第六章 証言記録
女性の証言


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大山医院の看護婦として

玉城※※(旧姓上地 儀間・※※)昭和二年生

※※さんの思い出

 一九四四年(昭和十九)当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで自決された知花※※さんとは、とても親しくしていました。※※さんは「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、そこで知り合った本土出身の男性との結婚の了解を得るため、両親のもとにいったん帰って来たのだそうです。しかし戦況が悪化して「満州」に戻ることができなくなり、しばらくは大山医院で働いていたそうですが、私が大山医院に勤める頃からは、北飛行場の医務室で看護婦として働いていました。
 彼女は、医務室の薬が切れると大山医院に取りに来たりするので、話をする機会がよくありました。当時は女と生まれて、国のために何が出来るかと考えると、従軍看護婦の道ぐらいしかありませんから、私は従軍して戦場で働き、天皇陛下のために死のうと考えていました。しかし諸事情から、従軍看護婦の道を諦めざるを得なかった私にとって、「満州」で従軍看護婦をしていた彼女は憧れのお姉さんでした。とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。国のためにという熱意にあふれて力強く話す姿は、印象的でした。
 「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。
 そういった姿の一方では、彼女には女性らしい面も多くありました。戦争が激しくなると、「満州」にいる恋人のことが心配で落ち着かなかったのでしょう、大山医院の院長先生に相談に来ることもありました。「ねえ、先生、どうしよう、どうしよう」と彼女が言うと、医院長先生は「どうもこうもない。戦争だぞ。お前はもう、ここで働きなさい。満州には帰れないだろう、そうでないと一人の恋人のために命を捨てることになるぞ」と彼女をたしなめていました。
 彼女は「満州」にいる恋人のことを思ってか、さびしく歌をうたったりすることもありましたが、あの姿を思い出すと今でも胸が痛くなります。でも暫くたってから、思いをふっきったのか「私は満州に行けなくなって良かった。家族の面倒がみれるから」と言っていました。
 彼女と一緒にいたのは僅かの間ですが、たくさんの思い出があります。本当に、大好きな人でした。
 ※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。

朝鮮人慰安婦の性病検診

 大山医院には、朝鮮人慰安婦の人たちが定期的に性病検診のため連れてこられていました。一か月に一回から二週間に一回の割合で、一〇人から一五人ぐらいの女性たちが、憲兵に強制的に引っ立てられて来ました。その扱われ方といったら、まるで動物を追い立てるみたいなやり方でした。
 朝鮮人慰安婦はみな美しい娘たちで、色白ですらりとした姿がとても印象的でした。どうやら年のころも十六、七歳と、私と同い年ぐらいに見えました。
 今日でこそ、彼女たちは強制的に慰安婦にさせられたんだとわかりますが、当時は全く知りませんでした。憲兵は彼女たちのことを「自分で望んで朝鮮から商売に来ている」と私たちに説明しました。私はそれを聞いて「どうしてこんなに美しいお嬢さんたちが、沖縄のような遠いところで、こんな商売をしなければならないんだろうか」と不思議でたまりませんでした。また、彼女たちの多くは暗い表情でうな垂れていたり、またある者はあからさまな反抗を示していました。それを見ると「自分で望んで来てる筈なのにどうしてなのだろうか」と何かしら腑に落ちない気がしていましたが、それほどには気にとめていないんですね。あの頃は戦時中で、人のことをゆっくり考えている余裕はなかったんです。
 慰安婦の一人に、とてもイジグヮー(気)が強い人がいました。性病の検診ですから若い娘には恥ずかしくて嫌だったんでしょう。診察台に絶対にのらないと、病院の中を逃げまわったりしていつも反抗していました。すると憲兵が追いかけて、怖い顔をして、冷たく厳しい声で「なんで、お前、どうしたんだ。行け、やれ」そう言って慰安婦を殴るんですよ。私はびっくりして「あんなにまでして。嫌がっているのに、検診もさせなければいいのに」と思いました。かわいそうな彼女たちに話かけたいんだけど、言葉も分からないので、ただ彼女たちにつけられている日本名を呼んで、「こっちに寝なさい、服を脱いでここに来て」など、看護婦としての業務に関わることをジェスチャーを交えて伝えるのが精いっぱいでした。また彼女たちの方でも、私たち看護婦に対してすら反発心を持っていたように思います。当然ですね、日本人にあんな目に遭わされていたんですから。それでも、反抗的な態度をとった者が叩きのめされてからは、残りの人はみな「はい」と言って私たちの指示にも従いました。
朝鮮人「慰安婦」の性病検診
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 こうした屈辱的な検診の結果、朝鮮人慰安婦の中に梅毒や淋病などの性病に感染している人が四、五人いることが判明しました。しかし性病だと分かっても、大山医院には薬が無かったので、治療はできませんでした。性病の治療法としては「六〇六号」という薬を静脈から注入するなどの方法がありましたが、この薬は高価で貴重な薬だったので、まったく使われませんでした。医院では住民に処方する薬も欠乏している状況だったので、どうしようもなかったのです。検診の結果は院長先生から憲兵に直接伝えられました。私はそばで聞いていたのですが、先生は「ここに治療薬はないから、軍のほうで処方してくれ」とおっしゃっていました。ですが軍で薬を用意していたかどうかはわかりません。とにかく性病はどんどん人に感染するんですけど、彼女たちは性病との診断を受けて、その後はどうなったのでしょうかよくわかりません。
 将校の相手をするジュリ(遊女)たちは、同じ慰安婦でも朝鮮の人たちとは違って大山医院での検診はありませんでした。

