第六章 証言記録
女性の証言


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戦争当時の訓導として

石嶺※※(旧姓大湾 渡具知・※※)大正十一年生

小学校の教員へ

 私は古堅尋常高等小学校を卒業後、一九三七年(昭和十二)兄の勧めで首里にあった沖縄県立女子工芸学校へ入学した。そこで染め物や織物を習っていたが、ちょうど花織の織り方を習っていた頃、戦争の波が押し寄せてきた。次第に戦死者が増え、記念運動場(旧琉大運動場の所)に幾つもの遺骨を一緒にして、中学生も参加して合同葬をやっていた。亡くなった兵士の墓前を通るときには、必ずおじぎをして通らないといけないということにもなっていた。
 同校卒業後、検定を受けて国民学校(小学校)の助教(教員・専科訓導)になり、一九四一年(昭和十六)四月から与那城国民学校で教えていた。当時は各学校に御真影と教育勅語が置かれた奉安殿(室)があり、私の勤めていた学校にもあった。四大節の時には御真影に向かって最敬礼をしてから式典が始められた。
 一九四四年(昭和十九)頃、校長先生がその御真影を学校に置いていては危ないからと、戦火から守るために奉安室から羽地村源河へ運んだ。教育勅語はそのまま奉安室にあったが、十・十空襲後はやはりここでは危ないということで、漆塗りの箱に入れ、学校近くの岩の裂け目を利用した場所に避難させた。
 一方、教職員や子供達の避難場所は、学校隣りの畑に穴を掘っただけのもので、屋根も何もない代物で、そこに学年、組ごとにただ座わって頭を押さえるだけだった。空襲警報がなると決まった場所にきちんと座るという練習をさせていたが、いざという時にこれでは何もならないだろうということで、後からは「自然を利用しましょう」といって、練習も緑葉の下のどこへでももぐりこんで隠れるという風になった。草の下にでも身を隠す方が、命が助かるだろうという考えで、行儀よく整列させるようなことはしなくなった。
 ある日の夕方、空襲警報が発令された。すでに帰宅している場合、職員は学校に集まり、生徒は父兄と一緒に避難するということになっていた。
 私は学校近くで下宿をしており、その日も学校へ行こうとするとその下宿屋のおばあさん(松本※※)が「学校が一番危ないんだよ、爆弾落とされるよ、私と一緒に居なさい」と言って私を引き留めた。このおばあさんは、息子達を南洋の戦地へ送り出して一人ぼっちだった。私は、「そんなことをしたら校長先生に叱られるから」と言ったが、「こんな場合には先生も何もないよ、一緒に行こう」と言われ、結局その夜はおばあさんと一緒に避難場所であった屋慶名の闘牛場へ行った。その夜の闘牛場はまるでお祭りのような騒ぎだった。翌朝、学校へ行くと「大湾先生は何処へ行っていたのか」と聞かれて説明に窮して大変だった。

十・十空襲

 十・十空襲の時も、先のように闘牛場へ避難していたが、そこから下宿屋のおばあさんと一緒に墓のそで辺りに隠れたりしていた。こんな時、逃げ場所はいつも自分で考えないといけなかったが、このおばあさんは、人の集まるところが危ないという考えの人だった。この空襲で与那城あたりの海岸では船に攻撃が集中していて、たくさんの船がやられていた。輸送手段や交通機関をダメにするということだったのだろうか、民家にはあまり爆弾は落としていなかった。船がほとんどやられてからは、敵機は来なくなった。
 小学校の校舎は木造の赤瓦であったが、空襲による被害はなかった。

