第六章 証言記録
女性の証言


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ひめゆり学徒「私がたどったいくさ場の道」

渡久山※※(旧姓古堅 都屋・※※)大正十四年生

学校生活

 沖縄県女子師範学校は、真和志村(現在那覇市)の安里にあり、県営鉄道安里駅頭に立つと眼下にキャンパスが広がっていました。
 木造の駅の階段を降りると、駅舎がありその前は広場になっていました。そこは那覇から首里へ通ずるセメント舗装の県道に面しています。
 県道から首里に向かいわずか数十メートルも進むと、女子師範学校への相思樹並木の通路が右に見えます。
 きれいな相思樹並木を進むと、石作りの正門門柱があり、右には沖縄県女子師範学校、左には沖縄県立第一高等女学校という看板がかかっていました。そこは女子師範と一高女の併設校だったのです。女子師範の愛称は乙姫、一高女は白百合でしたので、乙姫の「姫」と白百合の「百合」を合わせて「ひめゆり学園」ともいいました。そのことは校歌にも歌われており、一節の「色香ゆかしき白百合の」というのは一高女のことで、女子師範については二節で「玉とかがよう乙姫の」とあります。
 女子師範学校は小学校教員養成のための学校です。それでどの教科の学習もゆるがせにはできません。小学校ではすべての教科を指導しなければならないからです。
 教職専門科目の履修は四年次から始まったのですが、それ以前は一般教養科目すべてにわたっての学習活動がありました。私は週一時間の国文法が苦手で、それに代数や幾何にも悩まされたものです。
 学園の中には寮もあり、汽車通学も含めて通学できる生徒以外は寮に入らなければなりませんでしたので、私は北寮第二号室に入りました。
 各部屋には上級生に下級生、それに一高女生も混じって一二名おり、ルームメイトには先輩の当山※※・石垣※※・玉城※※・宮里※※がおり、それに一高女生の宮城※※、そして私と一緒に女子師範に入学した山里※※もおりました。
 その後二年、三年となるにつれて部屋もかわり、ルームメイトの顔触れも変わりましたが、和気あいあいとしたおつきあいは変わることはありませんでした。特によかった点は、出身地も異なり、学年も入り混じっていたことから、付き合いを通して学んだことが少なくなかったことでした。
 そして寮が学園敷地内にあることから、オルガン練習が割りと自由にできたこと、そして授業に必要な道具はすぐ取りに行けることは便利なことでした。しかし、寮は規則づくめで、息苦しく感じることもありました。
 外泊は土曜日であっても、余程の事情がなければ許されず、帰省外出であっても外出願提出や外出心得ときびしいものがあり、門限は午後六時となっていました。
 寮の一日は、六時に起床し、洗面を手早く済ませると部屋の掃除、それから朝食に点呼と続きました。その後は学校での課業で放課後はわりと自由な時間が持てました。そして午後六時には夕食と点呼があり、後は勉強時間となりますが、九時にはまた点呼がありました。消灯は十時で、それ以後はどのような理由があっても起きているわけにはいきませんでした。
 時局が時局だっただけに、たとえ女学校とはいっても、引き締まった生活が要求されるのは当然のことでしょう。
 中国との戦争はすっかり泥沼化の様相を呈しており、国内では物が不足し始め、「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で窮乏生活に耐え、防空訓練や防火演習のバケツリレーなどもおこなわれました。
 そのような中で、さらにアメリカとの間でも不穏な空気がながれ、野村大使や来栖大使らがワシントンでアメリカ側と一生懸命交渉に当たりましたが、なかなか妥協点が見出せず、アメリカとの戦争も、もう時間の問題とささやかれるようにもなっていました。
 そして、いよいよ十二月八日、アメリカ・イギリス・オランダ・中国との戦争になってしまいました。
 「全員運動場に集合!」
ときならぬ非常呼集の声に、沖縄県女子師範学校と県立第一高等女学校の寮生たちは、不審に思いながらも運動場へ急ぎました。
 非常時下ということで、日頃から訓練を重ねてきた成果は、このような非常呼集でもはっきり現れていました。ものの数分も経たないうちに生徒達は運動場に整然と並んでいたのです。
 当時、私は女師二年生でしたが、ここで重大ニュースを聞かされました。すなわち「帝国陸海軍は、今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という開戦の知らせだったのです。
 西岡一義校長は続けて、今後の国民の覚悟について訓辞をされましたが、その声は緊張で震えているように感じられました。
 開戦の報を耳にした途端、私は言いようのない気持ちに襲われました。学友たちの心の動揺も感じられましたが、さすがにその場では声一つ立ちませんでした。「大変なことになった。これから戦争はどうなるの」だれの思いも同じだったのでしょう。
 集会から引き上げる学友たちの、あたりはばかるような囁きを耳にしながら、私はハワイにいる伯父のことを思い、これからの戦争の不安を胸に秘めて、寮をさして歩いて行きました。
 伯父古堅※※(明治二十二年生)は十七歳の若さで単身ハワイに渡り、彼の地で着々と地歩を築いているということは便りで知っていました。
 日米両国が戦争で敵味方となって戦うことになった今、伯父の立場はどうなることだろう。さらにこの戦争が燃え広がったら、ハワイ在留の日本人だけでなく、この日本の前途も思いやられます。
 アメリカの国力は、今戦っている中国とは全く比較にならないはずです。それは伯父からの便りにあるハワイの状況から推しても容易に想像出来ます。いろいろな思いは次から次へと現れては消えました。
 日本が負けるとは思いませんでしたので、日頃教えられてきた「神州不滅」ということを自分の心に強く言い聞かせましたが、どういうわけか「支那事変」で戦死した兄古堅※※の面影が瞼に浮かんでなりませんでした。
 一九四二年(昭和十七)、一高女・女師全校を挙げて行軍がありました。
 上級が勝連城往復一七里、中級は美里国民学校(現美里小学校)往復の一二里、そして初級は普天間往復の六里ということで、どの級に挑戦するかは、体力に応じて自分で選ぶということになっていました。
 生徒の間では、どの級を選んだかによって体操(体育)の成績に影響するといううわさがありました。それで、かなり無理して上の級に参加した人もいたと聞きましたが、私は太っていたので長距離は無理というわけで、初級に参加しました。
 二月十日朝、弁当を持って学校を出発しました。普通なら遠足気分だったのでしょうが、行軍ということですっかり身構えての出発でした。お昼は普天間でとり、午後四時頃無事に学校に到着しましたが、勝連城一七里組は弁当を二つも持って未明に出掛け、到着は晩になっていました。
 時局が時局でしたから、学校でも軍事的な訓練が行われ、出征兵士の家の奉仕作業などもあり、増産ということが強調されました。その増産を支えるお手伝いとして、夏休みにはテーラヤー(照屋屋)の裏で、稲福※※や野波※※と臨時託児所の保母をしたこともありました。
 一九四三年(昭和十八)、沖縄で最初の淡水プールが私たちの学校にできました。
 余程嬉しかったのでしょう、二月という寒い時のプール開きにもかかわらず西岡校長は泳ぎ始めを行われました。水泳といえば、それまでは毎年汽車で与那原まで行き、その海で泳いでいたものです。
 同年三月八日、勅令第一〇九号で「師範教育令」が改正され、本科は修業年限三年の専門学校程度に高められ、二年の予科をおくことができるとされました。そして従来の男女別の師範学校の名を男子部、女子部としたのですが、男女共学制をとったわけではありませんでした。
 この師範教育令の改正によって、従来の本科一部と二部は一緒になり、制服は「標準型」という打合わせ式上衣の和服調になり、それまで親しんできたセーラー服に別れを告げました。
 セーラー服の起源はイギリスの水兵服で、それが幼児服、少女服に取り入れられ、やがて世界中の女学生服として普及していったということです。セーラー服は少女たちの憧れの制服でしたので、この制服の変更では何だか寂しさを禁じ得ませんでしたが、新しい制服がすばらしいサージ地(絹毛混合)だったことが、寂しさを上回りました。
 校章はそれまで金属製の菱形バッジで、百合の花の図柄でしたが、花の向きは師範は左向き、一高女は右向きとなっていました。それが全国師範学校共通の桜の花の中に「師」という字を刺繍した布製のものに変わりました。服装だけではありません。髪形も変わりました。予科は従来通りのお下げ三つ編み、またはおかっぱもおりましたが、本科は襟元に髷(まげ)を二つ結うという、おばさんスタイルに変わりました。

