第六章 証言記録
女性の証言


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海外移住「満州からボリビアへ」

知花※※(喜名・※※)大正元年生(ブラジル在住)

喜名に生まれる

 私は、父我如古※※、母※※の三女として喜名のイリバルで生まれ育ちました。家ではキビを作っていて、私も手伝いをしていました。当時喜名では、キビ作りが盛んで嘉手納製糖工場へ刈り取ったキビを運ぶトロッコが畑の近くを走っていました。

満州へ渡る

 「結婚して幸せになるとか、いい生活ができるとかそういうことは保障はしない。だけど知花※※という人間は保障する」という義兄の言葉だけを信じて、一九四二年(昭和十七)三月に花嫁として満州へ渡りました。何もわからなかったですよ。当時知花※※は、満州国北安省慶城県華陽(現中国慶安)で開拓団長をしていて、腕白盛りの子ども達がいました。十三歳の長女※※に、小学校三年の※※と一年生の※※。もう一人五歳の※※は沖縄にいました。満州でこの子ども達を見たとき、かわいそうでね。見てあげたい、という気持ちで。子供達さえ大きくして、成功させることができたらいいね、という思いになりました。
 寒いところなので手を洗わなかったら、しもやけであかぎれになって痛いものだから、子ども達はよけいに手を洗わなくて、ひどくなっていました。洗面器にお湯を入れて子ども達の手足を洗おうとすると、子ども達はいやがって逃げ回ったものです。お湯を入れる準備をしていると分かったらもう、逃げていましたから(笑)。私も走っていって追いまわして、つかまえてから手足をお湯に浸して、石鹸で洗ってから薬をつけたものです。寒いところなのでいろいろありました。

満州の様子

 満州の冬は、マイナス四〇度という寒さでした。向こうには大きな川がありましたが、冬になると凍ってしまって、その上をトラックや馬車が走っていました。春になると氷が溶けて船が行き交っていました。すごいところではありました。服も手袋も毛皮で出来ていましたが、これを着けないと外を歩くことが出来ませんでした。家の中にはオンドル(暖房装置)があり、ペーチカを焚いていました。寒いところは寒いところなりに、昔ながらのやり方でよく考えられているものです。
 向こうではヨモギも人の背丈ほど高く成長して、茎も太くて沖縄のヨモギとはぜんぜん違いました。ヨモギは食用にもなりましたが、冬になると、家の周囲のヨモギを全部きれいに刈りとって、それを乾燥させて薪がわりに使っていました。雪は降りましたが、積もるということはなく、地面が固く凍結している状態でした。あまりに寒いと雪も多くは降らないようでした。
 家の中でも暖房の効かない所で眠ると、朝起きると自分の吐く息で、口の近くの毛布や髪の毛に、白く霜が降りていました。風呂場も母屋から離れていたので、お風呂上りに母屋に戻る数メートルの間に、髪の毛がスルメのように凍っていました。モチを作ってゴザを敷いて並べると、一時間ではカチカチに凍っていました。
 春になると黄砂が飛んで来るので、その時期には、外を歩くにも霧のようになって前も見えないくらいでした。移動には徒歩や馬、ロバを使っていましたが、冬はソリでした。狼もいて、夜には遠吠えも聞こえていました。開拓団は、各集団ごとにまとまって暮らしていたのですが、集団と集団の間は山になっていました。この山の中の道を、長男の※※と一緒に歩いていたとき、狼が前の方を横切るのを見たことがあります。狼に山羊などの家畜を襲われたこともありました。
 一九四四年(昭和十九)一月、※※が生まれました。

