第六章 証言記録
女性の証言


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婦人会の役割

安里※※(喜名・※※)大正三年生
 私は昭和十五年から沖縄戦が始まるまで、喜名の婦人会長をしていました。昭和十六〜十七年頃の婦人会長の仕事に「千人針」作りがありました。白い布の腹巻きに、武運長久と書かれ、すぐに糸の結び目をつけられるような印を入れたのが役場から配られて来ました。出征する兵士の数によって、多いときは四〜五枚も来るときがありました。最初の頃は一枚ぐらいでしたから各家庭を回ったり、時には人が集まる役場前や郵便局前に立ってたくさんの人に赤い糸の結び目をつけてもらっていました。しかし、毎度のことのように連続になってくると家々を回って作ってはとても間に合わせられなくなってきました。
 この千人針は、寅年生まれの人は、自分の年の数だけつけることができるようになっていましたから、後になると寅年生まれの人を尋ねてやってもらっていました。それでも何度も何度も行くものですから頼むのも気が引けるし、農村ですから夕方になると豚の餌をやったり、夕食の準備などで忙しい人々を訪ね歩くことも出来なくなり、ほとんど私と※※(比嘉姓)の大きいおばあさんの二人で作りました。私も寅年生まれ、おばあさんも寅年生まれだったのです。ほんとならたくさんの人に糸を通してもらうのが建て前ですが、後からは自分一人で作って、役場に届けたものです。ですから千人針がくると夜は一人で遅くまでかかって間に合わすこともありました。それを出兵する人に贈りに行ったことがありましたが、この千人針の腹巻きと十銭硬貨を贈りました。その十銭は出征兵士へのお菓子代と言っていました。お金は役場からの支給だったと思います。千人針には五銭硬貨と十銭硬貨とを縫い付けました。あの頃の話では腹部に弾が当たったが、運よく腹巻きに縫いつけてあった硬貨に当たり、命拾いをしたという話しがありました。五銭は死(四)戦を越える、十銭は苦(九)戦を越えるという意味だと言っていました。でもこの硬貨を縫い付けるのは、出征する兵士の妻や家族が縫いつけていたと思います。ですから婦人会から贈るのは糸を通した腹巻きと十銭硬貨だけでした。
 千人針を贈ったのは昭和十六年の初め頃まででしょうか、読谷山村からも出征兵士が比較的少ない時代だったと思います。その頃、新崎※※さんが婦人会幹部をなさっているときでしたが慰問袋を贈ったこともありましたよ。もちろん上からの割り当だったと思いますが、喜名婦人会で二〇袋ぐらい贈ったと記憶しています。
 この千人針も太平洋戦争が始まる頃から毎日たくさんの人々が入隊しましたからいつの間にか無くなっていました。男はみんな兵隊になるという時代になっていましたからとても対応できなかったのです。
千人針(大阪在・森南海子寄託資料
読谷村立歴史民俗資料館蔵)
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 日本軍が沖縄に入ってからは、行軍といってたくさんの兵隊さんが隊列を作って歩くようになりました。そんな時には役場の入口で婦人会幹部が湯茶を準備して接待したりで、軍への対応が仕事になっていました。
 毎日のように役場には呼ばれ、さらに日本軍に供出する鶏の卵を集めたこともありました。それも婦人会の仕事でした。鶏は各戸飼っていましたから、家々を回って集めるのです。各戸から二個ずつ集めましたがザルの一杯も集まりました。役場からは卵代としてお金もありました。あの当時、仲吉医院の奥さんは副会長で、よく二人で家々を回って集めたものです。ある人は「国を守るために来ている日本軍のためだから、お金は取らんでもいいじゃないか」と言っていましたが「でも規則ですからあげましょう」と言ってお金を払いました。
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