時局と動員作業

 一九四四年(昭和十九)になると、戦局はますます逼迫(ひっぱく)し、授業は削減され、奉仕作業から勤労動員へと進み、果ては軍事動員へとエスカレートしていきます。
 農業では実習地での堆肥作りから始まり甘藷作りへと進められました。畑は「オランダ屋敷」(かつての米宣教師の居留屋敷)にまでおよびました。
 暁天動員と言うことで、早朝隊列を作り、走って安里八幡宮に詣でて出征兵士の武運長久を祈りました。また、クラス別に交替で那覇港での出征兵士の見送りもしました。
 そして直接軍への動員作業として小禄や垣花の高射砲陣地構築、つまり土や石運びに従事しました。壕掘りの場合は三角巾で頭を包み、もんぺをはいての作業です。兵隊が掘ると、ショベルで土をモッコやザルに入れ、交替で運んだものです。
 その頃は誰もが日本の勝利を信じ、不自由を耐え忍び「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で頑張っていました。私たちも「勝利の日まで」という歌を歌いながら泥まみれになって働いたものです。今でもあの時の歌が耳の底に残っています。
 「丘にはためくあの日の丸を/仰ぎ眺める我らが瞳/いつかあふるる感謝の涙/燃えてくるくる心の炎/我らはみんな力の限り/勝利の日まで勝利の日まで」そういう時代もあったのです。
 与儀での陣地構築作業の頃、福島県郡山商業学校出身の太田博少尉の作詞、東風平恵位先生作曲の「相思樹の歌」という曲がたちまち私たちの間に広がり、愛唱歌になりました。
 軍歌づくめのあの頃、この歌はどんなに私たちの心を打ったことでしょう。「目に親し/相思樹並木/往きかへり/去りがたけれど/夢のごと/とき年月の/行きにけむ/あとぞくやしき」と校門前の相思樹並木を歌い、そして友情、学園との別れをしみじみと歌っています。特に卒業を間近に控えた私たちにはじーんとくるものがありました。生きている限りの愛唱歌になることでしょう。
 そしてついに十月十日、沖縄は米軍の大空襲にさらされました。私たちは空襲警報と同時に「ひばりが丘」の防空壕に避難しましたが、この日の空襲で那覇の市街は焦土と化し、県内の目ぼしい日本軍関係施設はほとんどが破壊しつくされました。
 そのような状況の中で、しばらくして家庭待機ということになり、一か月程学校は臨時休校になりました。
 十一月二十九日の『沖縄新報』は「女師一高女では空襲後地方に疎開した生徒を集め平常通り授業を始めたが、現在は半分授業、半分作業に二部編成で、殊に授業は戦力増強作業に全生徒大いに張り切っている」と報じています。
 年が明けて一九四五年(昭和二十)になっても、相変わらず軍の陣地構築作業への動員は続き、それと並行して南風原国民学校での看護訓練も始められました。それは「学徒戦時動員体制確立要綱」からきたもので、中等学校以上の女子には「必要ニ際シ戦時救護ニ従事セシムル」ための看護訓練だったのです。
 年明けとともに米軍の艦載機は頻繁に来襲し、爆撃を繰り返しました。また大型機(B29)は連日飛行雲を引き悠々と飛ぶようになり、B24は、小さな舟にも超低空で銃撃を加えるようになっておりました。本当に我がもの顔で飛び回っていたのです。
 そして、三月二十四日、米機動部隊が沖縄本島に接近して具志頭村港川に艦砲射撃を加えたのです。いよいよ本格的な米軍の沖縄攻略作戦が始まったのです。
 それから間もなく、学校施設は寮を含めてすべてが戦火をあびて壊滅し、学校は二度と蘇ることはありませんでした。

