第六章 証言記録
女性の証言


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戦火をくぐりぬけた私の着物

上原※※(瀬名波)昭和四年生
 一九四四年(昭和十九)十月十日が沖縄最初の空襲でした。その三年前、私は小学校五年生でした。私のお友達に※※という子がいました。二人とも同じ部落の出身であったこともあり、とても仲がよかったものです。私たちは「万寿(まんじゅ)姫の物語」という劇で学芸会に出ました。※※さんは万寿姫のお母さん役の「唐糸(からいと)様」で、私は「唐糸様」の居場所を教える役でした。思い出に残る学芸会でした。一年後、※※さんは二高女で学んでいましたが、その後、戦争が激しくなり、帰らぬ人となってしまいました。女学生たちは、兵隊たちの看護にあたったとのことでしたから、※※さんも白梅学徒隊の一員として若い命を散らしたのでしょう。私は、※※さんが水筒をかついで歩く姿を、何度も夢で見ました。昔のことを思い出すと、いつも※※さんと歌っていた  「母を思う心から、かよわき子どもの身をもちて 鎌倉武士を泣かせたる 万寿の姫の物語」  の歌を思い出します。忘れたくはありません。家ではいつも「サダちゃん」と呼んでいました。
 私は今の中学生にあたる尋常高等小学校高等科一年の末頃、健康がすぐれず学校を中退しました。しばらくして私にも字事務所をとおして徴用令状が来ました。読谷飛行場建設のための徴用でした。私もその頃には元気になっていたので、十・十空襲のあった朝七時には仕事についていました。東の方から低空で飛行機が飛んできました。最初は誰もが演習だと思っていたのです。飛行場には真っ黒い煙が立ち上り、バラバラバラとものすごい爆発音がして大変な様相であったため、防空壕へと急ぎました。しかし、なにせ物を大切にする時代でしたから、みな、防空壕に自分の道具を持ち込んだので、中は混雑し大変でしたが、私たちは南の方にいたので難を逃れました。
 飛行場北側の掩体壕付近には日本の飛行機があったため、そこをめがけてドスン、ドスンと爆弾が投下され大変だったとのことでした。その日、私の同級生を含めて一〇人以上の方々が、座喜味の家族壕で亡くなったのです。宇座、渡慶次、瀬名波出身の方たちだったと思います。みんな徴用されて飛行場に向かっていた人たちでした。かわいそうでたまりませんでした。
座喜味の家族壕跡 小さな石碑があり、
裏に死亡した人々の名が刻まれている
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 飛行場には天野少尉という、みんなから怖がられていた設営隊将校がいて、東西南北、作業現場を馬で見廻り、「目から血が出るくらいに働け」と大声で怒鳴っていたのを覚えています。
 その後しばらくは家にいましたが、今度は住み込み徴用となり、山田の山中で防空壕掘りに駆り出されました。友軍の兵隊たちと共に年老いた人たちもいました。掘るのは男の人たちで、私たちは二人ずつ組んで、毎日、一日中モッコで土運びでしたから、肩が痛くてたまりませんでした。食事はまずかったけれど、若かったし、みんなと一緒なので別に苦労とは思いませんでした。「腹が減っては戦はできん」と、イモごはん、苦菜の汁でも楽しみでした。
 しかし、それからが大変でした。父は防衛隊にとられて家にいなかったし、字事務所からは強制されるように「瀬名波は国頭の与那に行くように」と指示されたので、母と妹(七歳)と弟(四歳)は先に避難して、私は一人で家に残っていました。夜は母方の祖母の家に行きましたが、家族がいなくて淋しい思いをしました。
 三月二十三日、家から海の方を見ると、真っ黒い大きな船がたくさんいて、島を包囲しているようでした。その日から激しい空襲が始まりました。夕方、私は母方の祖母たちと一緒に家族のいる与那へ急いで出発しました。一晩では歩いて行けず、夜が明けると空襲を逃れて山に隠れ、夜になると歩きました。道いっぱいの人が疎開先へと急いでいました。そして与那に近い、やがて辺土名だという所で、母のいとこの十三歳になる女の子が、ずっと歩きどおしなので眠くなって、頭に荷物を載せたまま田んぼに落ちてしまいました。一緒に歩いていたおじいさんが助けてあげると、その子は泣き出しそうな声で「ウヌヒントゥナー ヒートゥリルアサニ(この辺土名は吹っ飛んでしまったんじゃないの)」と言って、身内のみんなを笑わせていました。行っても行っても着かないので、そんな言葉が口をついて出たんだと思います。
 三月二十五日、朝。まだ真っ暗いうちに与那の※※という屋号の家に到着しました。母に会えてよかったと喜んだのも束の間、私を迎え出るために灯りが漏れてしまったらしく、すぐに、警防団の人がやって来て、「カマドー」と叫びました。竈の火が漏れていると注意されたのですが、母は自分の名前を呼んでいると勘違いして「ハーイ」と言って外に出ました。すると、「灯りが漏れているじゃないか」と警防団の人にすごく叱られました。私はぶるぶる震えて、戦争よりも怖いと思いました。今は笑い話になりますが、あの時は大変でした。
