第六章 証言記録
女性の証言


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二人の娘を失って

宇座※※(座喜味・※※)明治三十九年生

山原に避難する前

 当時、夫は古堅国民学校の校長をしていたので、私達一家は古堅に住んでいました。十・十空襲の時には、屋敷内の竪穴式の防空壕に避難しましたが、年が明けて二月頃、空襲が激しくなってからは近くの壕に避難しました。その防空壕は横掘りで、義父の※※が住宅から少し離れた小高い山に一人で造ってくれたものでした。しかし、間もなく義父は病気で亡くなってしまいました。空襲が頻繁にあるので、私たちはやむなく仮墓を造って義父の遺骨をそこに安置しました。
 日を追う毎に空襲はますます激しくなりました。長女の※※と次女の※※は一高女(沖縄県立第一高等女学校)で寮生活をしていましたが、空襲の合間をぬって仲栄真※※先生が古堅の家まで送り届けてくださいました。「女こども」は辺土名へ避難することになったのですが、上の二人(※※と※※)は学校との連絡や軍に協力できるということで、読谷に残ることになりました。私は六名の子供達を連れて一人では行けないと夫に相談しましたが、夫は校長という職務上、学校に残って御真影を守らなければなりませんでした。仕方がないので私たちは先に避難することにし、義父のタナンカ(十四日目)の供養を終えてから辺土名に向かいました。義父が亡くなったのは一月十五日ですから、避難したのは二月初め頃だと思います。
 辺土名へは、当時古堅国民学校に駐屯していた山部隊のトラックに便乗して移動しました。おそらく陣地構築などに使う木材を取りに行くための、運搬用のトラックだったんじゃないかと思います。疎開先までは夫も一緒に行ってくれ、私達を送り届けるとまた読谷へ戻りました。

辺土名での生活

 辺土名では、避難先の住居割当が決まっていました。私達がお世話になった家は、おじいさんとおばあさんの二人暮らしでした。また、そこは伊江島ハンドゥグヮーの生家で、ハンドゥグヮーが生活していたという部屋もありました。
 辺土名のお年寄りは、みな竹槍作りをしていました。当時は女の人でも竹槍を持って米軍に立ち向かうように訓練されていた時代でした。
 辺土名まで来たから、もう絶対安心だと思っていたのですが、到着して一週間ほどが経つと空襲警報が発令されるようになりました。近くにお宮があって、そこが避難場所だったので、小さい子供達を連れて避難しましたが間に合わず、大きな排水溝に隠れたこともありました。
 空襲は激しくなり、現地の人達が造ってくれた山中の避難小屋を目指して、私たちも辺土名の集落から避難することにしました。その避難小屋に行くには川を渡らなければいけなかったので、六人の子供を連れて無事に渡れるのだろうかと私が困っていると「アイ!※※のお母さんでしょう」と声をかける人がいました。見るとそれは馬車に乗った※※(屋号)の池原※※でした。彼は当時十七歳ぐらいだったと思いますが、困っている私たちの傍を偶然にも通りかかったのでした。※※は事情を知ると馬車を馬から外し、私の子供たちを一人ひとり馬に乗せて川を渡してくれました。
 こうして私たちは、無事対岸に辿り着くことができましたが、その先も険しい道のりでした。野宿をするにも、山の斜面に子供たちを寝かせなくてはならず、幼い子供が転がらないように気をつけてあげなければなりませんでした。
 ようやく目的の避難小屋に到着しました。米軍機が飛んでいるのを木立の合間から見かけることもありましたが、夜には辺土名の人たちに付いて芋掘りに行ったりして、何日かは平穏な生活が続きました。
 避難小屋での生活も二か月が過ぎたある日、突然、読谷に残っていた夫と二人の娘が、疲れ果てた姿で私たちの避難小屋に現れました。しかし、家族全員が揃った喜びもつかの間、米軍がすぐ近くまで来ているという情報が入り、もっと奥地に避難しなければならなくなりました。岩陰で休んだり、小枝や木の葉で雨露をしのいだり、とにかく家族が横になれる平地や敵軍に見つからないところ、水のあるところなどを転々としました。
 さまよったあげく私たちは炭焼き小屋を見つけ、そこに住むことにしました。その炭焼き小屋は辺土名の山奥にありましたが、近くには川が流れていて、小エビや蛙、カニがとれるので、食料の足しになるので助かりました。

