第六章 証言記録
女性の証言


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戦時下、子どもたちを抱えて

  具志堅※※ 大正三年生
  当時の家族 (長女) 昭和十一年生
        (次女) 昭和十三年生
        (長男) 昭和十六年生
        (三女) 昭和十八年生

幼少時代から結婚まで

 私は、一九一四年(大正三)七月十日に※※の※※・※※夫婦の第三子・長女として生まれました。家業は農業で、両親がサトウキビ作りと芋作りをしている日中は、私は家で子守りをしながら留守番をさせられていました。こうした子守りは四歳の頃からさせられていましたが、自分が成長するにつれて下に弟妹も増えていき、私たちは九人兄弟姉妹になっていました。小学校五年生になる頃には、私は子守りをしながら「帽子編み」の仕事をし、週に四〇銭から五〇銭程を稼いで学費の足しにする事ができるようになっていました。
 高等科に入学した私は、上級学校に進学したいと父に頼みましたが、父は「女の子は嫁いだら他家(よそ)の子になるからだめだ」と言って聞き入れてくれませんでした。私は「なんで私を女に産んだか。頼みもしないのに」と父に反抗しましたが、父は「女の子は女郎売りもあるよ、男の子だって糸満売りがあるよ」と取り付く島もありませんでした。こうして進学の希望をかなえられなかった私は、一九二九年(昭和四)三月二十四日渡慶次尋常小学校高等科を卒業しました。
 卒業と同時に儀間区婦人会の書記を任じられ、結婚するまで務めていました。そして一九三四年(昭和九)十月の吉日に泊・前島の具志堅家に嫁ぎました。

大阪へ、夫の死

 一九三六年(昭和十一)九月に長女が、三八年(昭和十三)十月に次女が生まれました。その頃夫は、薬局をしていた兄の名義で薬のセールスをしていました。しかし自分の力で手に職をつけたほうがいいのではないかと夫婦で相談し、夫が大阪の城東電気工業学校に入学して電気の技術を学ぶ間、私が沖縄で子供達を育て、夫の月々の月謝を送ることにしました。学校を卒業した夫は大阪の梅鉢車輪軍事工場に勤めることができたので、私たち母子も夫のもとへ行きました。一九四一年(昭和十六)、大阪の地で待望の長男が生まれ夫はとても喜んでいました。
 しかし、喜びの日々もつかの間、一九四三年(昭和十八)三月二十四日に夫は急性肺炎で亡くなりました。戦時下ですから、医者に診てもらっても十分な治療も受けられませんでした。
 夫が亡くなって二か月後、三女が生まれました。戦争は日に日に激しくなり、町では若い者達が「天に代わりて不義を討つ」と軍歌を歌い、応召する姿をよく見かけました。私は心の中で「あなた達は生きているから良いのだよ。早く敵を討って、勝っておいでなさい」とつぶやき、彼らをうらやましく思ったのでした。

戦時下での帰郷

 一九四四年(昭和十九)五月、大阪にいた知人に沖縄へ帰ることを勧められ、帰ることにしました。
 しかし、那覇港に着いて沖縄の状況を目にした途端、帰郷を後悔しました。私は、沖縄がやがて戦場と化すかもしれないという不安に襲われていたのでした。
 沖縄は日本兵でいっぱいで、方言を使うだけで叱られ、私はモンペを履いていなかったために怒鳴られたこともありました。私は「後悔先に立たず」とはこのことだと思い、大阪に戻ろうかとも思いました。しかし、沖縄にいる親友が死の病に臥していて、何度かお見舞いに行く間に私が漏らした「大阪に帰ろうかな。沖縄は戦場になってしまうから」という言葉に対し、友人が「沖縄にもたくさんの人が残って頑張っているのよ。あなた一人じゃないのよ」と言ったことがきっかけで、私も考え直し「この人は死の床で沖縄のことを心配しているのに、私は病気でもないのだから、何とかここで生き抜いていこう」と思いました。この友人はその後すぐに亡くなりました。

疎開

 十・十空襲後は、日一日と米軍の攻撃が激しくなり、私たち子持ちは疎開するようにという伝達が字事務所からありました。私たち母子と両親は一九四五年(昭和二十)の二月、字事務所に手配してもらった荷馬車で疎開することになりました。二日がかりで辺土名に到着し、地元の大城※※(屋号※※)さんの家にお世話になりました。※※さんは本当に親切にしてくれました。空襲警報が鳴ると「マンナールイチチュンドー(一緒に生きるんだよ)」と私達に言ったり、また漁に出るときは、供出した後に必ず自分の家族の分と、そして私たち一家の分も持って帰ってきました。
北部疎開する人々(宮平良秀画)
画像
 疎開先も爆撃がひどくなり、更に山奥へと逃げなくてはならなくなりました。持っていた食料もやがて底をついたので、宇良という所の畑に芋を盗みに行く途中、思いもかけず叔母の姿を見かけました。叔母は家族と別れたのでしょう、誰もいない小屋で一人、着の身着のまま焚き火にあたっていました。その寂しげな様子は、その後も私の心に強く残りました。
 宇良では、芋畑の主に芋を盗もうとしているところを見つかってしまい、何もとらずに家族の元に戻りました。食べるものをとってくることができなかったので、父は「ヤーサ死にするより敵の弾に当たって死んだほうがいい」と言いました。そこで翌日は山を下りて読谷に帰ろうということになったのですが、自分達のいる山でさえ、どこがどこやら分からないという状況だったので、道案内を一人頼み、五円を支払って山を下りました。このとき山を一緒に下りたのは、私達の家族のほかにも三〇名以上いました。