ひめゆり学徒隊

 三月二十四日夕刻、軍の命令により、女師・一高女の生徒は看護要員として南風原陸軍病院に入隊し、こうしてひめゆり学徒隊ということになったのです。
 西岡女子部長は、軍の招きを受けて生徒たちと離れ軍司令部にいき、残った職員生徒は陸軍病院へ出発しました。
 その頃の南風原陸軍病院は、東北につきだした丘の二つの壕だけにわずかな数の患者が収容されているだけで、多くの患者はまだ南風原国民学校の校舎に収容されていました。
 ということは、病院壕の掘削(くっさく)作業は継続進行中で、支柱もない奥は落盤の危険があったからです。
 しかし、砲弾の危険を考えると落盤の恐れなど言っておれません。米軍上陸後はみんな壕に移り、大変な手狭な状態になり、入隊が遅れた生徒が駆けつけると、親許(おやもと)へ帰るよう勧めることもありました。
 三月二十九日の夜、野田校長、西岡女子部長がお見えになり、三角兵舎で卒業式が執り行われました。港川方面ではしきりに砲弾炸裂の音がとどろき、三角兵舎の周辺にも時々弾着があり、その炸裂で轟音とともに爆風が舞い込みました。
 卒業式場内には二本のローソクがともされ、薄暗い中に来賓の陸軍病院長や佐藤三代経理部長、丸条中尉他数人の姿が見えます。父兄は金城和信真和志村長一人です。
 式は砲弾の轟く最中でしたが予定通り進行し、野田校長の式辞、西岡部長の激励と続き、佐久川※※生徒総代の答辞の後は「海行かば」の斉唱で締めくくられました。しかし歌声はすすり泣きが混じり、短い歌ですが砲弾炸裂にかき消されることがありました。
 この式で私たちは卒業生となり、学生の身分を離れた訳ですが、そのままひめゆり学徒隊員として従軍するようになっていったのです。
 そして翌三十日、ひめゆり学徒隊の前途を暗示するかのように、この兵舎は焼けてしまいました。

