第六章 証言記録
女性の証言


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フルギンガーで爆撃を受け負傷

知名※※(古堅・※※)昭和二年生

母の死

 一九四〇年(昭和十五)、私が古堅尋常高等小学校高等科一年の時、母は四十二歳の若さで病気で亡くなりました。当時、私の下に十歳と八歳と一歳の妹弟たちがいました。私は母親の代わりに妹弟たちの世話をしたり、家事をしないといけなかったので、高等科一年で中途退学しました。その後、私が十八歳のときに、父は再婚しました。

山部隊の兵隊の宿泊

 一九四四年(昭和十九)当時、古堅国民学校は日本軍の野戦病院になっていました。最初に古堅校に来たのは山部隊と言っていました。将校が、よくサイドカーに女性を乗せて来るのを見かけました。この女性は、島尻方面から連れて来ていたのではないかと思います。サイドカーには黄や赤の旗が掲げられることもありました。
 その後、学校にいては空襲のときに狙われると思ったのか分かりませんが、兵隊は民家に宿泊するようになりました。古堅では、※※(屋号)という家から前の方の家全部に兵隊が入っていました。私の家の隣の屋号※※にも兵隊が入っていました。
 十・十空襲の前だったと思いますが、私の家(※※)にも山部隊の兵隊が五、六名宿泊していました。屋敷内には、瓦葺きと茅葺きの二棟ありました。シム(台所)は火を使うから危ないといってだったのか、瓦屋でした。イージャー(上座)はガヤヤー(茅葺き)でした。一番座、二番座に兵隊が宿泊し、私たち家族は台所にいました。階級が上の軍曹や曹長もいました。兵隊たちの部隊は発着部と言っていたのを覚えています。何かの事務をしているようでした。「何名はあっちの作業に行け」とか、部隊の移動を掌握するような仕事だったようです。何かここに報告に来ていたように思います。どういう仕事をしていたのかは分かりません。その時はもう軍事秘密を漏らしたら大変と思っていましたから、こちらも聞こうともしませんでした。この兵隊たちがどこに作業しに行っていたかは分かりません。どのくらいの期間、我が家にいたかはっきり分かりませんが、寒くなった頃に兵隊たちは島尻に行きました。
 その頃、今の比謝川大橋の所には船舶隊がたくさんいました。方言でフニグヮーブタイ(船部隊)と言っていました。

防衛隊員の宿泊

 山部隊が島尻に移動して後、入れ代わりに、四、五名の防衛隊員が宿泊するようになりました。一九四四年(昭和十九)の終わりごろだったか、年明けて四五年の始めごろだったか、はっきり分かりませんが、ちょっと寒かったのを覚えています。防衛隊員の多くは島尻の人でした。防空壕掘りの仕事をしていたと思います。クボークラシチ(久保倉敷)には防空壕がたくさんありましたから、そこの防空壕掘りに行ったんじゃないかと思います。

十・十空襲

 十・十空襲の前頃、大工をしていた父は、徴用されて嘉津宇岳(かつうだけ)(現名護市在)に行っていました。空襲当日、父は家に帰って来る途中、喜名のナンマーチ(松並木)の下に何名かの人が倒れているのを見たという話をしていました。
 その日、私と妹の※※は、ウーマク(やんちゃ)だったので、木に登って空襲の様子を見ていました。初めは、「アリーアリー、演習、演習、」と言って、米軍の空襲とは知らずに見ていました。十・十空襲のときは、古堅の部落では人家への被害はありませんでした。

奉仕作業

 そのころ、私は、今の読谷村役場のある所に飛行場造りの奉仕作業に行くように言われ、しばらくは通いました。飛行場の奉仕作業は強制的で、「誰々は何日に出なさい」と事務所からの割当だったと思います。手間賃はありませんでした。飛行場までは遠いので、フルギンガー(古堅井泉)にいる防衛隊の炊事の手伝いをすれば飛行場には行かなくてすむと思って、年明けて一九四五年(昭和二十)になってから、私はフルギンガーの所にいた防衛隊の炊事の手伝いに行きました。何部隊だったかは分かりません。フルギンガーは水がたくさんあって便利なので、炊事場にしていたと思います。炊事係も奉仕作業だったと思います。女の人が何名かいましたが、知っている人はいませんでした。防衛隊には炊事班の兵隊が何名かいて、私たちは、その兵隊たちの手伝いをしました。水汲みとか米洗い、煮炊きなど、重要なのは全部兵隊がやっていました。私たちは芋の皮をむいたり、下ごしらえの手伝いなどの軽い仕事でした。間もなく空襲に遭って、すぐにヤンバルに逃げたので、ここにはそんなに長くはいませんでした。
 防衛隊の人はあっちこっちから来ていました。その後、防衛隊もみんな南の方に移って行きました。

