第六章 証言記録
女性の証言


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喜名で保護される

安里※※(喜名・※※)明治四十四年生
 戦争の時は、ナガサクの壕にいました。ところが「敵が上陸するぞ」というのでもう怖くなってスルルンチヂー(場所名)というクールー岳の近くの日本軍が掘った壕に逃げ込みました。日本軍はすでに南部に移動して空いていたのです。敵が上陸する前の日だったと思います。そこにはすでに喜名の人がたくさん入っており、私たちは後から入ったので壕の入口の近くにいました。壕には一〇〇人ぐらいいたでしょうか、ほとんど喜名の人たちでしたが、中には日本兵や、竹槍を持った防衛隊員も数名いました。「飛行場の滑走路が壊されたので修復して来た」と言っていましたから最後まで飛行場を守るために残っていた防衛隊だったと思います。
 四月一日、壕の中からでも銃声が聞こえましたから敵が上陸していることが分かりました。壕の中は住民ばかりでしたから兵隊や防衛隊も心細くなったのでしょうか、兵隊たちは「南部の主力部隊の所に行く」と言って弾が飛び交う中を飛び出して行きました。最後に竹槍を持った三〜四人の防衛隊員が出て行きましたが、入口にいた私達に「カチイクサ シ チャービラ フー(勝ち戦してきましょうね)」と言って出て行きました。でも、その頃から南部に行けたかどうかは分かりません。今から考えてのことですが、おそらく壕を出て直ぐに殺されただろうと思います。外は砲弾の音がけたたましく、艦載機が木の上すれすれに超低空で飛び回っている状況で、我々の壕を探し回っているのではないかと思うほどでした。
 兵隊や防衛隊が出て行って後は女や子どもや年寄りだけで、今にも壕の入口にアメリカーが現れるのではと怯えていました。ある人は、包丁をつけた手製の槍を持ってアメリカーが来たら刺し殺すといきり立っていました。
 そこに比嘉※※さんが「米兵は民間人は殺さないから出てきなさい」と呼びかけにきて全員無事に収容されました。ですから比嘉※※さんは命の恩人ですよ。私達はしばらく喜名にいました。あの頃は喜名のムラウチ(本集落)も戦災を免れた家がたくさんありましたから、そこに収容されていました。そこから金武に連れていかれ、さらに宜野座、漢那に移り、その後波平に帰ってきました。
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