荒れ狂う戦火の中で

 四月一日、米軍が沖縄本島に上陸したという情報で、思わず身の毛がよだち、言いようのない悲壮な思いが胸中に流れました。
 上陸地点が北谷、読谷山の海岸ということで、思いはたちまち古里へと飛んでいきました。
 私の生まれ育った故郷は、読谷山村の都屋という海岸べりの集落で、伝え聞くように米軍の上陸地点が読谷山海岸ならば、我が故郷は、あの鬼畜と教えられた米英軍の軍靴に踏みにじられていはしないか。不吉な思いが黒雲のようにむくむくと胸奥に湧き起こって来ます。家族はどうなったであろうか。かつてはいったん恩納村に寄り、それから国頭村奥へと疎開すると聞いてはいたが、年老いた祖母をはじめみんなは無事でいるだろうか…。さまざまなことが心に浮かび、これが最後の別れかと遥か故郷に向かって泣きました。
 三角兵舎での生活も、激しい米軍の砲爆撃には耐えられず、二週間ほどでまだ未完成だった壕での生活に変わりました。折りからの梅雨期で、来る日も来る日も大雨が続き、泥沼のようになった壕の中に角材や板などを敷いて、その上に寝ました。
 壕の中は汗と血と膿の悪臭が鼻をつき、それに多数の収容者の吐く炭酸ガス(二酸化炭素)で呼吸が苦しく、ローソクの灯が消えそうになります。「換気」の声がかかりますと、私たちは手当たり次第、防空頭巾や上衣を取り、「勝利の日まで」の歌に合わせて振り、よどんだ空気を煽(あお)ると、ローソクの灯は大きくなりました。ローソクの灯は炭酸ガス探知機の役目もしていたのですが、爆風でかき消されることもありました。
 当初、負傷兵は少なかったので、ひめゆり学徒隊員全員が一度に看護にあたるということはありませんでした。
 しかし日を追うにしたがって忙しくなり始め、ついに四月二十六日、看護要員であるひめゆり学徒隊からも死亡者が出ました。予科二年の佐久川※※で、いよいよ私も死を覚悟の日々となっていきました。
 五月四日、上地※※、嘉数※※、佐和田※※の三人が砲弾落下で生き埋めになり、佐和田は救出されましたが、上地、嘉数の二人は帰らぬ人となってしまいました。
 慶良間沖から沖縄本島海岸近くに至るまで米軍の艦船は海面を真っ黒に覆い尽くし、源義経の八艘跳びのように、大股で跳ぶと渡っていけるのではないかと思わせるほどでした。夜は夜で、その全艦船が煌々と電灯をともしており、平和時なら美しいイルミネーションと言えたかも知れませんが、そこから情け容赦なく、間断なく砲弾が撃ち込まれて来るのです。
 五月十一日に島袋※※、十六日には嵩原※※が犠牲になりました。その日には一日橋分室にガス弾が撃ち込まれ、生徒三人に先生方二人も亡くなっています。その頃からは自分たちも遅かれ早かれ死ぬのだと恐怖におののく毎日でした。
 看護要員の勤務で最も恐怖に脅えたのは水汲みと飯上げ当番、それに死体埋葬でした。
 普通の看護業務が壕内で行われるのに、この三つはいやが応でも砲弾が飛び交う壕外に出なければならないからです。
 飯上げに際しては、炊事場から食物を受領し、降りしきる砲弾の間を二人で丸桶を担ぎ、至近弾が炸裂するとその上に腹這って食物を守り、無事を確かめてから壕に駆け込んだのです。
 死体処理は砲撃の合間をみて行われました。飯上げ以上に時間がかかります。砲撃の合間とは言え、砲弾はいつ飛んで来るか分かりません。担架に屍をのせ、弾痕の近くまで運び一、二、三の掛け声で弾痕に放り投げ、後はスコップで土を掛けてやるだけです。次に死者が出ると、また先に埋葬した上に投げ込んで処理をするわけですが、降り続く梅雨は覆っている土を流して死体の一部をあらわにします。そうなるとすっかり見えなくなるまで土をかけるのです。それが心ばかりの葬儀となったのでした。埋葬が終わると、後も振り返らず、我先に壕に駆け込みました。本当に死と隣り合わせの必死の作業でした。
 看護業務は、病院のあらゆる仕事にあたるのですが、特に直接患者にあたりますと、入隊前に受けた看護訓練はままごとにすぎなかったと思い知らされました。
 傷病兵の症状はさまざまで、貫通破片創(砲弾破片が体を貫通した傷)や破片が体内にこもっている傷(盲貫破片創)、そして手や足が切断された患者もおり、特に内臓破裂の患者などには思わず目を背けるほどでした。
