第六章 証言記録
女性の証言


<-前頁 次頁->

蚕業指導員から軍属へ

安次嶺※※(旧姓饒波・※※)大正十三年生

戦時体制下の青年会活動

 私は古堅尋常高等小学校高等科を卒業後、同校に開設されていた女子補修学校へ三年間通いました。一週間に三日間、午後一時から五時までで、裁縫などを習い、最後の一年は織物を習いました。八枚綜絖(そうこう)を用いた織物で「コウキュウオリ」といいました。
 その頃は青年会活動も盛んで、私は字渡具知青年会の副会長をやっていました。一九四一年(昭和十六)十二月、青年会長と二人で那覇にあった海洋会館へ、三日間の保母の研修を受けに行きました。一九三七年(昭和十二)から日中戦争が始まっていましたから、幼児たちを預かってもらえば、その分親たちが働けるということだったのです。研修では「むすんでひらいて」など、童謡の遊戯を習いましたが、恥ずかしかったことを覚えています。研修を受けた女子青年が、字の事務所で子ども達を預かっていました。
 食事時は幼稚園の子供達にも、「箸取らば、天地御世(あめつちみよ)の御恵み、君と親との御恩味わへ」と言って、必ず手を合わさせてから「いただきます」と食べさせたものです。私達の青春時代はそういう精神が、いやでも皆たたき込まれました。竹槍訓練もあるし、渡具知に駐屯していた電信屋(海底電信陸揚所)守備隊の炊き出しにも行き、電信屋には役場からは知花※※さんが担当でよくまわってこられていました。
 十六歳の妹は産業挺身隊として、滋賀県の軍需工場へ徴用されていました。私は保母を始めた矢先、その仕事を後輩に委ねざるを得なくなりました。蚕業試験場の試験に合格したからです。

蚕業指導員になる

沖縄県蚕業試験場にて、
左端がキクさん(キクさん提供)
画像
 一九四二年(昭和十七)四月、小禄のガジャンビラにあった蚕業試験場に入学しました。蚕業試験場は、合格すれば県の費用で進学できるという恩典がありました。本当は看護婦になりたかったのですが、こちらを選びました。同期生は、女が二四人に男が一〇人でした。読谷からの同期生には、池原※※(古堅)、玉城※※(渡慶次)などがおり、松田※※先生(大湾)は教官をされていました。
 約六か月間の講習を受け、次は本土で六か月間の講習の予定でしたが、日に日に戦争が激しくなり切符も準備していましたが、本土へは行けませんでした。
 卒業後は蚕業指導員になり、約一年間、蚕を飼っている家を巡回し、一から教えました。当時、読谷山村役場敷地内に「養蚕室」があり、指導員は、真栄田※※(座喜味)、与那覇※※(渡慶次)、仲宗根※※(男性)と私の四人で、蚕業試験場からは小嶺※※先生が来ていました。また読谷山村にあった、「山下蚕種製造所」(山下※※・京都出身、「山下分場」とも称した)でも仕事をしました。この頃は、給料以外に巡回手当が付き、月に二、三〇円ぐらい貰っていました。
 村内では、蚕を育てて繭にして売るものと、孵化した蛹(さなぎ)を交尾させて産卵するものとに分けました。那覇の蚕業試験場では種紙に卵を産みつけさせて、各村に配り、そして蚕を育てさせていました。
 一九四三年(昭和十八)夏頃から、読谷飛行場造りが始まり、後に夫になる奮實も馬車持ち(バシャムッチャー)をしていました。同じ字の人なので、顔は知っていました。私も、バーキグヮー(ざる)で石ころを運んだり、お茶汲みをしたりする日が続きました。国場組の穴掘りの徴用もあり、朝の五時から夜の八時まで十二時間、時給僅か六銭で働いていました。これが何か月も続いて、辛いものでした。そこで、私はまた那覇へ行くことにしました。那覇では、蚕業試験場でお世話になった具志先生の「蚕糸試験場」で、真綿を作る仕事に就きました。蛹が孵化したあとの繭などは、ほぐして真綿にしていました。しかしそこでも、小禄飛行場造りの割当人数が出されますと、「私が若いから行くよ」といって毎日小禄へ飛行場造りに行くことになりました。