山中を彷徨(さまよ)う

 私は末っ子を背中に、荷物は頭に載せて、上の二人の子には荷物を持たせて歩きました。長男は四歳、末っ子は二歳で、集団での行動は本当に大変でした。日中は歩き、夜は野宿。雨が降れば持っているむしろをテント代わりにしてしのぎ、足元の悪い道で転んでは起き、転んでは起きしながらの苦しい道のりでした。道中、悪臭が漂う日本兵の死体のそばを通りかかったり、那覇なまりのおばあさんが地面に倒れたような格好で「水を飲ませてください、起こしてください」と体を震わせて哀願している場面を目にしたこともありました。私はこのおばあさんの姿を見て、宇良に一人残っていた叔母も、こんなふうになってしまうのかと涙がでました。
 有銘を通り、安部・嘉陽、汀間と歩きつづけていると甥が泣き出し、一緒に歩いていた人に「その子を殺して、海に投げろ。できなければ俺がやるか」と怒鳴られました。この時のことは、一生忘れることができないと思います。私は本当に悔しくて、「あんたに負んぶされているわけではない。皆自力で歩いているんだから」とこの人に言い返しました。一緒に行動するのはもうやめようと思い、親戚など親しい人たちと共に集団を離れました。

米兵の印象

 同行していた人たちと別れて、しばらく歩いていると米軍のジープに出会いました。米兵はジープを降り、私達に銃を向けました。父と母が両手を上げたので、米兵は銃を下ろし再びジープに乗って何事も無かったかのように立ち去りました。私たちはこの時「米兵は民間人を殺さないのかもしれない」と少し安堵しました。その後、集落はずれに空家を見つけて、そこで寝泊りをするようになりました。周辺の畑で芋を掘ったりしながら皆で生活していると、そこに三人の米兵がやってきました。若い人たちは床下にもぐりこんだり、逃げるのに大慌てでしたが、私は「もう見つかったのに」と覚悟を決め、丹前を頭から被って寝たふりをしました。米兵の靴の音が近づいてきたので、私は飛び起きて「頭が痛い」と手まねで示しました。すると、米兵はタバコに火をつけて私にくれたのです。私が「サンキュー」と言って受け取ったので、米兵は英語が分かると思ったのかどんどん話し掛けてきました。意味は分からなくても、気持ちは通じたような気がしました。
 その翌日、一人でカマスを持って芋掘りに行った帰り、三十代くらいの女の人に出会いました。彼女は脅えて、「姉さん、辺野古学校の近くに行ったら大変ですよ、米兵がたくさん集まって沖縄の人を捕虜にしているよ」と教えてくれました。私はこの話を聞き、辺野古の学校に行ってみようと思いました。泣いて止める子供たちを「泣くな、生かされるか、殺されるか、二つに一つだ」となだめて、学校に向かいました。米兵の姿を見てみると、白人だけではなく、黒人も日本人らしい者も混ざっていたので、私はこの日本人らしいのがスパイなのだと勘違いして憎しみがこみ上げてきました。しかし彼らを通さなければ言葉が通じないので、近くに行って「どうなさるのですか、私達を殺すのですか」と聞くと、この米兵はおかしな日本語で「心配いらん、捕虜だ、捕虜だ、食べ物上げます、家上げます」と答えたのです。この人が二世だったと言うことを知ったのは後のことでした。

収容所にて

 宜野座のテント建ての収容所に連行され、私は道案内をさせられて沖縄の人たちを投降させる手伝いをしました。私に向かって「こいつは米軍の手先だ、日本兵に殺させよう」と言う人もいましたし、また顔を知らない那覇の人に「大変ありがとうございました。おかげ様で配給も受けられ、命が助かった」と礼を言う人もいました。
 宜野座の収容所ではテント住まいの人々の世話役をさせられ、看護婦にもなり、漢那に移動してからは針灸院の助手もしました。やがて父母が石川に移ったのを機会に、私も石川へ移りました。石川からは読谷が近いので読谷芋も手に入るようになり、食料事情も良くなりました。石川に移動した頃には学校もできていて、私の子供も長女と次女が現在の宮森小学校に通うことができました。とはいえ教科書も帳面もない、寺子屋授業のようなものでした。
 しばらくして読谷に移動することになり、波平では規格住宅を割り当てられました。
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