 そのような兵隊たちの傷の手当はもちろん、糞尿の処理もしなければなりません。とはいっても便器は絶対数が足りず、空き瓶や空き缶も使用しなければなりませんが、排尿の時などは男性のあの部分にも手を添えてやらなければならないのです。
 負傷兵たちは呻きとともにいろいろ要求をしますが、対応が遅れると怒鳴り声に変わります。でも一々要求をきいてやることもできません。それほど多数のさまざまな症状の患者をかかえているのです。
 蚕棚上段の重症患者が尿を漏らすと、下段の人を濡らします。下段の寝床に寝ている患者のどこにかかったのか「コン畜生」と怒鳴り声がします。
 治療する薬品も繃帯(ほうたい)も乏しくなり、梅雨期の湿気と気温は黴菌(ばいきん)を増殖させ、蛆を湧かせます。負傷兵の傷口では蛆がむくむくと動き回り、膿をくっています。もうここは病院とは名だけです。
 弾痕に溜まった水を飲み、洗髪、洗濯をしました。食料と言えば、サトウキビがやっとという状態になってしまいました。
 怒涛のように押し寄せてくる米軍の前に、首里の第三十二軍司令部は風前の灯火となっていました。そのような五月二十五日、病院は南に下がることになりました。
 私たちは歩ける患者に肩を貸し、体を支えて南風原の病院壕を後にしました。歩けない患者はどうなったでしょうか。後で聞くところによりますと、自決用の手榴弾や青酸カリを渡されたということです。
 南風原村喜屋武の魔の十字路といわれた弾着の激しい所を無事通過し、砲弾でほじくり返され雨でぬかるんだ泥土の中を、至近弾で右往左往しながら通っていきました。山川の三叉路一帯は見渡す限り掘り返された泥だけでした。こうして東風平村宜寿次の坂を過ぎ、東風平(同村・ドゥームラ)へと向かいました。そのときの様子を仲宗根※※先生は次のように記しています。
 「東風平の民家で水筒に水を満たし、門の石垣に腰をおろしていたら美里※※と安室※※がやって来た。安室は飯上げの時、炊事場で負傷し、まだ傷もいえず足を引きずっていた。
『仲村はどうした』
『二十四号壕から大城※※さん、古堅さん、富川さんにかつがれて、本部前で防衛隊のタンカに乗せられて先へゆきました』
 私はやっと胸をなでおろした。」(仲宗根政善編『ひめゆりの塔をめぐる人々の記』)
註=私たちがかついでいった仲村は、仲宗根先生と同郷の今帰仁村出身で、三高女(名護にあった)から本科に来た仲村※※であった。残念ながら彼女は戦死した。
 東風平からは、さらに歩き続け具志頭村与座の十字路から嘉手志川を過ぎ、真壁、糸洲、伊礼そして山城へと到着し、それから波平の第一外科壕へと移りました。それまでの道中でも多くの学友が艦砲弾破片で命を失いました。
 波平集落の前の丘には二つの壕が構築されていました。私は仲宗根先生に引率された他の学友たちともに東側の壕に入りました。西の壕には上原婦長以下の看護婦や衛生兵、それに数人の学友も収容されていました。
 波平に着いて二、三日は敵機の来襲や砲弾飛来もなく本当に静かで、首里周辺で戦争があるとは思えない程でした。
 やっと落ち着いたと思ったら、間もなく昼はトンボ(セスナ機)が飛んで来るようになり、夜間は照明弾で探知して、またもや激しい空陸からの攻撃に加え、海上から砲艦による迫撃砲の攻撃も加わるようになって来ました。
 六月十七日、米軍はついに波平に迫って来ましたので、伊原第一外科壕に引き揚げ、糸洲第二外科壕から移って来た人達と合流しました。
 やれやれと息つく間もなく、洞窟入口で砲弾が炸裂し、たちまち阿鼻叫喚の地獄絵を現出し、牧志※※、古波蔵※※、比嘉※※、他二〇数名の学友、看護婦、衛生兵が犠牲になりました。
 浜本※※は、砲弾破片で顎をやられて、三角巾で頭部に固定していました。一緒だった兵士も大怪我をして、何やら錠剤を飲んで死んだと言います。その兵士は自分が飲む前に浜本に、「あなたも飲みなさい」と言って渡したというが、「私は飲めなかった」と、彼女は苦しそうに顎を押さえていました。
 先生が「真玉橋と古堅、あなた方で浜本を連れて行きなさい」と言われたので、二人で交互に負ぶって波平壕へ連れて行きました。あの頃、先生はお腹の具合を悪くされているようでした。アメーバ赤痢ではなかったかと思います。