スンチャーニービチ

 夫は一九四三年(昭和十八)十二月十六日、現役召集され入営するために家を出たのですが、翌日には戻ってきました。船団を組んで出港したところ、前方の士官学校へ向かう船が撃沈されたため、夫が乗っていた船は戻ってきたとのことです。結局、翌十二月十七日も出港できないことになったので、私を嫁にもらいに来ました。当時は親の言われるままの結婚で、私が十九歳の時でした。結納として豆腐一〇丁を持ってきて、私は嫁に貰われました。そのときなぜか親が一丁は向こうに返していたので、今では笑い話ですが、私は豆腐九丁と交換されたわけです。
 夫は入営前の身で、「スンチャーニービチ(行きがかり結婚)」という状態でした。跡継ぎがいないと大変ということで、子供を作らせるため、出征直前に親にいわれるまま結婚するという話は、当時ではめずらしくはありませんでした。今の時代では考えられないことでしょうね。
 翌日の十二月十八日、せめて見送りだけでもということで行きましたが、夫を乗せた船はすぐに出港して行きました。急なことで、入籍はしてなかったのですが、夫の家族の一員として安次嶺姓になりました。
 夫は入営後一か月の訓練を受けて、すぐフィリピンに行かされたそうです。時局が切迫していたため、手紙も送金もありませんでした。夫が兵隊に行っている間も、那覇などあちらこちらに働きに行きました。祖母は頑固で「兵隊はすぐ死ぬのに何で嫁にやったのか」と母に辛く当たっていました。また私には、「兵隊と一緒に歩いたり仕事をしたりする時は、安次嶺家の人の許しを得てからにしなさいよ」とも言っていました。
 夫が召集された一九四三年(昭和十八)十二月から三か月間ほど、那覇にいました。蚕糸試験場の具志先生から、家族を連れて宮崎に疎開してはどうかと勧められましたが、船が撃沈されるのも怖いし、家族のことも気がかりでしたので、一九四四年(昭和十九)春、再び読谷へ戻りました。私は結婚したとは言っても夫は出征中であり、実家には弟妹もたくさんいましたので、実家で家族の面倒を見ていました。

病院で軍属として

 読谷に戻ると、毎日のように徴用がありました。やることはあっちこっちの穴掘りばかりでした。アナフヤー(穴掘りする人)より軍属がいいと考え、伊良皆にあった那覇分廠本部に、友人の松村※※(古堅)と雇ってもらうようにお願いに行きましたが、いっぱいで入れませんでした。むこうは村内から多くの人が軍属として働いていました。
 そこで私たちは、喜名の役場の近くにあった仲吉病院で軍属として働くことになりました。当時病院といえば、ここと嘉手納の大山医院でしたが、どちらも日本軍が駐屯していて、軍の専属病院になり、個人病院としては閉鎖した形でした。そこで包帯を洗ったり、事務をしたりしました。村の婦人会長をした知花※※さん、儀間の安仁屋※※さん、そして松村さんと私の四人が一緒でした。
 そこで二か月ほど仕事をした後、古堅国民学校に山一二〇七部隊・第二十四師団防疫給水部(編者注 昭和十九年八月七日から昭和十九年十二月五日まで読谷山村喜名付近に駐屯。この間、八月十五日から十一月三十日まで古堅国民学校に臨時野戦病院を開設。第九師団が台湾に転出されたことに伴い、昭和十九年十二月島尻地区に移動)の病院本部ができ、そこに本部付きということで行かされ、病床日誌を書く仕事をしました。山部隊の兵隊は北海道からきている人が多く、召集兵で教師をしていたという五十歳代の連(むらじ)さんという兵隊から日誌の付け方等を教えてもらいました。来客の時は給仕もしていました。軍属と言っても、給料はもらっていませんでした。最初の一、二か月間ぐらいはあったかなという程度です。
 日誌には病人の人数や病名、誰がいつ死亡したとか退院したといったことを書いて提出していました。軽い怪我や虫垂突起炎(盲腸炎)が多く、手術といっても麻酔もなく、痛い痛いと苦しんでいた様子が目に浮かびます。だいたいは三、四日で退院していきましたが、中には手遅れで亡くなる人もいました。
 朝鮮から軍夫もたくさん来ていて、主に、比謝川河口に杭を立てる作業をしていました。これは、河口から米軍が来るのを阻止するためのものでしたが、あまり効果があったとは思えません。ある朝鮮人軍夫が亡くなったとき、「春木※※」と記したことを覚えています。兵隊の死人が出ると、通夜みたいな感じで、一晩は屍(しかばね)衛兵といって死んだ人の守りをする衛兵を遺体のそばに立てていました。その翌日には、楚辺のウシナー(闘牛場)に運んでいって火葬していました。ウシナー辺りから煙が立つと、「今日も燃やしているね」って、ひそかに話をしていました。

