第六章 証言記録
女性の証言


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陸軍戦闘指揮所の事務員として

国吉※※(旧姓池原・※※)大正十二年生

日本陸軍戦闘指揮所

 一九四四年(昭和十九)の十月頃、役場に勤めていた儀間※※(字儀間・※※)の推薦で、私は彼の妹の※※と二人で球九一七三部隊の事務所員の試験を受けることになりました。試験に先立って、身元を証明する戸籍謄本などの書類を提出し、筆記試験を受け、採用が決まりました。
 球九一七三部隊は飛行場大隊といって、読谷の北飛行場周辺に駐屯していました。私が勤めることになった事務所は正式名称を「日本陸軍戦闘指揮所」といい、飛行場から約三〇メートル北の、こんもり茂る森に目立たぬように置かれていました。この事務所は秘密任務を扱うところだったので、屋根や窓は木の葉で偽装して、扉も丸太を真っ二つに割っただけの物で作られていました。
 事務所の前には常に見張りの兵隊が立っていて、関係者以外は絶対に近づけないという厳重ぶりでした。ですからこの事務所の存在は、村民には全くと言っていいほど知られていませんでした。しかし一方、事務所の周辺にはたくさんの壕が掘られ、日本兵の出入りが激しい場所でもありました。また、私達の事務所のすぐ裏手に流れる川を一〇〇メートルほど下ると、若い兵士たちがにぎやかに水浴びをする場所もありました。

事務所員たち

 事務所には、私のような事務員と兵隊がいました。事務所を取り仕切っていたのは家田中尉で、彼は「隊長」と呼ばれていました。色黒で、太った体と丸顔にめがねが特徴の人で下の名前を※※といいましたが、その名前から受ける印象どおりの穏和な方でした。
 事務所には縦一・五メートル、横一メートルぐらいの机を置いて、みなそこで各自の仕事をしていました。家田中尉の左隣は菅沼軍曹が、向かいには山桝特務曹長が、そして左斜め向かいに豊沢竹四郎伍長が座っていました。
 豊沢伍長は一高を優秀な成績で卒業した人で、球九一七三部隊の会計をしていました。そろばんを素早くはじいて計算している姿を見て「見事だなー」と感心したものです。とてもまじめで几帳面な人で、私が記録した書類を検閲してもらったときなど、一字でも誤字・脱字があると全て書き直させられました。
 一般徴用で事務所に来ていたのは四人で、私と一緒に入所試験を受けた儀間※※が一番若く、十九歳ぐらいでした。みぞおちのところまである長いおさげ髪の毛先を、口にもっていくのがくせの、まだあどけないお嬢さんでした。
 比嘉※※は飛行場建設の徴用人夫の給与計算を担当していました。私は机に置かれた大きな電話のそばで、儀間※※(字渡慶次・※※)と一緒に、「飛行機発見、六の方向、高度三〇〇、三機編隊」というふうに飛行機の離着陸を受信し、電話で大隊本部に報告したり、暗号などを本部に発信する役目でした。また記録係として風の向きなどを記録していました。風の向きは、飛行場の滑走路に立てられた吹流しを、事務所の屋上にのぼって観測することで調べることができました。
 あるときは、大隊本部から受信した情報に慌ててしまい、向かいに座っていた家田中尉がめがねの奥から目を光らせて、「敵機か、慌てるな」と言われたこともありました。私ははっと我に返り、「アア…友軍です」と答えたのですが、家田中尉のめがねの奥の目や、声の様子などは、今でも強い印象として残っています。