何もできなくて

 嘉手納の朝鮮人慰安婦の慰安所は、嘉手納のムラウチの民家を利用していましたが、よく場所をかえていました。ある日、往診の帰りに嘉手納のムラウチを歩いていると、民家の前に三〇人ぐらいの兵隊が並んでいました。
 その家の玄関には暖簾がかかっていて、みんな並んで、次々に入っていきましたよ。そして、終わったらどんどん帰っていく。後で考えたらあんまりにも残酷でね。だから、戦後このことを考えると、日本人って動物以下だと怒りがこみあげます。
 女の人に限らず、朝鮮半島の方から男の人たちも連れてこられていました。彼らは比謝矼辺りで土方仕事をさせられていたのですが、夏の暑い日も、冬の寒い日も奴隷のように働かされて、ちょっとでも休んでいたら「また休んでいるのか、早くやれ」と怒られてね。私は先生と往診に出ることが多かったので、彼らの姿をよく見かけていました。食事なんかは、いつ見ても硬くて味の無いカンパンだけ。それを二、三〇人でかたまって食べているのを見ると、何か持っていってたべさせたいと思うんですが、先生に「怒られるよ」と止められて、見ているだけしかできませんでした。
 大山医院は、読谷山村・北谷村・越来村を往診するほどの当時にしては大きな医院で、その二階は日本軍の隊長に貸していました。隊長は威張りくさってはいましたが、食べ物なんかもふんだんに病院へ持ち込んできていて、それらは普通の人がとても食べられないようなおいしいものでしたよ。肉や魚を食べたり、果物の缶詰めなんかもありました。

北部へ移動

 三月頃、兵隊が南部へ移動することになり、私たち看護婦も従軍するようにとも言われました。しかし医院長先生が「いいよもう、北に行きなさい。お前たちまで犠牲になる必要はない」と言ってくれたので、家族の避難しているやんばるへ行くか、それとも南部へ従軍するかは、個人の判断に任せられることになりました。ある兵隊さんが「南部へついて来たらだめだ、あんた達は北部へ行きなさい、先生の言うことを聞きなさい」と私たちに言いました。そんなこともあって、大山医院の看護婦からは、一人だけが従軍看護婦として南部へ行きました。残りは北部などへ避難しました。みんなまだ十七、八歳だったので、やっぱり死にたくないという気持ちだったんじゃないかと思います。
 私は父が防衛隊で南部に行っていたので、従軍しようかとも思いましたが、母は妊娠していて、しかも臨月に入っていました。出産を控えた身体で、私の弟妹たち五人を連れてやんばるに避難していた母のことが気になって、私もやんばるに逃げようと決めました。それで嘉手納から辺土名に向けて出発しました。看護婦仲間や同じように北部を目指す人々のグループと、途中までは行動を共にしましたが、やがて一人になりました。私がこのとき持っていた荷物は一枚の毛布と、救急箱ぐらいなものでした。夜歩いて、昼は藪に隠れて、おなかがすいたら、畑に入ってキャベツをかじって飢えをしのぎました。「寒いなー」と感じたことはよく覚えていますが、辺土名まで何日かかったのかははっきりしません。
 道々「辺土名はどこですか」と尋ねながら、やっとの思いで辺土名の部落にたどり着いたときは夕暮れでした。それまで辺土名の避難民は、夜は部落で、昼は山で隠れていたようですが、この日を境に部落に下りるのは危険だからと、一斉に荷造りをしていました。大騒ぎしている状態でしたが、私はうまい具合に、母たちと出会うことができました。母は私に抱きついて泣きました。臨月なのに頼りになる看護婦の娘がいなくて心細かったのでしょう。