防空壕

 当時は、空襲に備えて各家で防空壕を掘ってありました。古堅の人はほとんど、フルギンガー(古堅井泉)の周辺に防空壕を掘ってありました。フルギンガーの上の方には池原※※さんや、池原※※さん、伊波※※さんたちの壕が並んでいました。フルギンガーの向かい側には防衛隊の防空壕がありました。比嘉※※先生たちの壕もその近くにありました。私の家の防空壕は、ワンジャンクントー(小地名)という所にありました。現在、そこはスーパーマーケットの近くにあるアパートの下方になっていますが、今もちょっと残っています。

三月の空襲

 一九四五年(昭和二十)の三月二十二日からは、米軍機がさかんに低空飛行で偵察していました。フルギンガーの近くにあった防衛隊の炊事場から煙が出るので、何かの基地と思ったのか、その上空や古堅部落の上空からも米軍機が偵察していました。また、近くには嘉手納の製糖工場もあったので、そこも偵察していたのだと思います。三月二十三日は、古堅国民学校の卒業式の予定でした。その日は朝早くから空襲があり、子どもたちが学校に行く前に空襲が始まっていました。だから、卒業式はできませんでした。二十三日の空襲では、古堅の民家への被害はなかったと思います。

フルギンガー周辺の爆撃

フルギンガー
画像
 三月の二十三日から連日空襲が続いたので、私の家でも家族みんなでヤンバルに避難しようと準備しているころでした。三月二十四日か二十五日の昼間だったと思います。フルギンガーの近くに爆弾が落とされました。そのときは、どこがどうなっているかとか、情報のやりとりをするどころではありませんでしたが、その日の空襲で、嘉手納の製糖工場も焼けたと思います。
 その日も、私はフルギンガーの防衛隊の炊事場の手伝いをしていたのですが、米軍の爆撃が始まったとき、「みんな防空壕に避難しなさい」と言われて、それぞれ防空壕に避難しました。私は父たちがいる家の壕に行こうと思ったのですが、フルギンガーの所からは、ウフガーを越えて石橋を渡って行かないといけないので、炊事場から近い所にあった私の家の元の墓に避難しようと思って、そこに行こうとしていました。すると、フルギンガーの向かいの壕にいた防衛隊の方が、「早く早く、こっちこっち」と叫んだので、私は「はい」と言って、その壕に飛び込みました。その壕はあんまり大きい壕ではなかったから、防衛隊が来てから掘ったものだと思います。その壕は北側に向いていましたが、私が中に入ったとたん、壕の直前に爆弾が落ちました。後で聞いたら、五〇キロ爆弾だったそうです。大きな穴が開いていました。
 その防空壕には五、六人入っていました。私は防空壕の中央あたりにいたと思います。私は爆風の衝撃で気を失ってしまいました。しばらくして気がつくと、私一人で、誰もいませんでした。もう、助ける人は誰もいません。
 「はあもう大変」と思って、壕を出て、親たちのいる壕に行こうとすると、また、バラバラバラと機銃の音がしました。家の防空壕に行くには、一山越えないといけませんでした。途中に石橋があって、あまり深くない川があったので、すぐに飛び込んで隠れました。その時は、自分が見えなければどこからも見えないと思って、ひたすら水の中に隠れていたんです。
 しばらくして爆撃が止んだので、川から上がって親の所に行こうとすると、私が怪我しているのを見た兵隊が「早く早く、こっちへ入れ」と呼び止めたので、私は防衛隊の米俵や食料がたくさん積まれている所の隙間に避難しました。それで結局、私は、石橋を渡ってちょっと行くと家の防空壕まで行ける所まで来ていたのに、自分の家の壕には行けませんでした。そのとき、私は、自分が怪我しているのも分かりませんでした。あまりに大怪我だとかえって痛みを感じないんですよ。