事件・事故

 一九四四年(昭和十九)十二月二十七日の昼食時間、始動機車に乗った兵たちが私たちの事務所にお昼を食べにきました。彼らは飛行場に始動機車を駐車し、事務所までは徒歩で来ていたようです。
 彼らの弁当はニージャー芋入りのご飯で、私はちょうどその日、白米のお弁当を持っていたので、彼らはそれをみて「あ、銀飯だ」としきりにうらやましがりました。しょうがないので、私が弁当を分けてあげると、藤田という軍曹が「始動機車にはまだ人が乗ってるんだ。あいつも来ればいいのに。食事に誘ったけど、『寝ていたほうが良いから』と言われてね」と話していました。
 みなでお茶などを飲んで、たわいのない話をしていたその時(編者注 午後一時二十分・第五十六飛行場大隊の陣中日誌より)、外から、何かが激しくぶつかるような物すごい音がしました。「これ、事故だー!」と兵隊さんたちが飛び出していったので、私たち女子事務員も後を追いました。外へ出てみると、飛行場の滑走路のすぐそばに駐車してあった始動機車に飛行機が突っ込んでいるのが見えました。三〇メートルほど先に飛行場の滑走路があり、そこから滑ってきた飛行機が突っ込んだようで、飛行機のプロペラが始動機車の助手席をかすったのか乗っていた人の首から鮮血が吹き出していました。やがて機に火がまわり、炎上しました。
 徴用人夫を取り仕切っていた井澤曹長が、そばにいた知花※※が持っていた鎌をパッととると、燃えさかる火の中に飛び込みました。航空兵のシートベルトを鎌で断ち切り、操縦席で気を失っている航空兵を救出しました。その姿は戦場の武士を思わせるたのもしさと迅速さでした。救出された航空兵はすぐに医務室に運ばれました。
 この事故に限らず、未熟な飛行士の起こす事故はいくつもあり、墜落して炎上し、丸焦げになった飛行機と遺体が発見された事もありました。
 また、こんなこともありました。フィリピンへ一一人の特攻隊を送り出すということで、家田中尉が見送りに行こうと言うので、事務所員全員で飛行場に行きました。
 飛行場では真っ白い布を掛けた机に菊杯(菊の御紋章入りの杯)を並べて、航空隊長が若い特攻兵らと別れの乾杯をしているところでした。「特攻隊あっての日本だ。いさぎよく死んでまいれ」と隊長が言い、彼らは「はい、天皇陛下のために死んでまいります」と答えていました。飛び立っていった彼らを見送った後の事務所への帰り道、家田中尉は私たち女子事務員に「君たちもああいう子を産めるか。あの子たちの親のようになれるか」と誇らしげに言いました。
 こうした軍隊の中ですから、女の私でさえ大和魂が燃え上がるのを覚えました。