当時の教育について

大切に保管している当時の辞令書
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 一九四四年(昭和十九)九月三十日、県から訓導として読谷山国民学校へ異動するようにとの辞令を受けていた。本来なら四月の異動が普通だったが、十・十空襲が終わってすぐに読谷の国民学校に赴任した。
 喜名にあった国民学校(元は座喜味にあったが飛行場建設のため立ち退きになり、本校が喜名に移動していた)に行ってみたら、そこに子供達はいなかった。子供達は各字ごとに分散授業という形になっていたのである。あの頃私は渡具知の実家(長兄が継いでいた)に住んでいたから、毎朝渡具知から喜名の本校まで歩いて行き、職員朝会後に都屋まで行って、※※(屋号)のアサギで一〇名ほどの子供達に教えていた。複式学級で手作りの黒板を使って、五年生と六年生を受け持っていた。朝九時に始まる普通授業が終わると本校(喜名)まで戻り、報告してから帰宅するという日課だった。何も乗り物がなかったから、いつも歩いて移動していたので大変だった。
 当時の教材で一番印象に残っているのは、六年生の教材「海ゆかば」である。都屋にも山部隊の兵隊が駐屯していたので、時には兵隊が私の授業を一緒に聴いていることもあった。国語の時間に私が「海ゆかば…」を歌ったり、意味を教えたりしていたら、それを聴いていた北海道出身の兵士に授業が終わってから呼ばれた。彼は「先生、さっきの授業はおもわしくありませんよ。『死ぬ』ということは教えないで、はずしてください。本当は(私たち兵隊も)死にたくないですよ。戦地に来ているけれど、生きて帰りたいといつも思っているんですよ。」と言われた。そして、「死ぬとき『天皇陛下ばんざい』と言って死ぬとか言いますが、誰もそんな事言いませんよ。みんなお母さんの写真とか持っていて、お母さん先に失礼しますとか、そんなふうに、お母さんのことは言いますが。だから、先生の授業を聴いてがっかりしました。これから後はあの教材は止めて、飛ばして下さい。」と言われた。私は、そのことが一生忘れられない。私は「ごめんなさい」と言ってその兵士に謝まった。
 ほんとに軍国主義の教育をやってきたので、当時は教科書の通り、一度も戦争に負けた事がない国で、負けようとすると神風が吹くとか、何の疑いもなく信じて教えていた。一旦緩急あれば、天皇陛下のために命を捧げることに、誰も「いや」と言う人もなく、他の先生方もそのまま教科書通りに教えていた。今考えると、私も戦争協力者だった。何もかも国が言った通りにしなさい、というやり方があのような戦争を招いてしまった。教師もそれを当たり前と思って、国のために死ぬのがいいことだと信じていた。
 しかし、当時同じ喜名の国民学校におられた喜友名※※先生は、こんな風に私に話をしたことがある。体育の時間に竹槍訓練を指導していた時、「※※さん、あなたなら本当にアメリカ兵がやってきたら竹槍を持って向かって行くか。銃火器を持ってくるアメリカ兵に竹槍で向かっても仕方ないでしょう、私なら逃げるよ。」と。あの頃、こんな話を公にすると大変だったが、子供達に竹槍訓練をさせてはいるが、本音は「逃げなさい」という想いだったのだ。その後、私も体育の授業での竹槍訓練では「いざという時は逃げなさい」と教えていた。機関銃に竹槍で向かってもどうにもならない。空襲に対しても、バケツで消火する訓練をしていたのだから、考えてみると笑うにも笑えない話である。
 軍国主義教育については、子供達に対して「バカバカしかったね、ごめんね」と言いたい気持ちだ。教育は人を簡単に変えてしまう。教育は大変大事なことであるし、一面非常に恐ろしいものでもある。
 国がおかしな方向に向かっているなということを肌で感じることがある。それは戦前と戦中、戦後と生きてきた経験がそうさせるのだが、戦後生まれには分かりにくいことかもしれない。戦前と戦後では価値観が全然違う社会になったということでもある。戦争を経験したものは、前と今とを比べることができるから、「これは正しくない、これはできない」と言える。
 戦争はしてはいけない。なぜ人と人とが殺しあいをするのか、なんの得もない。基地は要らない、基地があると戦争につながるということだから。今後は平和でありたい。今からの子どもや孫達にあのような惨めな戦争はさせたくない。