解散命令

 十八日も相変わらず激しい砲撃が続いていました。そのような中で仲宗根先生は波平西壕に残った上原婦長たちを気遣って、様子を見にいらっしゃったようですが、私たちは壕の中で、もうこれまでかも知れないと悲痛な思いにかられていました。
 十九日、生徒は全員洞窟の奥に集められ、そこで「病院解散命令」が伝えられました。全く思いがけないことで、みんな驚きとともに悲痛な面持ちで一言もありません。
 「長いこと皆さんご苦労であった。米軍は間近に迫っている。今ここで解散しなくてはいけない状態になった。しかし国頭方面ではまだ相当数の将兵が抗戦している。できるだけみんな無事で国頭まで突破してくれ。運がよければ再び会う日もあろう」学徒隊も即刻解散せよという、軍命を伝える先生の声は震えていました。
註=私の記憶を補うため、波平壕以下は仲宗根政善編『ひめゆりの塔をめぐる人々の記』を参照して書いてあります。
 目の前が真っ暗になり、これからどうしようと思っていたら仲宗根先生は、「一旦こうなったらからにはできるだけ町村単位で、上級生と下級生で二、三人ずつの組を作り、生きられるだけ生き延びよ」と言われました。
 仲宗根先生は今帰仁村のご出身で、この時、今帰仁村出身の学友たちが羨ましくてなりませんでした。
 もう投げ出されたのも同然ですから、他人だけ羨んでも仕方がありません。とにかく本部ヘ行って校長、部長、西平の先生方から直々のお話が聞きたいものと本部へ行きましたが、そこは散々攻撃されて跡形も無くなっていました。
 仕方なく第三外科壕(現ひめゆりの塔前の壕)へ行きましたが、満員で駄目だと怒鳴られました。やむなく伊原の壕に行きましたが、また怒鳴られそうなので入口で立ち止まり、奥の方へは行きませんでした。
 中の方からひそひそ声で、学友のだれそれがどこに負傷したという話が聞こえますが、それを聞いたきり、ただ立ち尽くしたままでした。
 そこで三月以来会っていない隣り部落楚辺の比嘉※※に出会いました。また宮古出身の宮国※※も一緒になり、それ以後は三名で行動をともにするようになりました。
 前線はすぐ近くまで迫っています。夜明けまでにここを脱出しないと明日は確実に馬乗り攻撃されるという情報がもたらされて、壕内はざわめき合いました。その内、壕口近くで砲弾が炸裂して、「やられた」という叫び声がしました。その辺には照屋先生と大城先生が居られた筈ですが、どの先生の声であったか、分かりませんでした。

あてのない彷徨(ほうこう)