墓の中で応急処置を受ける

 私の家のワンジャクの墓は、フルギンガーの近くにありました。空襲があった時には、その墓と隣の墓から兵隊が骨壺を全部出して中を空にし、二つの墓を掘りつなぎ一つにして、怪我人の応急処置をする野戦病院にしていました。
 それで、防衛隊の人が、「あんたは怪我しているから、早くあっちに行こう」と言って、私をその墓に連れて行ってくれました。行くと、もう、みんな私の姿を見てびっくりしていました。五〇キロ爆弾が防空壕の前に落ちたときに、爆風で泥や石や土が吹き飛ばされて私の身体中に当っていました。三つ編みにしていた私の髪はばらばらで、石粉(イシグー)だらけになり、顔はすりむいて血だらけだったそうです。自分では見えないから分からないんですが、人が見たら、幽霊か鬼かと思うような格好だったと思います。
 墓には医療班の兵隊がたくさんいました。墓の中には軽傷の人、外には今すぐにも亡くなりそうな重体の人がいました。掘込式墓ですから、墓の庭はあんまり広くなく、よくあって二畳か三畳ぐらいでした。そこに重体の人が二、三名寝かされていましたが、もう、「あーあー」してうめき声を上げたら、「あんたたちは軽い怪我だよ。こんなにしたら駄目だよ」って、怒られっぱなしでした。
 私は墓の中に入れられました。中には民間人もいました。古堅の人では、仲本※※(※※)のお母さんと妹の※※がいました。そのお母さんが、「アレ、※※、イャーヤ、ヌーガ、ヒサヤマチェール(あれ、※※、あんたは、どうしたの足を痛めて)、こんなひどい怪我して」って、声をかけられて、私は「えーっ!」と、初めて足まで怪我していることを知ったんです。モンペをはいていたから、足まで見えないので怪我しているのに気付きませんでした。それで、モンペの裾を上げて見ると、爆弾の破片で穴が開いてぼろぼろになっていました。足のあっちこっちに破片が入っていました。それを見たら気絶しそうになりました。兵隊が血を止める応急処置をしてくれました。そのときの傷跡は今も残っていて、破片が入ったままになっているところもあります。もう痛みはないんですが。

喜名の野戦病院へ

 「これはもう病院で治療しないといけない」と言われて、その日の夕方、私は担架代用雨戸に寝かせられ、四人の兵隊に担がれて喜名の野戦病院に運ばれました。私は昼頃にやられて夜運ばれたんじゃなかったかと思います。担架を担いだ兵隊たちは歩いて行くので、どれぐらいの時間がかかったか分からないです。
 雨戸に乗せられて運ばれる途中、南に行く人もいるし、北に向かう人もいて、多くの人が行き交っていました。その人たちが、負傷して毛布を掛けられている私を偉い負傷兵と思ったのか、こちらに敬礼するんですよ。私はもう、雨戸の担架から落ちないかと、必死にしがみついていました。怖かったです。
 野戦病院は喜名の元の役場の後ろ、今のウシナー(闘牛場)からずっと学校よりの所の下側にありました。向こうで入院させるつもりだったと思います。従姉妹の波平※※が、喜名郵便局で働いていたので、「喜名からは近いから、私が付き添いするさあ」と言って、一緒に行ってくれました。私は、その日のうちに治療してもらいました。足には弾の破片がたくさん刺さっていました。一つの破片は貫通していて、破片が出たところの傷は大きかったです。消毒するのにガーゼを四枚も使いました。麻酔もないので、あまりの痛さに意識不明になりました。
 治療が終わると、「こっちには入院できないから、お家に帰りなさい」と言われて、私はまた、防衛隊の人たちに担がれて家に帰りました。家に着いた時はもう夜中なっていました。
 そのときから、米軍の艦砲射撃も始まりました。

久保倉敷の壕に避難

 その後すぐに、私は、家族と一緒に久保倉敷(クボークラシチ)に行きました。夜、父の弟で防衛隊員だった※※叔父さんが来て「久保倉敷に避難しておきなさい」と言って、私を自転車の後に乗せて連れて行ってくれました。叔父は、自分の子どもも小さいのに、怪我をして歩けない私を連れて行ってくれたんです。その後、叔父は勤務があると言って部隊に戻って行きました。その時、「一緒に逃げて」と言ったら、「国のために」と言って別れ、もうそれっきり行方が分かりません。戦死しました。その日に一緒にいたら命も助かったのにと、悔やまれてなりません。
 久保倉敷に行く時は、マチバルクンチリー(牧原の近道)から脇道小(ワチミチグヮー)を通って、栄橋を渡って行ったと思います。私の家族(両親と妹の※※と※※)五名と、※※叔父さんの息子の実さんたち(お母さんと※※、※※、※※と乳飲み子)六名と、※※のおばあさん、従姉妹の波平※※とお母さんと、全部で一四、五名一緒だったと思います。
 長女の※※姉さんは当時、嫁ぎ先の家族と一緒にメーヌハンタ(地名)の壕にいて、そこで間もなく米兵に捕まって、楚辺に連れて行かれたそうです。トラックに乗せられて行くとき、海に棄てられるかと思って怖かったそうです。
 久保倉敷では防空壕を見つけて入りました。そこには二、三日か、あるいは一日だけいたのかも知れません。
 私は、髪はボサボサ、顔には赤チンキを塗って真っ赤になっていたので、母に「あんたの顔は鬼みたいになっているから、壕の外には出ないでちょうだい」と言われ、おしっこするのも壕の中でやるように言われました。それで、私は防空壕の中にこもっていました。