豊沢伍長の死

 年が明けて一九四五年(昭和二十)、米軍の攻撃は日増しに激しくなり、特に飛行場への攻撃は凄まじいものでした。
 この頃から、座喜味にあった※※(屋号)という家も事務所として使うようになり、必要に応じて二つの事務所を行き来して仕事をするようになりました。第二事務所となったその家は、とても立派で公民館のように大きく、家主が疎開していて空き家だったので事務所として使うのには好都合でした。
 米軍の爆撃が激しくなるに連れて、※※は出勤するのは気が進まないようでした。実際、大隊本部が発信してきた戦況を示す暗号は「ヒケ二」でこれは沖縄への米軍上陸は必至という意味でした。仕事上、私たちは一般住民よりも戦況の悪化を知っているわけですから、※※の気持ちは私にもよくわかりました。しかし私は毎日出勤しなければどうしても気が収まらず、また家は渡慶次で事務所員の中でも遠かったのですが、早々と出勤するのが常で、その日、一月三日も早めに出勤していました。
 事務所には豊沢伍長と菅沼軍曹、そして山桝特務曹長がいて「昨日はうんと飲んでね」と睡眠不足の真っ赤な目で話をしていました。沖縄が戦場と化すことが分って、上下の関係もとっぱらって元旦にみなで酒盛りをしたようです。そのときに豊沢伍長は和歌を詠んだそうで、「『散り清き 花こそ歌わる世の人に 桜花こそわが身あれ』という和歌だったんだよ」などと私に話してくれました。私が彼の和歌に感心していると、家田中尉がいつものように馬に乗って出勤してきました。
 事務所のそばのガジマルに馬をつないで、中尉が事務所に出勤してきて間もなくのことでした。
 その時、ギューンという耳をつんざくような音と共に三機編隊の敵のグラマンが、地上から約三メートルくらいの低空で飛行してきて、「ダ、ダ、ダ、ダー」と弾を事務所に撃ち込んで来ました。「空襲だー!こらぁ大変だー!!」あまりの低空飛行なので、事務所の窓からでも、背中合わせに座る米軍航空兵の顔が見えるほどでした。
 敵機はさんざん弾を撃ち込んだ後、一体どんな訓練を受けているのか、宙返りをして方向転換をすると、銃撃を続けながら去っていきました。
 この隙に、中尉は軍刀を手で押さえながら匍匐(ほふく)で事務所から逃げました。私は「アギヨー、ワッター隊長も逃げるのに、私も逃げよう」と思いましたが、豊沢伍長が「書類、書類、書類」と言いながら、あっちこっちから書類をかき集めて事務所の机の上に広げ、風呂敷に包もうとしているのを見て、部隊から持ってくるようにと頼まれていた卵が、自分のかばんに入っているのを思い出しました。「ちゃんと渡しておかなければ、貴重な卵がもったいない」と思い、私は慌てて書類を包んでいる豊沢伍長の真後ろに立ち「ハイ、卵」と差し出しました。
 豊沢伍長は、また攻撃を受けた際に書類を燃やしてはいけないと思ったのでしょう、ものすごい形相で、「これじゃない!書類!!」と卵を押しのけました。
 私の前には豊沢伍長が立っていて、彼の正面には机をはさんで窓がありました。その時、「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ」とものすごい衝撃が事務所全体に走り、ふたたび米軍機の銃撃が始まりました。豊沢伍長が「わぁー、逃げろ」と叫び、私は豊沢伍長の後ろでびっくりして身をかがめました。その時、「プスーン」という音がして、私の頭頂部に熱いものが走り、パッと顔を上げると豊沢伍長の背中が、大きくえぐれて、その肉が壁や天井や床や、そして私の服にも飛び散っていました。豊沢伍長は「逃げろ、娘を死なせては申し訳ない、逃げろ」と言うと、バタンと倒れました。胸には弾が貫通した跡が小さくありました。
 私は、すさまじい攻撃から身を隠そうと思い、人が二人は入れるぐらいの大きな改良釜があったのを思い出し、その中に慌てて隠れました。カマの中でうずくまり、両の親指を耳に当て、両手の四本指で目を覆い、前腕部で胸をかくして心臓を守りました。
 そうやって一時間か、一時間半ぐらい経ったでしょうか。爆撃が止み、壕などに隠れていた人たちも続々と戻ってきました。私が隠れている所にも、知花※※が来て「ウリ、解除ナトーンド」と呼びかけてくれました。釜から出ると、彼は釜に入ってススだらけになった私の顔をみて「ヤーヨー」(「おまえひどい顔だぞ」というニュアンス)と言いましたが、私は「それどころじゃありませんよ」とこたえました。
 負傷した豊沢伍長は五本の指で床にしがみつき、血の海にあえいでいましたが、三八の後から家田中尉や菅沼軍曹たちが、避難していた壕から事務所に戻ってきたのを見て「隊長殿!隊長殿!」と呼びながら、玄関に立っている彼らに向かって這っていこうしました。ダラダラと血が流れ、顔は蒼白で息をするたびに血がドッと口や鼻から溢れ出しました。
 その時、母さんにすがりたいという気持ちからでしょうか、やがて「お母ぁー、おふくろー」とお母さんの名を呼び始めました。断末魔の叫びですから、負傷したとは考えられないほどの大きな声でした。「おっかー…、おっかー、水くれ、水ってば!…ああ、苦しい…助けて」と、三つの子供がお母さんに甘えるみたいな声で大粒の涙を流しました。人間というのは、あんなに大怪我をしてもすぐには死ねないんです。家田隊長はもだえ苦しむ豊沢伍長を見て、「菅沼、楽にしてやれ」と命じました。菅沼軍曹は「はい」と言うと、銃でドンと豊沢伍長を撃ちました。
 撃たれる間際、豊沢伍長は「お父ー、ごめんよ」とつぶやきました。一高を出た人で、理想もあったでしょうから、「アメリカ兵をやっつけて、死ぬなら…。名誉の戦死をしたい」と思っていたでしょうに。父子の杯さかずきの責任を果せなくて自分が非業の死を遂げるのが悔しくて、だから最後に「ごめんよ」と言ったんじゃないかなって私は思うんです。
 ふと自分の体を見ると、私の髪やもんぺに飛び散った豊沢伍長の肉片がろうそくみたいに張り付いていました。それがなかなか取れないので、私は服は捨て、髪はやむなく切りました。
 こういった人たちの死に接して、私の敵愾心は燃え上がり「仇を討つぞ、勝ってやるぞ」と愛国心はいや増すばかりでした。

