第六章 証言記録
女性の証言


<-前頁 次頁->

国頭避難

屋良※※(旧姓国吉・長田)昭和二年生

三月二十九日、国頭へ

 当時私は、読谷山村役場に勤めていて、三月二十六日頃まで役場に通っていたと記憶にあります。
 戦争の情報も途絶えているし、私にも役場職員として何か連絡が来ないかという事で家にいたんです。長田は飛行場に近い喜名あたりとは違って、あまり空襲もなく安心していました。
 ところが三月二十五日頃から、艦砲射撃がひどくなって長田にも砲弾が落ちるようになりました。それでも壕の方でしばらく生活していました。喜名あたりから来た人達もたくさんいたのですが、気がついてみると誰もいなくなっていました。それで、壕から家に戻ってみても誰もいないわけです。
 国頭に避難したのは、米軍上陸直前の三月二十九日です。家の西側に小高い所があるんですが、そこに家族揃って上がってみたら、普段なら都屋あたりの海が見えるはずなのに、真っ黒なんですよ。何だろうと思って目をこらして見ると船なんですよ。水面が見えないくらい真っ黒で、これは大変だ、必ず上陸すると思いました。
 父が「トーナー ヒンギールナイル。ワッター ビカール ウマンカイウンドー(もうこれじゃあ逃げるしかない。ここにいるのは自分達だけだぞ)」と言って、どんなふうに荷物をまとめたかもわからないくらい大慌てで家を出ました。一年生の弟にまで持てるだけの荷物を持たせて、母は一番末の数えで四歳になる弟を背負って、荷物もいっぱい持って、おばあさんは杖をついて、みんなで歩いて逃げました。
 二十九日の夜中着いた所は、楚南山城でした。昼は歩けませんから、夜になると動きだしました。
 それから喜瀬武原に行き、そこで米軍の上陸のこんな噂を聞きました。「米軍が上陸して、屋良飛行場や読谷あたりで捕虜になった人達を大きな鍋に湯を沸かしてそれにぶちこんでいる」というものです。これは少しでも山奥に逃げておかないと大変だと思いました。

国頭をさまよう

 それから東村に逃げ、山の中で暮らしました。国頭には避難民がいっぱいいました。その頃は山道からしか歩けないので、山案内人がいたんですよ。彼らはいくらかお金を取って、山の中の道案内をするんです。私たちは道を全然知りませんから、先頭について行かなければいけないし、荷物も持って大変でした。それでも幸いな事にケガもせずハブにも咬まれませんでした。
 やっと安田安波に辿り着いて、避難地は辺土名だからということで、辺土名に行こうとしたら、反対にそこから上がってくる人達がたくさんいるんです。どうしたのかと聞いたら、米軍が上陸して兵隊でいっぱいだからあそこには居られないということで、みんな東海岸めざして来ていたんです。
 その時に父が山の中で味噌を盗まれてしまって、とりあえず塩だけでも手に入れようと嘉陽まで行きました。嘉陽ではある民家に入り込みました。そこの人たちは山に逃げて、空き家になっていましたので、薪もたくさんありましたから、海から潮水を汲んできて、鍋いっぱいそれを炊いて塩を作りました。味噌がなくても、その塩で「ヌチェーイチカリーサ(命をつなげるだろう)」ということでした。
 ここには蘇鉄もあるし、しばらくはここで暮らそうということになりました。
 蘇鉄は毒があるので、削いで発酵させないといけないんですが、河原に埋めておくと盗む人も多いものですから、子供達に蘇鉄の番をさせるんです。だしも何も無くて、海水で作った塩を入れて、桑の葉を摘んできて入れたり、雨が降るとかたつむりが出てくるのでそれを入れて食べました。
 四歳になる一番末の弟は、栄養失調で弱り果てて食事もできなくなっていました。小さい芋を一つあげたのですが、一年生と三年生の弟たちもおなかをすかせているので、「末の弟が芋を落としたら自分が食べるのに」というふうな様子で、落とすのを待っていました。それくらい食料がなかったんです。
 一番末の弟がそういう状況でしたので、後で聞いた話ですが、このとき父は「この子に万一のことがあったら、この川のそばに埋める」とまで考えていたらしいんです。

投降

 そこで一か月くらい過ごしました。そのうちに嘉陽の住民がやって来て「戦は負けたんだから、出ようじゃないか。アメリカーは殺しはしない。みんな一緒に出よう」と避難民に声をかけたんです。そうして嘉陽の住民が一体となって、白旗を挙げて先頭に立ったので、私たち一家もその後についていきました。若い娘たちは、鍋のすすを顔いっぱいにつけて出たんですよ。
 そしたら黒人兵がやって来たので「ウッターヤ チュルヤガヤー(これ達は人間だろうか)」と思っていました。初めてだったので、怖くてまともには見ることができないほどでした。
 それから瀬嵩に落ち着きました。瀬嵩では米の配給がありましたが、細長いもので、石がまじっていて、米だけを選んでたべるのは大変でした。それでも米が食べられるだけ嬉しかったです。
 ところが瀬嵩ではマラリアが流行して、人がどんどん死んでいきました。せっかくここまで生き延びてきたのに、ここにいたら長くは生きられないということで、夜明けに逃げ出したんです。

金武村字松田から石川へ

収容された少女たち
画像
 金武の松田に弟の友達がいて、そこを訪ねて行ったら「ここは芋もあるし早くおいで」と言ってくれました。ここだと大丈夫ということで、父が避難小屋を造りました。屋根は茅で、床は竹で編んで造って、涼しくていい家が建ちました。
 私はそこでミシン部というところに働きに出ました。小豆の入った大きなおむすびをもらうのがとても嬉しくて、半分は持って帰って弟たちに食べさせました。末の弟もだんだん元気になってきました。そこには二、三か月いたと思います。私の従兄の知花※※さんが、石川で配給課長をしていて、私達が松田にいるのを誰からか聞いて、迎えに来たんです。「私達はここで家も造ってあるし、ここで落ち着くよ」と小屋を造ったことを大きなことのように考えていたんですよ。すると「こんな家なんかたいしたことないよ。石川に来てみなさい」ということで、車に乗せられて行ったんです。そしたら一斗缶一杯分のメリケン粉や野菜の缶詰、それに毛布も一枚ずつ配られ、テント小屋まで割り当てられてびっくりしました。
(一九八九年六月二十日採録)
<-前頁 次頁->