食料の買い出し

 炭焼き小屋に移ってからは、夫は食料探しに懸命でした。栄養失調で衰弱していく家族のために、宇良集落の山小屋に寝泊りしてソテツをとって来てくれました。ある日、夫が帰ってきて「ソテツを取りに行く道をきれいにしたから、見ておいで」というので、十四歳の長女※※と十三歳の次女※※を連れて見に行きました。「食べるのもないし、どうなるのかねってお母さん心配していたのに、あんた達は痩せもしないで、もっときれいになってるさ」なんて言って笑っていました。
 その晩、取ってきたソテツを炭焼き窯の棚に積んであるのを眺めて「これでもう戦争が続いても心配ないからね」と私が言うと、※※と※※が「お母さん、味噌はある?」と言うんです。私は笑って「味噌は無いさ。味噌はなくてもお腹一杯になればいいよ」と言ったのですが、「よし、明日は塩を買いに行く」と二人が言い出すんですよ。「行ってはだめ」と言っても二人とも聞かないし、叱って止めようとしても、どうしても行くというので、私は二人におにぎりを持たせて行かせることにしました。七月十六日、結局取ってきたソテツを一つも食べないうちに、二人は塩を買いに安波に行ったんです。「今日は私たちの帰りを待たないでね、お母さん。泊まってくるからね、今日は帰らないよ、待たないでよ」と何度もそう言って二人は出かけていきました。安波にいる一高女の桑江という友人の家に泊るつもりだったようです。
 後で分かったことですが、二人が安波に着くと、すぐにもアメリカ兵がやってくるということで、そこの人々は避難準備で大わらわの様子だったということでした。娘たちは「お塩がなくてお願いに来ました」と事情を説明し、塩や食べ物を手に入れたようですが、泊めてもらうつもりだった桑江家はすでに大勢の人の出入りがあり、泊れる状況ではなかったそうです。それで二人は「ここには私達は泊まれないから帰ろう」と相談し、その日の夕方には炭焼き小屋に引き返すことにしたようです。その際、娘たちは買い付けた塩のほかに桑江家の人がくださったカンダバー(芋の葉)とナチョーラー(海人草)を持っていたようです。
 娘たちは、あたりが薄暗くなっていましたが、歩き慣れている道だから大丈夫だと小屋への道を歩いていたんだと思います。しかし、二人は小屋のすぐ近くまでたどり着いたところを、米兵に撃たれて死んでしまったのでした。
 二人が安波へ行った後、正午頃に宇良集落から山城という人が来ました。「米兵達が山の登り口まで来ているので逃げてきた。ここにも、もうすぐ来るよ。早く逃げなさい」と言われました。しかし、私達が移動してしまったら塩を買いに行った娘たちが帰ってきた時に困るだろうと思って、移動できずにいました。
 夕方になって、パンパンと銃声が聞こえ、米兵の声が聞こえてきました。※※と※※は「今日は帰らないよ」と言っていましたが、私はこの日、二人の顔や声が頭にちらついて落ち着かず、なかなか寝ることができませんでした。やがてウトウトし始めると「おかあさん!」という娘の叫び声が聞こえたような気がしました。さらに、「おかあさん、こっちよ、こっちよ」と言うのです。夫にそう言うと「馬鹿じゃないか、そうだったら私にだって聞こえるはずなのに。まず一緒に出てみよう」と言われ、二人で、探しに出てみたんです。「※※、※※」と名を呼んでみましたが、米兵がいるかもしれないと、大きい声は出せませんでしたが、一生懸命に探しました。とにかく悪い予感がするので、安波の方に行く道までも探しました。その後も米兵が出没するので隠れたりしながら、十数日探しましたがそれでも見つかりませんでした。
 その頃、夫は衰弱して動けない状態でした。七月三十日、異様な雰囲気を感じたのでしょうか、夫は「宇良の山城さんの小屋まで行って、様子を見てきてくれ」と私に頼みました。私が訪ねると、彼は幸い小屋にいました。彼は私に「今日中に山を下りなさい。明日から米兵が道を塞ぐという情報が入りました。辺土名の人々は昨日までに全員が下山しています。こちら宇良の人々も今日中には下山することにしますよ」と言うのです。私は急いで炭焼き小屋に戻って夫に相談し、下山することにしました。私は「娘達が、家族がどこに行ったか迷わないように、なんとか考えて」と夫に頼みました。すると夫は板に炭で「奥間に行っておく。すぐ奥間に来るように」と書いて壁に貼ってくれました。そして、私たちは三時ごろ奥間へ向けて出発しようとしたんです。
 そうしたら、とても不思議なんです。私の足が重たくてどうしても前に進めないんです。夫の足も膨れていました。二人ともなかなか動けないので「そんなに急ぐことはないよ、動けないし休憩していこうか、日も暮れているし。朝出ようね」と相談し、私達は道端で一泊することにしました。するとウトウトしていた私の耳に、また「お母さん、こっちよ、こっちよ。何でうちなんかを見ないで行くね」と聞こえるのです。私はびっくりして、隣で寝ている夫を起こし「私達が通ってきた道にいるよ、お父さん。こっちこっちと娘たち呼んでいるから。どこかに隠れていたんだよ、お父さん。探しに行ってみよう」と言って、また二人で探しに行きましたが、やっぱり見つからないんです。この時も夫に叱られました。「耳までおかしくなって」と言われて。私は「とにかくわからないけど、私にはあの子たちの声が聞こえるのに、知らんぷりできないでしょう」と言い返したんです。でも夫に「いいからここに寝て!」と言われ、仕方なく草の中で目をつぶって座っていました。そしたら近くの松の木の上から、十二単衣みたいな真っ白の長い着物を着けて、※※と※※がフワフワ飛んでいくのが見えたんです。本当に不思議なんです。何か知らせようとしてくれたんでしょう。