山原へ避難

 読谷山国民学校に赴任して数か月経って、住民は北部へ避難することになった。避難先について区長さんからの説明会があり、健康な人は歩いて行くし、年寄りと足の弱い人は馬車で移動した。
 私の家族も避難したが、私は数名の親戚と渡具知の泊城(トゥマイグスク)の自然壕に残っていた。しかし三月二十三日、家が焼かれてしまったので、宇久田へ向かった。そこで防衛隊か何かの沖縄の兵士に出会い、「こんなところで何をしているか」と言われた。私は「弾薬を運んで兵隊さんの力になります。」と言ったが、その人が「女手で何ができるのか、もうすぐアメリカ軍が上陸してくるから早く山原へ避難しなさい」と言った。私はその頃二十三歳で未婚だったわけだが、今考えるといい兵隊に出会ったと思う。たいていは、こんな場合、兵隊が若い女性を道連れにして戦場をさまよい、一緒に島尻辺りで亡くなっていることが多いと後で知ったからだ。友軍といってもこんなもんだった。私は反対に逃げなさいという兵士に出会った。このことは、ちょっとしたことだが、運命というのはそんなものだと思う。それで私たちは家族が先に避難していた源河へ向かった。途中、三叉路でどの方向に進むべきか迷っていたとき、兄の※※が自転車で迎えに来て、運良く出会うことができた。
 山原の山中では、色々なことがあった。源河というところの林道の上の山手に壕を掘り、家族でここなら大丈夫だと隠れていたのに、朝になったら米軍が向こう側から列になって五、六〇人やってくるのが見えた。それで山手の壕を出て小さい自然壕に一〇人ぐらいで隠れたが、大変窮屈な思いをした。壕の近くに米兵が座って休憩していたが、みんなで息を殺していて、見つからずに済んだ。
 それからまた山奥に入り、川の傍に避難小屋を建ててしばらく暮らした。その時源河の人が「畑の芋を掘りに来ませんか」と声をかけてくれたので、有り難いと思い、たくさんの芋を掘って持ってきた。後で畑はその人のものではなかったと聞いた。その人は「こんなにたくさんの家族がいるのに」と自分の畑ではないが、案内してくれたのであった。また日本兵が来たこともあった。兵隊は「中飛行場を取り返したから、いまに日本が勝つよ」と言った。それで私達は持っていた食料をあれもこれも兵隊にあげて、この情報に喜んだ。だが、後で考えるとあれは逃げる途中の敗残兵で、情報もデタラメであった。

田井等収容所でのくらし

 六月頃、山から下り投降した。アメリカ軍のトラックで羽地の田井等収容所に連れて行かれた。そこで私は、子供達を集めて米兵の邪魔にならないように面倒をみる仕事を与えられた。歌を唄わせたり遊戯をしたりしていたが、次兄(※※・明治三十九年生)も英語の歌を覚えていて子供達に歌わせたりしていた。
 一九四六年(昭和二十一)三月三十一日に羽地初等学校の訓導として辞令を受けた。この時は俸給はなくて、米軍のKレーション(携帯口糧)などの現物支給であった。八か月ほどそこで教員をして読谷に戻ってきた。
(一九九八年八月採録)

コラム

 海ゆかば
 
 海ゆかば みづくかばね
 山ゆかば 草むすかばね
 大君の辺にこそ死なめ
 顧みはせじ
 
 この歌は、『万葉集』卷十八の大伴家持の長歌に出て来る一節に、東京音楽学校の信時潔(のぶとききよし)教授が曲をつけたものである。昭和十二年の「支那事変」の拡大に対応し国民精神総動員運動の中、昭和十二年十月十三日から一週間繰り広げられた「国民精神総動員強調週間」で、ラジオを通じ一般に広められた。
 歌意は「海を渡ってたとえ水中に死ぬようなことがあろうと、山に分け入って、草の生えた屍になるようなことがあろうと、どんな危険の中であれ大君のおそばを離れることはけっしてするまい。一身を顧みず最後まで大君を守って死のう」という内容である(溝口睦子著『古代氏族の系譜』より)。
 昭和十七年十二月十五日、大政翼賛会は「海ゆかば」を国歌「君が代」に次ぐ「国民の歌」に指定して、各種会合では必ず歌うようにと通達。生徒たちは学校で、唱歌の時間に習ったのである。敗戦が近づいてくると、名誉の戦死とか「玉砕」のニュースが報道されるたびに流された。
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