 そのあとは、与那でも戦争が激しくなって、昼は山奥に避難するようになりました。そして、とうとう※※の家も爆弾でやられてしまいました。宿無しになってからはずっと山ごもりをして、何の情報もないまま、できれば読谷へ近づこうとひたすら山奥をさまよいました。食物もないので、民家の近くになると畑に食料を求めに行ったりしました。ある時は、同じ山をぐるぐる廻ったこともありました。一日中歩き通しで、西海岸へ出たり東海岸に出たりしている道中、多くの日本兵にも出会いました。また道ばたに倒れて死んでいる兵隊たちもいました。「海行かば 水漬く屍 山ゆかば草むす屍」と歌にもあるような時代でしたからね。
 私たちが、さらにすごく怖い思いをしたのは「カータテーラ(東村の川田平良)」という所でのことでした。そこには敵の陣地があり、そこを通るには道案内を頼まないと行くことができないといって、一人から五円ずつ、私たちも四名で二〇円を出して頼みました。しかし、一緒に行動していた※※姉さんが撃たれてしまいました。出発する前に、私と※※姉さんは、食事を作って持って行こうと思い、水が不便な場所で米を洗っていました。その時、※※姉さんは「こんな苦労をするよりは一発で死んだほうがいい」と話していました。
 夜になって道案内人を先頭に五家族が敵の陣地側にさしかかった時でした。突然機関銃で射撃され、私と並んで子どもをおぶって歩いていた※※姉さんに一発が当たってしまったのです。弾はおぶられていた一歳になる男の子の太ももをかすり、※※姉さんに命中し、亡くなりました。幸いに男の子は無事でした。その子の父親は自分の部隊からはぐれて、私たちと一緒に歩いていました。男の子は弾がかすったとはいえ、とても痛かったのでしょう。その子の泣き声で機関銃の射撃はやんだのですが、悲しみを語り合うこともできない状況のもと、後ろ髪を引かれる思いをしながらその場を去り、前へ前へと進みました。
 私たちは、ケガを負ったその男の子の世話をしました。最初はアイロンを当てたようなちょっとした火傷のような傷だったのですが、四、五日したら化膿して蛆が湧き、それはもう大変でした。母親であった※※姉さんは、一緒に作った飯がまだ温かいうちに、彼女の言葉通りに一発で死んでしまったから私は不思議な気持ちでした。それからは、私はいつも「良い言葉」を使おうと自分に言い聞かせてきました。
 しばらく行くと、喜瀬(現名護市)という部落に出ました。そこには別の所から来た人たちもたくさんいました。私たちは食事に味つけをするために、海水を汲みに母親も一緒に二、三人で海へ行きました。すると米兵に見つかり、母は「車に乗りなさい」と誘われたらしいが、「あっちに子どもがいるから」と身振り手振りで話して難を逃れたそうです。米兵のうち、一人は二世だったと思いますが、私たちの所に来て一人ひとりに赤い洗顔石鹸を配り、「食べるものではない」と言いました。私たちは声も出せずに、大きな軍用トラックに乗せられました。不安に思いながら連れて行かれた先は漢那(現宜野座村)でした。
 漢那には読谷の人もたくさんいて、「今まで山に居たのか」と言われました。私たちは一列に並べられ、インゲン豆入りの大きなおにぎりを一つずつ配られました。「ヤーサル、マーサル(ひもじい時は、おいしい)」で、とても感謝して食べました。そして、身内が同居して暮らせる家も割り当てられました。行ってみると、床が入っていなかったのでカヤを敷いてその上に住みました。怖々と逃げまわるよりも捕虜となったときのほうが安心できました。そこではお米の配給もあり、とても嬉しかったです。
 しばらくして、福山(現宜野座村)に祖母の姉がいるとの話を聞き、私は何名かで行ってみようと計画しました。何も知らずに行く途中、通行違反でつかまり、中川に連行されて金網の中に入れられました。私は一晩中泣き明かしました。翌日、漢那の金網に連れてこられたので安心しました。そこには夫婦ゲンカをしてつかまった人あり、薪とりに行ってつかまった者あり、私たちみたいに通行違反でつかまった者、捕虜になった日本兵たちと様々でした。兵隊たちはみな、背中に「PW」と書かれており、彼らと私たちとは一緒にしませんでした。一週間してやっと出してくれました。
読谷村立歴史民俗資料館に保存されている当時の着物
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 その後、石川九区二班に移動して宮森校の近くに行くことになりました。そこはテント屋根でしたが、床が入っていて良いなあと喜んで暮らしていましたが、火事に遭いました。近所のガスランプから出火して、九二世帯が灰になったのです。私たちもその中に入っていて、母の大事な着物を焼かれました。本当に惜しい、惜しい思いをしました。
なぜなら、その着物は、母が自分で養蚕して白地に織ったものを、京都に送って染めさせた貴重なものだったからです。私の着物と一緒に母の着物二枚、山の中で逃げ回るときも「この着物だけは」と大切に最後まで持っていたのです。それなのに、母の着物は近所のおばさんに貸してそのまま灰になりました。私の着物だけは持っていて無事でした。現在それは読谷村立歴史民俗資料館に寄贈し、赤毛の人形に着せて展示されています。私が十三歳祝いに着た着物で、私の思い出の着物です。火事のあと、石川四区のほうに移り暮らしてから読谷に帰って来ることができました。防衛隊に入っていた父もハワイに連行され、その間、沖縄はどうなっただろうかと大変心配したようですが、家族が無事でまた一緒になれて安心していました。〈寄稿〉
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