 夜明け前に壕を出て、伏したり岩陰に隠れたりしながら逃げました。
 内間※※が大腿部をやられて、グループの者に止血だけはしてもらっていたのですが、痛さをこらえながらも喜屋武岬方面へと走って行きました。
 アダンの茂みの中に潜んでいたら、すっかり夜は明け、日がカンカンと照りつけて来ました。ほとんど日の目を見ない壕暮らしをしてきた者たちには、六月の激しい直射日光は耐えられません。脱水症状をきたしてぐったりと横になっていました。力無く起き上がろうとした時、目に入って来たのは米軍の缶詰でした。どうにか孔をあけてみると、野菜の水煮のような物です。その汁を三名で変わり番こにすすりますと、しなびて死にかけていた細胞がよみがえったような気がしました。
 敵は目と鼻の先の崖の上まで来ています。ここは危ないと、日暮れを待って海岸の方へ暗い中を手探りで進んで行きました。その内、傷を受けたばかりの兵隊の生温かい血に触ってギクッとしました。
 刀や恩賜の時計、それに万年筆を上げるから連れていってくれと懇願する兵隊もいましたが、お構い無しで、ひたすら生きることだけを考えていました。
 海岸に出ると、兵隊や一般住民があちらこちらから寄って来ていました。話によりますと、港川を突破できたら援軍が来て大丈夫とのことでした。兵隊たちは突破をめざして海に入って泳いでいきます。しかし敵は待ち構えて機関銃で撃ってきます。
 私たちも敵中突破する決心をして海に入りましたが、たちまち深みにはまって溺れてしまいました。
 死に物狂いでもがいているうちに、浅い岩礁の上に立つことができました。※※も立っていましたが、宮国※※はどんどん流されて行きます。
「助けてください」と兵隊に頼んでも誰もきいてくれません。しばらくもがいている内に宮国も背丈の立つ所に流されて、助かりました。
 私たちは再びモクマオウの茂みの中に入りました。地下足袋、救急袋を失った宮国は、モンペまで脱げてしまって、下半身は下着一枚だけになってしまっていました。幸い私はモンペを二枚重ね着していましたので、一枚を脱いで彼女にはかせました。
 私とても海の中で地下足袋を失っていましたので、裸足で海岸を歩くのは大変でした。
 風雨にさらされ、海水に浸蝕された珊瑚石灰岩の岩角は針のように鋭く、足裏は血まみれになっていました。
 海中からの突破が駄目なら、海岸線を進もうと思っても崖の下は深い入り江で、険しい岩先を手探りでつかみ、前へ前へと進んでいるうちに、同村出身の兵士に出会いました。
 言葉のアクセントですぐに同じ村出身の人だと分かりました。その時はお名前は知らなかったのですが、知花※※(字渡慶次)ということは戦後になって分かりました。
 天秤棒の両端に鈴なりの荷物を担いだまま座ってうとうとしている男がいました。その荷物の中にはご飯が入っていそうな羽釜がかかっていました。それを見た途端、欲しくて欲しくて今にも手が出そうになりました。何度も盗んで食べようかと思いましたが、とうとう他人の物を盗んで食べることはできませんでした。
 私がじーっと羽釜に目をやっていたのを見た一人の男は、いきなり羽釜を取り上げ、食べて、私にも「食え」、と差し出しましたので、何も考えずにガツガツ食べました。
 どこから来たのか、家族から離れたらしい五、六歳くらいの子が現れ、「いっしょに連れて行って」と言っていましたが、私たちが取り合わなかったので、その子はすごすごと去って行きました。

