第六章 証言記録
女性の証言


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字上地の様子と私の戦争体験

照屋※※(上地・※※)大正九年生

上地に生れる

 一九二〇年(大正九)、私は※※の長女として字上地で生れた。ずっと昔はたくさん家があったらしいが、私の学校時代の上地には一三軒ほどしか家がなかった。上地は読谷山村の中で一番小さい字(あざ)だが「絶対どこともひっついてはいけない(他字と合併してはいけない)」と誰かに聞いた。理由を聞いたことがあるが、忘れてしまった。小さい集落だから、先祖をたどって行けばほとんどエーカ(親戚関係)になっている。
 昔、上地の集落があった場所は、現在の場所よりも上の方の「フルジマ」と呼ばれるところにあった。後に、今のイーチムラ(上地ムラ)のある場所に移ってきたと聞いている。
 戦前は上地で何か行事をするときは、※※の隣りにあったアサギジョー(仲呉屋)に集まってやっていた。アサギジョーは字上地のムートゥヤーで、昔の言葉でニードゥクマ(根屋)といったが、七月エイサー、ウマチー、綱引きなどのときも、まずはここで拝みをしてから始めていた。綱引きは、小さなムラなので人数が少なくてできなかった。それで旗頭(ハタガシラ)だけを出して、部落内を鉦(カネ)を叩きながら、練り歩いていたのを覚えている。
 戦前の小学校区の運動会では、人口が少ない上地、長田、親志の三部落が合同で参加していた。今は上地集落にもたくさんの人が住んでいるが、昔からの上地の人はそう多くはないと思う。
 私は読谷山尋常高等小学校に通っていたが、そこには長田、伊良皆、喜名、座喜味、波平、上地、親志の人が通っていた。学校時代の同級生は上地には二人しかいない。学校では尋常科三年生まで通ったが、それ以降は弟たちの面倒をみるために学校へは行けなかった。今でいう戦前の小学校は、読谷、渡慶次、古堅の三校であった。それ以外には喜名に分教場があった。
 一九三九年(昭和十四)、私の父城間※※は南洋のテニアンへ出稼ぎに行った。その翌年父は次男(※※)と三男(※※)を呼び寄せた。この三人はテニアンで終戦を迎えている。

出征兵士の見送り

 字から出征する人は、まずアサギジョーを拝み、喜名の観音堂を拝んだ。そうして嘉手納の駅までみんなで歩いて見送った。当時は客馬車が嘉手納まで行っていたが、それには乗らずに、みんなで歩いて行った。こうして出征の日には、字中の人で見送った。その後本人が行ってしまってから、船で読谷の沖を通る時間を見計らって、海に向かって、青松葉などをくべて「ウヌ キブシ ンジーネー ワッターンディ ウムリヨー(この煙を見たら私達だと思って下さいよ)」と言って見送った。どの船に出征兵士が乗っているかわからないけれども、とにかく船が通ると煙をたいて手をふりながら見送った。おばーたちはよく泣きながら送っていた。こうして船を見送ることがよくあったので、年寄りたちは、夕飯時に家の中が煙っていると、「イッター フナウクイドゥ ソーンナー(あんた、船送りをしてるの)」とよく言っていた。

読谷山北飛行場建設

 私は、当時バサムッチャー(荷馬車持ち)の傍らウマバクヨー(馬博労)をしていた上地の屋号※※の照屋※※と結婚した。当時はウマディマという習慣があった。上地以外の人のもとへ嫁に行く時は、相手方からの貰う結納金が同じ字の人と比べて、高くなるというものだ。半年に一回無尽(ムジン)(互いの掛け金で金銭を融通することを目的とする会。模合)をして十円だったころ、ウマディマ(結納金)は二十三円だった。私の結婚の時の結納金は八〇銭だった。これは同じ字内での結婚だったからである。また、子どもが産まれたら、誕生祝いといって豆腐を二、三丁持って行った。これは産後の母親に栄養をつけさせるという意味でもあった。
 私の嫁ぎ先、※※は上地の中で一番大きな瓦葺きの家だった。馬を三頭に豚を一頭飼っていた。そこで、私は家畜の飼育の傍ら農業をしていた。
 一九四三年(昭和十八)に飛行場建設が始まった頃は、沖縄中からたくさんの建設人夫が徴用され、※※に寝泊りしていた。上地は飛行場に面しているので、たくさんの人夫に家を貸していた。特に島尻方面からの人が多かった。※※にも喜屋武、真壁からきた徴用の学生が長期滞在して、飛行場で働いていた。食事は、私たちが人夫の分まで準備していた。人夫は日当を貰って作業していたので、家賃は取らなかったが、食事代はもらっていたと思う。よく覚えてないが、食費は四、五銭程貰っていたはずだ。
 飛行場建設は国場組が請け負っていたが、この飛行場建設の関係で相庭※※が読谷にきていた。この人は本土の人で、たいへんチュブルチリヤー(頭が良い人)だったが、上地の屋号※※の娘(※※)と結婚して、上地の人になっていた。
 また当時は供出があり、芋とか野菜を出した。