終戦と帰国

 開拓団の指導員として満州へ行った夫は、終戦時にはハルピンという都会の農産公社に勤めていました。その関係で、帰国する最後の時まで食料に困るということはあまりありませんでした。戦争になったときに会社から割り当ての食料(米俵を五、六つ、メリケン粉、砂糖など)をもらっていましたから。それを蓄えておいて、夫は敗戦後難民救済ボランティアとして町に出ていって、迷っている人達、沖縄の人達を集めてきては、家に連れてきてご飯をあげていました。「あるものは、あるまではみんなで分けて食べればいい」という考えの人で、沖縄出身の家族を家に連れてきて一緒に住んでいましたが、それもかなわない人にはせめて一食でもあげたい、という思いで毎日家に人を連れて帰って来ていました。そんな敗戦後の混乱の中、一九四五年(昭和二十)十二月に自宅で※※が生まれました。
 一九四六年(昭和二十一)十月の末に、沖縄に引き揚げてきましたが、それからは、食料が無くて大変でした。そのことはみんな同じだったでしょうが、ちっちゃなイモで作ったウムニーグァーや、蘇鉄の中身を毒抜きして食べたりしていました。戦後の沖縄の生活というのは、みんな大変だったと思います。

ボリビアへ開拓移民

 沖縄に戻り、戦後の復興期を読谷村で暮らしていました。夫は役場の産業課関係の仕事や農協長を勤め、また私企業を起こしたり、様々なことをして暮らしを支えていました。読谷で※※と※※が生まれました。
 一九五八年(昭和三十三)七月、夫は移民金庫の理事として南米各地への現地調査へ行きました。そうして、その中でもボリビアをとても気にいったようで、今度はボリビアに移民することを決めてきました。
 まずは一九五八年(昭和三十三)十月に、叔父家族と共に長男、次男、三男がボリビアへ渡りました。この時、男達だけでは食事に困るだろうと、当時七十七歳になっていた夫の母※※が一緒に行きました。みんなの面倒を見るためでした。ボリビアの現地までは、当時は二か月間の船旅を経て、一〇日間列車に乗りつづけて行くという道程でした。お母さんは気丈夫で働き者で、本当に偉い人でした。この時期の列車は薪を燃料に走っているもので、燃料がなくなると列車を止めて周囲の木を集めて燃料にするというものでした。おとぎ話のようで今では信じられません。生活用品は全く何もない場所へ行くということで、食器やドラム缶、石臼までも持参した旅だったということです。
 一九六〇年(昭和三十五)に四男の※※が、翌六一年十二月に夫、※※がボリビアへ渡り、駐在事務所に着任しました。そして一九六二年(昭和三十七)二月、夫からの呼び寄せで、三名の子ども達(※※、※※、※※)を連れて私もボリビアへ渡りました。
 ボリビアに到着した当初は、森林を切り開いて道をつけながら進んだものでした。最初に着いたときは、こんなところに来て一体どうなるのかね、と思いました。水道も井戸さえも無くて、溜まり水を汲んできて、それを沸騰させてから飲み水にしたのですから。ようやく井戸を掘ったものの、部落で一つか二つしか無かったので、みんな水を担いで家まで運んでいました。電気もなく、冷蔵庫なんかもちろんない頃です。
 大きな木などは今は機械で簡単に切れるのですが、当時は一本一本鋸をひいて切ってゆく作業でした。一人で馬車に乗って木を運んだこともあります。夫が原始林から木を切り、私が一本ずつ馬車で運んで、それで家を建てました。
 農地は原始林を伐採して、火をつけて焼いてから、そこに種や苗を植えつけました。全く何もかも無からの出発でした。今ではほとんどの山を切り開いて、近くには森を捜せないくらいになっています。

アリの大群

 山を切り開いて住み始めたものだから、家の入口まで大きな毒蛇が来ていたこともあります。またアリの大群が家に入ってきたこともあります。それが人間も刺すものだから、周りの人たちからは「これは絶対さわるなよ」と教えられていました。だから知らん振りをしてその行列が家を出ていくまで待ちました。アリは列を乱さず前のものについていくので、部屋の中でもまっすぐ突き進むのです。全てのアリが通りすぎた後は何事もなかったように元通りなのです。向こうには大きなアリ塚が、たくさんありましたが、これは大きくて非常に固いものでした。向こうのアリは沖縄のアリとはくらべものにならないほど、大変大きな黒いアリでした。そういうわけで、とにかくアリが行く道を邪魔したら大変でした。
 また、蚊もたくさんいました。行った当初の蚊のことは本当に忘れられません。それもこっちの蚊とは全然違う、大きな蚊だったのです。いっぱい刺されました。この蚊を避けるために子どもたちは昼でも蚊帳の中に入れて寝かせていたくらいです。
 周りは山ばかりでもともとは虫たちやヘビ、動物の棲息地で、そこに入植していったわけですから、それはもう話にならないほどでした。でも来てしまった以上逃げ場もないのでね。行った時期のことを考えると夢のようです。
 そんな土地での生活なので体の弱い人や病気になった人は、生活が何も前に進まなかったのです。耐えきれずに違う場所へ移動したり、沖縄に帰った人も多かったのです。