叔母親子の死

 久保倉敷に行って、叔父が最初に入れた壕は、軍人の出入りが多かったので、少し東に移りました。そこには川があり、川を隔ててあっちにもこっちにも壕があったので、私たちはみんな一緒に左側の壕に入りました。向かいの壕には、従兄弟の比嘉※※たちが入っていました。※※はちっちゃくて、とてもすばしこかったのでテイサツサー(偵察係)をしていました。
 四月一日、米軍が上陸して来ました。その日、私たちがいた壕の上に米軍の落下傘降下兵が降りたそうです。それを向かいの壕にいた従兄弟の※※が見たそうです。※※はウーマク(やんちゃ)だったから、いつも木に登って、「あれあれ、今はどうしよる、こうしよる」って、みんなに知らせていました。その日も、※※は木に登って、落下傘で米兵が降りて来るのを見て、「今、降りよった、降りよった」と、報告していました。こっちの壕の上からはこっち側は見えないけど、向かいの壕は見えるでしょう。みんな、壕の入口にニクブク(藁でつくった敷物の一種)を下げていたので、米兵は落下傘から降りて、向かいの壕のニクブクを開け、すぐ機銃でパーラナイ(連射)だったそうです。それで、叔母の砂辺※※と娘二人の親子三名と、比嘉さんの子ども一人の四名が殺されました。即死だったそうです。

ヤンバルへ

 私たち親戚同志はいつも情報をとりあっていたので、親戚が「ここも危ないから、早くヤンバルに逃げよう」と言ったので、父も「ここで死んだら誰にも見られない。出て行って道で倒れたら、字の人か誰かが見つけて、『どこそこに倒れていたよ』って、後は分かるから、早くみんなの所に行った方がいい」と言って、その日のうちに私たちはヤンバルに避難しました。
 久保倉敷からヤンバルへ行くときは、東海岸を通って、金武を通って行ったと思います。どこの川だったか分からないが、川を渡るときに、父が私をおんぶしてくれたのを覚えています。
 ヤンバルに行く途中、防衛隊が移動して行く時に落として行ったのか、大きい鰹節やら毛布が、道にいっぱい落ちていました。私たちは、「あっちにもある」「こっちにもある」と言って、一人一本ずつ鰹節を拾って持って行きました。毛布には目もくれませんでした。金武にはたくさんアダン林があったから、私たちは昼中はそこに隠れて、この鰹節をしゃぶって食べ、これでずいぶん助かりました。
 幸い、足の怪我は骨までは達していませんでした。十七、十八歳で太っていたから、大丈夫だったんじゃないかと思います。ヤンバルに逃げて行く途中も、何かがモンペに引っかかるので、「何だろう」と思って見ると、まだ足に刺さっていた弾の破片が突き出ていました。それがちょうど、木炭殻(もくたんがら)のようになっていたので、手で取って捨てました。ずっと歩いてヤンバルに行くまでには、傷口が腐れて蛆がわいていました。
 国頭村の鏡地が古堅の指定地でしたが、私たちは比地までしか行けませんでした。私たちは何にも食料を持っていなかったので、そこで配給をもらいました。配給は、一人米一升ぐらいじゃなかったかと思います。私の分は、従姉妹と妹たちが交互に持ってくれました。何日だったか覚えていないが、配給は、ちょうどその日までだったと思います。
 配給を貰ったらすぐまた避難しました。父は十・十空襲の前に嘉津宇岳に徴用に行っていたので、ヤンバルのクンチリ道(近道)も知っていたと思います。父の従姉妹の呉屋小(グヤグヮー)の※※姉さんが辺土名にいると聞いて、私たちは比地から辺土名に行きました。※※の※※も機銃でやられたといって、手を怪我していました。そこで一緒に怪我の消毒をしてもらいました。
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