空襲後

 一九四四年(昭和十九)十月十日、古堅国民学校も十・十空襲を受け、病院本部も古堅の民家に分散移動しました。本部が置かれたところは湾迫(ワンジャク)という場所で、新堀大尉、結婚して子どもが一人いるという三十一歳の藤井准尉、山本軍曹に連(むらじ)さん、そして私と五、六名がそこにいました。病室は上地※※先生の家がある※※(屋号)などに移りました。
 十・十空襲前は、怪我人も病人もそれほど来ませんでしたが、十・十空襲時に怪我をした人がたくさん病院に来ていました。十・十空襲後は、大型機の空襲は何回も受けていましたが、あまり恐怖感もなく木に登って見たりもしていて、まるで空襲慣れしていた状態でした。
 一九四五年(昭和二十)に入ると、部隊は首里石嶺へ移動になり、私は「看護婦ではないからついてこなくてよい」と隊長に言われ、家に帰ってきました。仲吉病院で軍属をしていた友人たちは、部隊と共に石嶺まで行き、そこで二、三か月働いていたようです。戦後、彼女たちから「あなたは行かないでよかったね」と言われました。私は兄弟が皆小さくその上、一番上だったので常に家族のことも気になっていました。また私の上司である隊長がとてもいい人で(下士官か少尉だった)「この戦争は君達の所の浜から上陸してくるから、国頭の方へ逃げなさい。命だけは大切にしなさい。自分で死ぬということはやらないでほしい。勝つのは難しい。では、頑張ってね」と言われました。
 一九四五年(昭和二十)一月頃、当時まだ十六歳だった弟の※※が防衛召集を受けました。父、※※が嘉手納製糖工場の責任者だったため、召集を免れており、その代わりだったのでしょうか。陸戦隊として山根部隊に入隊し、小禄の海軍壕へ行きました。三月二十三日に、小禄まで面会に行こうと家を出たところ、知り合いの通信隊の兵隊に出会い、「今あっちにいったら、絶対に生きて戻れない。行ってはダメ」と強く止められました。それで一度も面会に行けないまま、弟は戦死したと後に知りました。

渡具知の特攻艇秘匿壕掘りに徴用

 一九四五年(昭和二十)の二月から三月の一か月間も徴用で、渡具知の比謝川沿いの特攻艇の穴掘りをしました。あの時は、隧道(ずいどう)(トンネル)掘りといってました。しかし、給料という給料はもらった覚えはなく、弁当も持参で、全くの奉仕作業でした。皆、国のためという考えでしたから。
 男子青年は防衛召集や、学徒動員などでほとんど居なくなっていたので、隧道掘りには、渡具知と嘉手納の女子青年が徴用され、隧道は六箇所ほどありましたが、一箇所につき、防衛隊員一人に、女子青年五、六人で作業をしました。嘉手納からは、女子青年が船で比謝川を渡って通っていました。
 山部隊の指揮下、私たちの班長は三上軍曹で、ダイナマイトで爆破しては砕けた石を取り除き、十字鍬(つるはし)で形を整え、さらに奥をダイナマイトで爆破して、数十メートルに及ぶ相当長いトンネルを掘りました。この作業は、三月二十五日に立ち退き命令が出る直前まで続けていました。その後、特攻艇が運ばれてきたとは思えないので、結局あの隧道は使われることもないままだったと思います。
 三月下旬頃からは、空襲が激しくなり私達は自分の家の壕にいましたが、字の人はハーマグヮーの壕などに避難していました。父が製糖工場で働いていたため私達は製糖工場の桟橋(現在の比謝川大橋)の辺りにあった会社の壕にもいました。