解散と国頭避難

 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、「ヒケ三」(編者注 「玉砕」の意という)の暗号が入り、私たち事務員は家族のもとへ帰されることになりました。家田中尉は私たちに「大和撫子はいさぎよく死ねよ。お化粧ぐらいはして、立派に死ぬんだよ」と言った後、「豊沢は幸せ者だよ。あいつは家に遺骨も届いただろう、俺たちは沖縄の土と化すだけさ。妻子を持たなかったのが何よりの慰めだ」と言っていました。
 私は家族の元に戻りました。父は非常に頑固者で「日本は負けるもんか、負けるもんか」と言いつづけてなかなか避難しようとはしませんでしたが、艦砲射撃が始まるとさすがに疎開することを許してくれました。
 私たち一家は冨着へ行き、金城※※宅の壕にしばらくお世話になりました。米軍はその間も昼夜を分かたず大空襲、艦砲射撃を続けていました。壕から一歩も外へ出られず、子どもがお腹を空かして泣くと「壕の外に出ろ、泣き声聞いて爆撃されたら皆の命まで失うぞ」と醜い言い争いをする場面もありました。
 四月一日、アメリカ軍が砂辺の浜から上陸したとの情報が入り「壕にいる者は皆逃げろ、敵が上陸してきたよ」と警防団員が呼びかけ、乳幼児をおぶる人、足をひきずる人、病める人たちまでも各自もてるだけの荷物を持って、国頭を目指して声を殺して移動し始めました。日本軍のトラックがライトを消し、木の枝で擬装して島尻へと猛スピードで走っていくのを見て、皆必死なのだと思いました。みんなが夜の闇の中で移動する様は、まるで「暗闇」が動いているようにも感じられました。
 雨が降り続いて道はぬかるんでいました。何日も歩き続けると、飢えと疲れで、どこをどう歩いているのかも分からなくなりました。
 目的地にしていた山に着いたのは明け方でした。あたりが明るくなって初めて、父がいないことに気付きました。歩いている間は、家族がはぐれていないかどうかと振りかえる気力さえ無くしていて、父がいなくなっていたのに気付かなかったんです。母は父が殺されたのではないかと心配しましたが、私は「自分たちも、行く先どうなるか分からないのだ」と思うと、父のことなどかまっておれないという気持ちになっていました。
 荷物も、疲れるにつれ一つずつ捨てていたので、持っていたのは煮干しだけでした。