投降

 摩文仁近くの海辺の洞穴に一週間ほどいました。死人が足を突っ込んでいる溜まり水も飲みました。
 兵隊が、飯盒にお米を研ぎ、菊のご紋章付きの銃の木部を割って薪にしているのを見て、自分のことも忘れて忠勇無双の帝国軍人もここまで落ちぶれたかと、暗然たる思いに駆られました。
 崖の上や海上の舟艇からも「センソウワ、オワリマシタ。オキナワノヒトモ、ヘイタイサンモ、デテキナサイ」とたどたどしい日本語で投降を呼びかける声が聞こえるようになってきました。
 また、空からは降伏をうながすビラも撒かれるようになりましたが、取って読もうものなら友軍という名の兵士に殺されかねません。「イクサワ、オワリマシタ。デテキナサイ」投降を呼びかける声は岩間にこだまして、倍になって聞こえて来ます。
 脚に重症を負ったある少尉が洞穴の中で、「死んではいけない。米兵は地方人を殺しはしない。大丈夫だ、出て行きなさい」と言っていたことが耳に残っています。
 やがて拡声器からは「十一時までに出て来ないと火炎放射器で焼き払うぞ」としっかりした日本語で呼びかけて来ました。多分日系二世兵の声だったかも知れません。これは脅しではなさそうだと直感しました。
 その直後、いきなり二人の米兵が眼前に現れました。狼狽した私の手は手榴弾をつかんでいました。さらに持ち直し、安全栓に触れましたが、どうしても引き抜く勇気が出ないで、三名肩を寄せ合ってぶるぶる震えていました。
 何事もなく米兵は立ち去りましたが、私たちは本当に生きた心地はしませんでした。
 やがて白旗を掲げていく兵士や、両手を上げて出て行く一般住民たちの群がぞろぞろと続きました。
 捕虜になる卑怯者たちという思いと同時に、自分はもうどうにでもなれというやけっぱちな気もあって、いや、それ以上に生きるという本能みたいなものに導かれて、投降者たちの後について行きました。
 いったん投降すると、またしても「皇国の学徒が」とか「捕虜の辱め」ということが心に浮かんできて、学生の身分で捕虜になったのは私たち三名ぐらいだろうと思うと堪らなくなり、自分をののしり、さげすみました。
 やがて広場に連行されて行きますと、私たちの何倍かの人々が集められて、カンカン照りの中にすわらされていました。
 こうして大勢の老若男女の人々を目にすると、捕虜になったのは私たちだけではないという言い訳がましい思いが湧いてきて、何かしらほっとするものがありました。
 さらに私の心を休ませてくれたのは、その群の中に専攻科在学中の先輩のお姉さんがいたことでした。私はすかさず駆け寄り、抱き合って泣きました。
 先輩はさとすように「ひがむことはない。恥ずかしがることもない。もっと大勢の学友も先生方も玉城村百名(ひゃくな)の収容所にいるそうだ」と言ってくれましたので、本当に安堵しました。その日は確か六月の二十五日だったと思います。

難民収容所

 広場に集められていた投降者たちは、やがて歩くよう促され、集団となり、銃を構えた米兵に監視されて、北の方へ向かいました。着いた所は具志頭村ということでしたが、何という集落だったか分かりませんでした。そこで初めて安らかな一夜を過ごしました。
 翌二十七日、再び歩かされ、途中玉城村あたりと思われますが、畑か原野のような所を開いてテントを張った施設で一泊し、さらに歩行を続けて佐敷村の仲伊保という所に着きました。方言ではナケーフというようですが、家屋が大分残っていました。
 そこには一か月ほどいて稲刈りの手伝いなどをしました。黒人兵の運転するトラックに乗せられ、玉城村あたりの田圃で稲刈りをしたのですが、刈られた稲は事務所の前に山積みされていました。食料は不足ぎみで、田圃で蛙を取って来て食べた記憶があります。
 私たち三名は投降以来ずっと一緒でしたが、節は宿泊先の老夫婦に特に気に入られ、実の娘みたいに可愛がられていました。
 七月二十六日、収容されていた人々は全員、馬天港まで歩かされ、行く先も告げられずにLST(米軍上陸用舟艇)に乗せられて沖に出ました。私たちはてっきり太平洋に捨てられるのだと、恐怖のあまり泣いてしまいました。
 やがて着いた所は久志村の二見という所でした。そこの世話役が、私の家族が瀬嵩にいるという事を知らせてくれたので早速、瀬嵩の集落に行き、そこで涙の再会となりました。
 祖母は東村川田平良で亡くなり、父はマラリアと栄養失調で大変衰弱していました。島尻の戦線も大変でしたが、家族の様子をみると、山中を逃げ回った苦しみが察せられて、言葉も出ませんでした。
 二見は仲伊保から来た人々の収容所となりましたが、そこで節は仲伊保でお世話になった老夫婦と暮らすことになり、私たちと別れました。
 八月一日頃だったと思いますが、ひょっこり従兄の島袋※※(後に改姓名して前田※※となる)に出会いました。
 彼は宜野座地区の衛生課長をしていて、係の米兵と広く地区内をジープで回っていました。戦争直後の状況の中で、米軍は大変衛生について意を用いていました。そういうことで従兄は大変重要な地位にあったのです。
 彼は収容者名簿から私の名を探し出して、私を連れに来たのでした。私は※※とともに宜野座へ移り、衛生課で働くようになりました。〈寄稿〉
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