家族で山原へ避難

 一九四五年(昭和二十)三月二十五日ぐらいから、空襲が激しくなり大変でした。立ち退きをする時、馬は徴用されていたので、持てるだけの荷物を背負って行きました。家族は両親と祖母、三歳の双子の妹たちと二歳の弟、叔母の家族など十数人で、夜の九時頃に出発しました。その頃は、あちこちから大勢の人で県道はごった返していました。
 目的地に着くまで四日間かかりました。祖母は六十歳余りでしたが、現在の六十代のイメージとはほど遠いものがありますから大変だったと思います。夜通し歩き続け、翌朝、恩納村名嘉真というところに着きました。昼間はアダンの茂みに身を隠しながらおにぎりを食べ、夜になるとまた北へ向かって歩き、次の日は羽地、三日目の朝に辺土名、四日目の朝にやっと与那部落に着きました。
 しかしホッとしたのも束の間、着いても住む家はなしで、早速避難小屋を自分達で造りました。川沿いにしか造れないのでそこに小屋を造って入りました。食糧難でおまけに大家族のためそれを調達するのに大変苦労しました。父と私が主に食料を集めてくる係りでした。
 塩は一番大事な調味料で塩がないと何も作れません。当初は皆元気だったので、雇われて田畑を耕したりして何とか貰い物などで命をつないでいました。

山の中で、祖母と弟と妹を亡くす

 与那は避難してきた人であふれかえっていたので、すぐに山の中に行きました。山中には一か月くらいいましたが、食料もなく大変な日々で、食べられる草は何でも食べました。クヮーギヌファー(桑の葉)やアカマーミー(小豆)の葉、ヒグ(日陰ヘゴ)の芯まで炊いて食べていました。食べられそうな物はありとあらゆる物を口にしました。大家族のため本当に大変でした。
 昭和二十年五月に入ると、米兵がやって来るということで、国頭村与那から、山を越えて東海岸の安田から安波へ移動しました。この山道を移動する途中、私は二歳の弟(※※)を背負い、三歳の妹(※※)の手を引いて歩いていました。その時、米兵の銃撃を受け、みんな傷を負いました。私もこの時負傷しましたが、結局、小さかった妹と弟の二人がこの怪我がもとで次第に弱ってゆき山中で次々と亡くなりました。また祖母も厳しい山での生活の中、栄養失調で衰弱し亡くなりました。
 家族を失い、自分もいつ死ぬかもわからない状態で、なんとか安波(アファ)の美作屋取(チュラサクヤードゥイ)という所までたどりつきました。しかし、そこでも食料不足はどうにもならず、再び安波から安田へ逃げ、また奥間へ引き返し、そこの山の中にいました。
 昭和二十年の七月頃、野草を引き抜いて食べる生活も限界に近づいていました。野草でも塩と煮ると、少しは食べやすくなるので、決死の覚悟で奥間から伯父と二人で安波の美作まで塩を買いに行きました。その時、山中で、背嚢(はいのう)を背負ったまま、倒れて死んでいる女学生を二人見ました。木の葉で覆われていたので取ってみたら名前があって、それが宇座※※さんだったと思います(編者注 ※※さん、※※さん姉妹は昭和二十年七月十六日、避難先の奥間から安波へ塩を買いに出た先で、米兵の銃撃で帰らぬ人となった)。手を合わせてから先へ進みました。楚辺の人が「アイエーナー、うちのお父さん殺されてよー」と嘆いているところにでくわしました。自分もどうなるかわからない、いつ死ぬかもわからない状況で、心のゆとりもありませんでした。
 塩を買ってリュックサックに入れて帰る途中、辺りは暗くて道も見えないので何と河の中に落ちてしまい、肝心の塩はずぶぬれになりました。苦労して遠くまで買い出しに行ってやっと手に入れたのにと悔しさでいっぱいでした。しかし水を含んで溶け出した塩がリュックに残っていたので、伯父が止めるのも聞かずに、力を振り絞ってそのまま背負って帰りました。