二人を探す

 その後、奥間で米軍に捕らえられました。夫は私たちに「あの子たちは死んでない。きっと私たちよりも先に捕虜になって、車に乗せられて作業に行かされているんだよ。みんなよく見て探しなさい」と言いました。その日から毎日、車が通るたびに二人を探すのが私たち家族の仕事のようになっていました。しかしこうしてあてもなく探していても、見つかる見込みがないように思われました。
 その頃、米兵と非常に親しく、様々な情報に詳しい通訳がいるというのを聞き、その通訳に二人のことを尋ねてみようという事になりました。その通訳は、ハワイ帰りの伊良皆の人だったと思います。彼にはアメリカ兵が毎晩のように、今日はこんな事があったよと話しているとのことでした。私たち夫婦は「十三歳と十四歳になる娘たちのことを知りたくてやってきました。塩を買いに行ったきり帰ってこないんです。どうなっているのかも全然分からないので、米兵から何か聞いていたら教えて下さい」と通訳の人に頼み込んだけれども、彼も知らなかったので、その日は帰りました。
 二、三日するとすぐに返事が来ました。通訳の人は「あんた達の子とははっきり分からないが、米兵の話によると、リュックサックを背負った人影を見たから、確かに日本兵だと思って撃ったと言うのです。倒れたので行ってみたら女の子だったということでした。二人のアメリカ兵は、あまりにも申し訳なくなって、ごめんなさいと手を合わせて詫びたらしいですよ」と言って、その女の子達が撃たれた場所を教えてくれました。その場所は私達がいた炭焼き小屋のすぐ近くでした。一〇〇メートルと離れていないのです。そして、ウトウトしていた私の耳に「ここよ」と娘の声が聞こえたあの場所でした。私たちはびっくりして「本当にすぐそこまで来ていたのにね、呼んでいるのも聞こえたのに…」と話しました。そして居ても立ってもいられなくて、早速次の日、夜が明けないうちに遺体が運ばれたという松の木の方へ向かいました。
 そこへ行くと端の方に、二人は頭を並べて倒れていました。その骨の傍にカンダバーが生えていました。おそらく安波の桑江家の人が娘に持たせてくれたカンダバーだったのでしょう。今考えると全てが奇跡のように感じられます。他に持っていた物は何も残ってなくて、二人とも学生服を着けていたんですが、その服もボロボロになってしまっていたのに、不思議と名前の刺繍のところだけが残っていたんです。※※と※※はとても用心深く、靴紐が切れた時のことを考えて、代わりの紐をポケットに入れていたんですが、それも残っていました。もう間違いないと思いました。「ほんとにあんた達ね」と、遺骸を見て涙を流しました。こうして引き合わせてくれたのも神様のはからいだったんでしょうか。
 悲しみにくれているうちに、夕闇も迫ってきました。「お父さんとお母さんは時間が遅くなってるからもう帰ろうね。明日迎えに来るから今日はさようなら」と手を合わせて、その日は帰りました。翌日、私たちは石油を持っていって、娘を火葬して連れて帰りました。振り返ってみると、塩を買いに出かけてから四〇日くらい経っていました。

収容後の生活

 奥間で収容され、そこで高等科の恩師平良※※先生に「大宜味で孤児院の子供達をみてくれないか」と頼まれたので、私たちは大宜味村喜如嘉に移りました。孤児院は現在の国道五十八号のそばにあり、もとはお店だったということで大きな瓦葺きの家でした。そこには親とはぐれたりした一四、五名の子供達が収容されていて、ミルクやメリケン粉などの配給が特別にありました。そこで八か月ほど、子どもたちの面倒を見ながら生活した後、石川に移動することになりました。収容児たちは、親が迎えに来たりして人数も減ってきていました。また中部の美里だったと思いますが、そこに孤児院ができて、島内の孤児院を一つに統合するということになりました。それで安心して石川に移動しました。その時、屋号※※(※※)の※※と※※が、家族とはぐれて二人きりになっていましたので、一緒に石川に連れていきました。
米軍が指定する土地へ移動する人々
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 石川へは米軍のトラックで移動しました。石川で夫は大洋初等学校の校長に就きました。家族は、学校の敷地内に校長住宅があり、そこに住んでいました。
 その間に、他の市町村は郷里への移動が許可されて引き揚げていきましたが、読谷にはなかなか移動許可がおりませんでした。しかし、ようやく一九四六年(昭和二十一)八月になって、米軍から許可が下りました。知花英康村長は、さっそく読谷山村建設隊を結成して、先遣隊として村民の移住準備と郷土の再建に向けて取り組みを開始しました。その建設隊を支援する読谷山村建設後援会も組織され、夫はその会長に任ぜられていました。後援会の役割は、各地の収容所に散らばっている村民に建設隊本部の移住計画を説明すると共に、資金造成のための寄付金を募集することでした。
 私たちは一九四六年(昭和二十一)末に移動し、高志保の方でお世話になりました。
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