行くことにしました。避難する時に、蒲長浜小の医務室にいた兵隊がいろいろな薬を持たせれくれ、「こういう時にはこれを使うように」と教えてもらいました。その時一緒だったのは、私と母、※※の三人です。それから同じ山田集落の知り合いのところに避難した※※のウンメー、タンメー、※※、※※も一緒でした。大木では、※※と※※は仲良しで、当時三歳か四歳でしたが、「空襲、空襲」と言って、二人で防空壕へ避難ごっこをして、みんなでどこに行ったのかと捜し回ったこともありました。
 山田では従姉妹の家のアサギ(離れ)を自分達でなおして入っていましたが、そこでも空襲にあって近くのカーブヤーガマに避難しました。カーブヤーガマでは大長浜小や蒲長浜小も一緒でした。
 カーブヤーガマは大きな自然壕でしたが、中は水が流れていて、しかも大勢の人が避難していたので、足を伸ばすこともできませんでした。上からもちょんちょん水が垂れてきて、持って行った衣類や布団は駄目になって捨ててしまいました。米は外で炊いてから中に持って行って食べていました。空襲がないときには「アイエー、こっちは空襲もないさー」と洗濯をして、干したりもできたんですがね。
上下とも、山田の旧集落から山田城跡へ向かう所に点在するガマの一部
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 ある日、暗くなってからお米などの食べ物を取りに大木の家に行く途中、照明弾があがったので、びっくりして山田に逃げ戻ったことがありました。せっかく喜名まで来ていたのに、照明弾で昼みたいに明るくなり、「ハッサミヨー」と、驚きと恐怖で急いで山田に帰りました。その時は魂が抜けたかと思いましたよ。
 カーブヤーガマに入って四、五日後くらいだったでしょうか。アメリカ兵が来て、壕の中にいる私達に銃を向け「デテコイ、デテコイ」と言ってきました。私達は「アメリカ兵が来たら、標準語は絶対に話すな。『ジャパニー』って殺されるから、ウチナー口で話しなさい」と言われていました。それなのに、ガマの中にいた一人の男性がアメリカ兵に向かって標準語で話し始めたのでびっくりしましたが、殺されることはありませんでした。
 私は、きれいに見せたらアメリカ兵に連れて行かれると思って、顔をわざと泥で汚しました。それでも「デテコイ、デテコイ」と言われたので、もう殺されるんだと思いました。アメリカ兵が「ハマニ、ハマニ」と言うので、てっきり浜に連れて行かれて殺されるのだと思い、着物も着替えてちゃんとして、※※をおんぶし、ガマの外に出ました。

石川収容所

 カーブヤーガマにいた人たちは皆外に出されて、トラックで石川に連れて行かれました。私達は早く捕らわれて、石川に行ったので食料の配給があり、最初の頃はひもじい思いをすることはありませんでした。逃げ回ってあっち行ったり、こっち行ったりした人たちは食べ物もなくて大変だったと思います。
 石川の収容所では、民家に三世帯が一緒に入っていました。私達と、親戚の※※、実姉の嫁ぎ先の※※が一緒でした。※※も最初は一緒だったけれど、アサギ(離れ)を直してそこに入っていました。
 収容所に連行されて何か月かすると芋掘り作業があり、前にも後ろにもアメリカ兵が見張りとして付いて来ました。今にして思えば、私はウーマクー(気丈夫)でした。袋に芋を入れて、頭に乗せて集積所に芋を出すふりをして、何個かを懐に隠して家族に持ち帰っていました。※※の姉も一緒に行ったのですが、姉は真面目な人なので見つかることを怖がって、そうしたことは出来ませんでした。
 石川から読谷まで作業に来たこともあります。飛行場の近くにチリ捨て場があって、そこにいくとアメリカーの大きな缶詰が捨てられていました。大きな缶詰を開けてみたら、「ウレー 火薬ヤンドー(それは、火薬だよ)」と捨てた事がありました。本当は食べ物なのに、敵の物だから何か入っているんじゃないかと疑って、火薬だと思い込んでしまったのです。その後は安全だと分かり、アメリカ兵に見つからないように、隠して持ちかえりました。配給だけでは足りないので、作業の時にいろんな物を持ってきて、それで食糧は間に合わせていました。
 また、いつだったか、「戦果」集めに行ったらアメリカ兵に見つかってしまい、みんなトラックに乗せられました。そのトラックが私達のいた石川収容所とは逆の方向に行こうとするので、「アランドー、アランドー(ちがうよ、ちがうよ)」と、トラックをバンバン叩いたら、そこに立っていたアメリカ兵が英語で「何だ?」と聞いたようだったので「あまんかい、あまんかい(向こうへ、向こうへ)」と身振り手振りで言いました。すると石川の収容所の方へ向かってくれました。
 石川の入口に着いてすぐ、「ウルシヨー、ウルシヨー(降ろせ、降ろせ)」とまたトラックをパンナイパンナイ叩いてトラックを止めさせました。荷物も自分の物か他人の物かわからないけど、適当に取ってすぐ飛び降りました。そしたら、姉が怖がって降りてこないので、「飛び降りなさい」と怒鳴りました。トラックを追いかけて川のところで止めて、やっと姉たちも降りることができました。子どもを石川に置いて、私たちは食べ物を捜しに出ていたので、連れて行かれたら大変な事になるところでした。

石川から大木へ

 石川収容所に二か年ぐらいいて、私たちが読谷に戻って来たのは一九四七年(昭和二十二)でしたが、家は焼けてなくなっていました。あの頃は規格家(キカクヤー)があって、それに入りましたが、私達は※※のアサギ(離れ)に入りました。私はそこで一時マラリアに罹ってしまいました。その後規格家に移り、それから近くに小さな茅葺きの家を建て、その後現在の家へと移りました。
 戻ってきた当初は、軍作業に行っていました。炊事班長のメイドをして、洗濯やアイロンがけが主な仕事でした。お金はもらえませんでしたが、食物がありました。軍の敷地内から外に出る時には必ず身体検査を受けました。勝手に何かを持ち出すことがないようにということでした。私を雇ってくれたサージュン(軍曹)は、私を家まで送ってくれながら米や石鹸などをくれました。
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