米兵に捕まる

 山のいたるところが燃えていて、すぐ近くを敵機が飛び、海は米軍の艦船で埋めつくされていました。「ヒケ三」で解散になったのですから、沖縄がもはや負け戦をしていることは知っていました。
 沖縄はすでに変わり果てた姿になっていました。死んだ家畜が腐って大変な悪臭がすると、やけくそになっていた自分の心がはっと我に返り、もしや自分の父や知人が倒れているのではないかと胸が痛みました。無人の民家に入り、鍋の中にすえたオカラを見つけて、みなで分け合って食べましたがすぐにお腹をこわしてしまいました。
 よけいにふらふらになって、途方にくれている所を米兵に見つかりました。頭をよぎったのは、「本当に日本は負けてしまったんだな」ということでした。教えられていたように死ぬことは、誰も出来ませんでした。私は米兵から身を守ろうと、日露戦争帰りの伯父がかつて教えてくれた通りに、鍋のすすと土を顔や手足に塗り、着物を裏返しに着て、縄帯をしめて女とはわからないようにしました。

金武の収容所で

 私たちはトラックに乗せられ、降ろされた所は金武でした。多くの避難民がいて、同じ村の人もいました。私たち一家は他所の家の軒下にテントを張り、ひとまず落ちつきました。
 米軍による食糧の配給で腹を満たすと、「もう、アメリカーがいい、友軍が敵だ」と言う人もいましたが、私は決して愛国心を捨てませんでした。収容所では沖縄人同士の争いも絶えず、「人の心は変わるものだ。自分も変わった。どうせ敗戦国の民だ」というむなしい気持ちになりました。
 父の行方がわからないままに何日も過ぎたある日のこと、MPが「ムツメ、ムツメ」と私たちのテントに入って来て、私を連れ去ろうとした事がありました。母が手を合わせて「命を助けて下さい」と頭を地面につけて、泣いて哀願すると、あきらめたのか去っていきました。
 その後、私は金武小学校にあったテント張りの病院で四人の女性と一緒に看護婦として働くことになりました。島尻から、負傷した何百人もの住民が運ばれてきました。痛みに堪えかねてうなる者等、死の直前の人間を目の当たりにして、ここは地獄絵巻きを見ているようだと思いました。通訳の二世は呆然としている私に向かって「午前八時より午後五時まで勤務せよ。夜は米兵が看る」と命令的に言っただけでした。
 看護婦は受け持ちのベッドが決まっていました。私が任された患者の中に、両手と片足を失った四十歳ぐらいの母親と生後八か月ぐらいの女の子がいました。
 母親は運ばれてきた時、すでに意識不明で足の切り口は深い穴があき、ウジ虫がいっぱいわき出ていました。私はそれを紙切れで取り除いたり、水を飲ませたりしていました。赤ちゃんは私が抱き上げると人見知りして泣くのですが、喉がかれて声は出ませんでした。
 幾日もしないうちに、その母親は亡くなりました。髪が汚れ放題、顔は垢だらけでまるでやせこけた猫みたいな姿でした。母親の死をわからない赤ちゃんは、無心に母親のお乳を吸っていました。二人があまりにも気の毒で私は思わず泣きました。「こんな小さな子どもまで戦争に巻き込まれて、私たちが受けた戦争の悲しみよりも、島尻の方はひどかったのね」と泣けてしょうがありませんでした。
 この母親が死亡したことを米兵に知らせると、二、三人の米兵がやって来ました。彼らは一人残された赤ちゃんをタオルにくるんで、何処かへ連れて行こうとしました。赤ちゃんは母親の方に向かって手を伸ばし、泣き疲れた小さな顔はしかめっ面をしていたのが忘れられません。母親は近くの畑に埋められました。
 金武で暮らし始めて二か月ほど経ったころ、知人の伊波※※が呼びに来てくださり、石川へ移ることにしました。九月頃のことだったと思います。
 石川の収容所に移ってしばらくしてから、山中で離れ離れになったままだった父と再会することができました。
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