山中でのこと

 母はやがて出産しましたが、食糧不足のためお乳も出ず、生後一週間も経たない間に赤ちゃんは亡くなりました。
 私は母と五人の弟妹のため、食料の確保に奔走しました。芋掘りなどを一緒に行ったのが、母の妹の儀間※※でした。※※は叔母にあたりますが、私と一歳しか年がかわらなかったので、同級生のように仲良しでした。彼女の一家と私たちの一家は行動を共にしていました。
 叔母と私はよくいろんな話をしましたが、いつも意見が食い違う点がありました。それは、生死に関することです。彼女はよく、戦争から生き延びることをあきらめるような話をしました。「私の人生はこれで終り…二十年で終りなんだね」と彼女が言うので、私は決まって「違うよ、私は生きのこる。そして、戦争が終わった世の中を見てみたい」と言いました。彼女はそれを聞くと「あんたばかじゃないか。そんなに生きられると思っているの。戦争終わったら、みんな死んでいるんだよ」と言いましたが、それでも私は「うん、生きる。死にたくないから」と答えました。
 七月のその日は、ことにしんみりしていました。※※は寂しげな歌を歌っていました。歌詞は「今日も一日暮れていく…夕日は遠い海の果て」というものだったと思います。それから私に「女と生まれて結婚してみたいな。あんたは好きな人いる」と訊いたりしました。話をしている間に夕日も落ちて、「さあ芋を掘りに行こう」と畑に行きました。ほかにも畑に行く人たちはいましたが、薄暗かったので何人ぐらい一緒だったかはわかりません。私と彼女が、二、三個芋を掘りだしたところで、パーっと照明弾があがり、畑めがけてダ、ダッダーともう、いつの日よりも多く弾が発射されました。私はクリスチャンでもあったので「助けてください、神様!」と心で叫びました。するとその時、寄り添っていた※※の胸に弾があたりました。私が「どこやられた?」って小さな声で聞いたら、彼女は胸に私の手をあてました。すると私の手にべったりと血がつきました。私は彼女を連れてすっと畑を出ましたが、私一人で傷を負った※※を担いで山に上がるのは無理なので、辺土名の部落で誰かが来るのを待つことにしました。やがて、※※の兄弟が来てくれたので、戸を担架代わりにして上に彼女を乗せ、山に連れて行きました。
 私は救急箱に入れてあったカンフル剤を打ったり、できるだけの処置をしましたが、彼女は傷口から破傷風に感染し、一週間後に亡くなりました。※※が亡くなってから、すぐに米軍が山狩りにやって来ました。稲を刈り取るように、山に隠れていた人々を捕まえてしまいました。私たちは彼女の遺体を山に埋葬したばかりだったので、後で遺骨を拾いに来ることにして、米軍に連れられて山を下りました。

帰村まで

 私たちが連れて行かれたのは比地の部落でした。そこにしばらくいると、親戚の知花※※が私に会いにきました。彼は桃原という部落で病院を開こうとしていたらしく、看護婦だった私を探していたらしいのです。それで私は家族を連れて桃原へ行き、そこの比較的大きな家を利用して知花※※が開業していた民間人用の病院で働くようになりました。
 やがて読谷出身の人たちが多く集まっていた石川へ移り、そこで一年ぐらい暮らした後、帰村することができました。
(二〇〇〇年採録)
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