食べ物を求めて

 夜は夜で、アメリカ軍の陣地に「斬り込み」(盗み)に行きました。何かにつまずいて音がすると、照明弾がいきなり上がるわけです。照明弾が上がったら、泥棒が来たということで米兵が撃つのです。その隙に後ろから缶詰等を取って食べていました。命をつなぐためにそんなことまでしました。
 何時殺されるかも分からない状態の中で、アメリカ軍を相手に、生きるために皆必死でした。
 山原の山中には友軍の宇土部隊というのがおり、米軍飛行機が飛んできては空襲されるし、米兵も下から山へ上がってくる状態の中で、宇土部隊の兵隊に貴重な砂糖など、持っている僅かな食糧を全部取られてしまいました。同じ日本の兵隊なのに本当に情けなく思いました。また、壕から追い出されたり、隠れている所を出されたりもしました。
 私たちは、終戦になってもまだ山の中にいました。米軍が沖縄本島へ上陸した四月から、半年近くも山の中に住んでいたわけです。米兵に捕まったら「男は銃殺、女はどこかへ連れて行かれ強姦される」と聞かされていた時代なので「戦争は終わっている」というビラがまかれても誰も信用せず山を下りませんでした。
 八月二十日頃、比地では米軍が避難小屋を焼き払い、住む場所もなくなりました。拡声器で「日本は負けた。早く出てこい」と繰り返される声に促され、仕方なく山を下りました。そのときには皆顔に墨をぬり、髪もわざとカンターモーヤー(頭髪が乱れた様子)させ、年寄りに見せかけ白い布等の旗を持って下りて行きました。

収容所での恐怖

 収容されてからも大変でした。奥間の収容所では、私は床の上でちゃんと寝たことはありませんでした。毎晩、ユカサヌミー(床下)で寝ていました。女の人は米兵にどこかへ連れて行かれるという話は、デマではありませんでした。若い女性が、米兵に連れ去られ強姦される事件もたくさん起こりました。アメリカ軍の消毒車がくると、見つかっては大変ということで「来たヨー、来たヨー」と声を掛け合い、若い女性達を隠しました。
 実際に、強姦された人は本当にかわいそうでした。それを苦に自殺した人もいたと聞きました。皆で畑に行って、たまたま一人でいた時に、黒人兵に強姦され、ショックで気が狂った人もいました。こんな形で心に傷を負った人は、戦後も苦労されたと思います。
 奥間の収容所で二、三か月ぐらい滞在していましたが、そこでの暮らしは落ち着かない日々で、友達三人と一緒にそこを飛び出し、宜野座へ向かいました。そこで、池原※※先生に出会い、漢那の孤児院での仕事を紹介してもらったのですが、一週間後に私はそこも飛び出しました。今度は別の友達と二人で石川収容所へ向かうため、黒人の運転するトラックに密かに飛び乗りました。それをみていた人が黒人に連れ去られたと勘違いし、家族に報告したため、親はとても心配していたようです。
 石川収容所では、登録されていないからと受け入れてもらえませんでした。しかし、そこで引き下がるわけにはいかず、交渉した結果、なんとか石川に滞在できることになりました。また、当時諮詢会にいた松岡※※さんは父と親しく、そのつてで移動係の人から家族全員分の移動証明書をもらい、家族を迎えに行きました。昭和二十一年の正月は石川で迎えました。
 石川には、親戚の国吉さんがいました。彼はハワイ帰りで英語が堪能で衣料部にいましたので、最初はそこで事務員をして、次に配給所に配置替えされました。配給所前には労務所があり、島外からの復員者は皆そこで降ろされていました。今日はどこの誰が帰って来たとか、皆関心がありました。ある日、いったい誰が帰って来ているかなーと見に行ったら、友達が「イッターシンカガ ケーティ チョーンドー(あなたの夫が帰って来ているよ)」と知らせてくれたけど、「あっ、生きていたんだね」と、そのくらいの気持ちしかありませんでした。結婚したとは言っても入籍もしてないし、たったの一日では「夫」という実感がなかったので無理もなかったと思います。あまりに私のそっけない態度に、夫はもう別の人と結婚してしまったのかと勘違いしたそうです。

先発隊として読谷山へ、戦後も続く移動

 石川収容所の配給所で恩師の知花※※(戦後、※※に改名した)先生と出会いました。昭和二十一年十一月、知花先生に声をかけられ読谷山村建設隊の一員として、読谷に行き、波平から高志保の配給所で働きました。一か月遅れで家族も読谷山村に移動してきたので、波平で一緒に住むことになりました。この時からは、ずっと夫と一緒に暮らしましたが、その夫も平成十二年に亡くなりました。
 昭和二十二年に波平から楚辺へ移動し、数年間そこで暮らし、昭和二十六年、ようやく渡具知へ移動できることになり、生まれ島に戻ることができました。渡具知でやっと落ち着き始めた三年目に、今度は比謝の部落へ再移動することになりました。比謝にきてから、もうすぐ五〇年になります。
<-前頁 次頁->