満州とボリビア

 満州開拓は、開拓とはいえ、すでに満州に住んでいた人を追い出してそこに住んだわけですから、ボリビアのように最初から始めるというわけではありませんでした。だから、開拓の労力というものはくらべものにはなりません。しかし満州では、そのようなわけで地元の人々からの反感が大きかったのです。それにひきかえボリビアの場合は原野や森林を切り開いて農地にしていったわけですから、向こうの人から感謝されているぐらいです。現地の人でも仕事のなかった人たちを、日雇いで雇って、食事も出すということもやっていました。沖縄の人が仕事をくれるということで、有りがたがられるという立場でした。今では大規模な農業経営をしている沖縄の人がたくさんいます。
 これが、満州とボリビアとの大きな違いの一つです。

開拓地への移民

 私は二度開拓地へ行ったわけですが、おもしろいことに村内でも戦前フィリピンなどへ移民に行った人たちが、また戦後、南米へ移民に行ったという人も多いのです。やはり、移民に苦労はつきものだと分かってはいても、狭い沖縄では我慢ができなかったのでしょうか。何か自分の力でやってみたいと思っても沖縄では限られていて、手も足も出ない。穏やかに生きていけるという良さでもありますが、そこにいればまあまあ何とかなるという、そんな面がありますから。
 夫には、自分の力をできる限り試してみたいという思いがあったと思います。また、子どもも多かったので、広いところへ行きたかったのだと思います。当時の沖縄はアメリカ統治下で子どもが落ち付いて勉強できる環境ではありませんでした。

今振り返って

 私は今、ブラジルに住んでいます。子どもや孫たちはもう、この国の言葉も堪能で、私はあまり分からなくても、若い人が何でも伝えてくれるので、不自由はしません。お陰で私は子ども達のところをあちこち飛び回って遊んでいます。
 あまり過ぎたことは振りかえらないのですが、今こうして幸せに暮らしていることに感謝しています。子どもや孫がこんなによく私の面倒を見てくれるものだから、何もしてあげられなかったのにすまないな、と思います。だから昔の苦労なんか、考えたことはありません。そういう気持ちですから、今があると思うのです。子ども達も大きくなり、本当にお陰さまです。

コラム

ボリビアの《沖縄移住地》について

 沖縄は一九四五年から七二年まで二十七年間にわたって米軍統治下にあった。その間、米軍は広大な軍事施設を建設し、多くの住民が行き場を失う。そこで、米軍の指導下にあった琉球政府は、一九五四年に「ボリビア計画移民」の公募を開始し、約十年間でおよそ三〇〇〇人の「琉球移民」をボリビア共和国へ送り出す。移住者は原生林の中で村づくりに励むが、熱病の発生、移住地の移転、たびかさなる洪水などに翻弄され、多くの移住者が近郊都市や隣国などへ転住する。沖縄移住地に住む日系人は一九九七年現在、一〇〇〇人にも満たない。だが、第一次移民の入植から四三年、今日ではボリビア有数の穀物生産地に発展し、「コロニア・オキナワ」の名で広く知られるようになった。その名は地図にも刻み込まれ、近代的な「モデル農村」として讃えられている。日系人以外の住民を含めた推定人口は七〇〇〇人。平野部に位置し、行政区はサンタクルス県ワイネス郡に属する。
『沖縄移住地 ボリビアの大地とともに』 具志堅興貞著 一九九七年より
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