兵隊の宿泊

 飛行場建設人夫と入れ替わるように、一九四四年(昭和十九)の夏頃から、※※には七、八名くらいの兵隊が滞在するようになった。※※に泊っていた兵隊は二十三、二十四歳くらいの若い兵士だった。昔は、豚を飼っていて、そこをフール(便所)にしていた。兵隊達はそのフールを嫌がって、家の後ろに穴を掘って、その上に材木を渡して、仮の便所を作ってあった。兵隊たちは御飯は部隊で食べるので、仲門小では寝泊まりだけしていた。一番座、二番座から後ろの部屋まで全部が兵隊の宿泊所になっていた。兵隊たちとはあんまり話をした覚えはない。ただ、台所の前の井戸を共同で使っていたので、そこで顔を洗う時や、行き帰りに「おはようございます」とかあいさつぐらいはした。
 戦前は、字でアシブミ(行進)訓練や避難訓練、男達は兵隊と竹槍訓練などをやっていた。兵隊が駐屯するようになったら、※※の※※おばー(数年前一〇四歳で亡くなった)は、兵隊をすごく怖がっていた。この※※のおばーは、兵隊が長い太刀を下げているので「ヤーンミチティ、絶対ムヌンイラン(戸を閉めて、絶対物も言わない)」と言って、それぐらい兵隊を怖がっていた。兵隊がいるとわかると、家にこもって一歩も外へ出ようとしなかった。また※※おばーは、アシブミーが上手くできずに、どうしても右手と右足が一緒に出てしまったりして、皆でよく笑っていたことを覚えている。
 一九四二年(昭和十七)に生れた息子の※※は、まだ二歳くらいだったが、兵隊をみたら、左手を頭の横につけて敬礼をしていた。それをみて「ヤームノー、反対ドー(反対の手だよ)」と言って、みんなで笑っていた。

兵隊にまんじゅうを売る

 兵隊が家に滞在していた頃、私は二十四歳だった。当時私は、まんじゅうやモチを作ったり、芋を煮て兵隊たちに売っていた。当時は何もかも配給制で、砂糖も芋も自由には手に入らない時代ではあった。しかし、私は自分で荷馬車を走らせ、石川・嘉手苅あたりまで行って、ヤミものの砂糖や芋を仕入れしてきて、まんじゅうを作っていた。そして、若い兵士はお腹をすかせていたので、よくまんじゅうを買ってくれた。
 当時は三頭の馬を世話していたが、馬は私の言うことをよく聞いた。川原で馬に水浴びをさせる時も、夫よりも私が連れていく方が多かった。学校へは三年生までしかいけなかったけれど、畑や馬の世話、闇市からの仕入れ、まんじゅう作りなどどんなことでもこなしていた。

十・十空襲

 私の家では屋敷の庭にあった大きなフクギの前に家族壕を掘ってあった。家の前に飛行場があったので、十月十日の空襲のときは、とても激しくて大変だった。飛行機からすごい音で機銃弾が飛んできた時、私が主人に「ヌーガラパタパタースンドー(何かすごい音がする)」と言ったら、主人が「ヤー ウレー 戦争ドゥヤンドー 弾ドゥヤンドー。フカンカイヤ イジランケー。壕ンカイ イッチョーケー(これは戦争だから、外に出ないで壕の中に入っておきなさい)」と言われて家族壕に潜んでいたのを覚えている。上地は飛行場に近かったので、すごい爆弾の炸裂音でもう絶対外には出られなかった。

避難

 上地には避難指定地はなかったように思う。小さな集落だからまとまらなかったのだろうか。私たちは十・十空襲のあと、一九四四年(昭和十九)十二月頃、いよいよ読谷にいては危ないということで、避難することになった。ちょうどこの頃、夫も召集を受けた。夫は日中戦争の時も召集され、負傷していた。沖縄戦でも再び召集を受け、今度は防衛隊として北谷へ行くことになった。
 私は息子を連れ、石川・嘉手苅にあるテラの壕というところに入っていた。そこは嘉手苅集落の人たちが避難するところだった。なぜ私たちがここへ来たかというと、嘉手苅にンマガ山田という知り合いがいたため、上地の人達が集まってきて、こっちがいいよという話を聞いたからだった。こっちに来てから上地の※※※、※※※、※※※、※※※、※※※、※※※の家族と合流した。
 しばらくその壕の中にいたのだが、私達はそこを出て、石川岳の山中へ行き、芋や野菜をとったりして食べて、避難生活を続けていた。そんなある日、マイクで「ヌーンアランドー ンジティクーヨー(何でもないから出てきなさい)」と言われて、山を下りた。こうして私たちは収容所へ連れて行かれた。
 私の長兄、城間※※は一九四三年(昭和十八)に召集を受けて、摩文仁で戦死した。※※※でも二人が戦死している。※※の父、※※の照屋※※は、おばー(伊七の妻)と一緒に避難している途中、頭に破片を受け死んだ。祖母は、倒れた祖父をどうすることもできず、遺体をそのままにして米兵に収容所へ連行された。戦争が終わり、静かになってから祖母が、お骨を拾いに行って、墓に納めた。

終戦直後に三線作り

 夫の※※は、終戦直後から三線作りを始めた(三十二歳頃)。夫は軍作業も何もしなかった。石川三区に仲田三味線屋というのがあって、そこに遊びに行きながら三線の作り方を覚えて、自分でも作るようになった。収容所を出た後、家族でカバヤー(テント小屋)に住み始めた。上地の元の家は母屋もアサギも畜舎も全壊していた。その頃から石川で三味線屋を始めた。
 収容所で馬を潰したりしたら、その皮をもらってきて、その馬の皮とツーバイフォー(規格住宅用の木材)を使って三線を作った。カンカラ三線も作ったが、これは今も作っている。終戦直後で、食べ物にも困っていた時代であったが、それでも三線を買う人がたくさんいた。これはもう慰めとして買っていたんでしょうね。また、安く売っていましたから。そうしてだんだん三味線店も発展していった。
 その後、高志保の与那覇や、私の弟達が私の所から三線作りを習って、三味線店を始めた。こうして、上地出身者で三味線店を開いている人が多い。
 私達の家族は戦後も読谷上地には戻らず、石川に留まった。現在でも、石川で三味線店を営む傍ら三線を教えている。
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