第六章 証言記録
子どもたちの証言


<-前頁 次頁->

十五歳の戦争難民

仲宗根※※(宇座・※※)昭和五年生
  当時の家族
   父    明治二十七年生
   母    明治三十一年生
   次女   大正十五年生 当時、静岡の紡績工場にいたが、そこから宮崎県に疎開していた。
   三女   昭和九年生
   次男   昭和十一年生
   四女   昭和十五年生
   長女   大正六年生
   長女の子 昭和十六年生
   長女の子 昭和十八年生

「体を休めるんだ」

 当時(一九四四年頃)は、宇座全体が戦争の協力に明け暮れる日々を送っていました。私達学生も、学校に行っては散兵壕(さんぺいごう)を掘るなど様々な兵隊の手伝い、家に帰っては供出する食料の生産に畑へ駆り出されるという毎日でした。当時十五歳の私にとってこうした仕事は大変厳しいもので、小さい体ながらも必死に働いていました。
 ある日、水路の(現在の宇座の運動広場南にあった)水底に溜まる土を運んで畑の堆肥を作っている私に、新垣※※(屋号※※)がこう言いました。「米軍の上陸の可能性が高いから、あんまり厳しい仕事はするな。体を休めるんだ」と。彼はアメリカ帰りで、アメリカの強さや世界情勢によく通じていました。私は日本の勝利を信じて自らのなすべき仕事に必死に取り組んでいましたが、彼には戦場になるであろう沖縄で、こうして私が丹念に畑の土作りをしても無駄だと思えたのだと思います。彼のように世界情勢に詳しく、日本が勝てないということを考えていた人であっても、アメリカを敵に回して戦うことの愚かさを口にはできない時代でした。

敵機来襲

 十・十空襲では従兄弟と同級生等、身近な人を亡くしました。この空襲で、私自身もいよいよ戦争に巻き込まれていくのを感じました。十・十空襲以後、人々はそれまでにも増して食料の蓄えに必死になりました。蓄えのできない芋を普段の食料にし、粟に米、味噌や砂糖などを爆撃をうける恐れがある家から運び出し、壕などに保管し始めました。そして、上空を米軍のB29が、海岸を低空でB24が飛んでくるようになりました。まるで制空権を奪ったかのような米軍機の悠々たる飛行姿に、宇座の人々は米軍の上陸が近いことを感じたのでした。
 年が明けて、二月頃からは国頭村の辺土名、伊地などに子供と母親だけの世帯などは避難するようにという指示が出て、疎開する者も増えていきました。私の家からは、三女※※(当時十一歳)、次男※※(九歳)、四女※※(五歳)、そして夫の出征にともなって実家に戻っていた長女・山内※※(当時二十八歳)と息子の※※(四歳)、※※(二歳)が伊地に疎開しました。読谷に残ったのは、父と母と私だけでした。
 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、守備軍のほとんどが南下して、住民ばかりが残されていた宇座に、米軍は凄まじい爆撃を加えて民家を焼き払いました。その日は私達の卒業式が行われるはずでした。私は字の生徒会副会長を務めていたので、朝、会長の山内※※と登校を呼びかける太鼓を打っていました。すると米軍の艦載機がトンボの大群のようにやってきて、猛烈な空襲を始めたのです。家に帰る者、壕に隠れる者、その余裕さえない者は道端に隠れて敵機をやり過ごしました。私は※※の屋敷に造ってあった壕に逃げ込みましたが、自分の家が焼け落ちる様子を壕から見ていました。その壕も家が燃える炎の熱波で熱くなっていました。これからどうなるだろうか、それだけが頭をよぎりました。とかく生への執念は、十五歳の少年にもあったのだと思います。
 宇座にも警防団があって消火活動を担うことになっていましたが、三月二十三日の空襲では全く機能しませんでした。上空は戦闘機が飛び交って銃撃を加え、地上は火の海だったので無理もないことだったと思います。この日の爆撃は朝から夕方まで続きました。米軍機が引きあげると宇座の人々は隠れていた所から出てきて、残っている食料を探したり、家と共に焼けた家畜の死骸を片付けたりしました。
 この日から宇座では、自らの家族は各々で守らなくてはならない状況になっていきました。ある家族は宇座の壕や墓に、またある家族はやんばるや恩納村宇嘉地の山をめざして、灰燼(かいじん)に帰した集落を後にしたのです。

羽地にて

 私達一家は、先に疎開していた家族のいる伊地に避難することにしました。足が悪かった父と荷物は※※の馬車に乗せてもらい、私と母は徒歩での長い道程でした。夕方に宇座を出発して、暗いうちに海岸線をつたって移動しました。途中海岸ではやんばる船や汽船が攻撃を受けて燃えていたため辺りが煌々と照らし出されていました。
 羽地の仲尾地に着いたので、私達はそこで一日の休憩をとることにしました。羽地は統制がうまくとられていて、村のリーダーとおぼしい人が監視台に登り空襲時に避難する場所の指示をしたり、危険な場所から住民を避難させたりしていました。住民に空襲警報を知らせる監視塔があるなど良く整備されていたためか、羽地は米軍攻撃の標的になり、よく空襲を受けていたようでした。私達がそこにいる間にも空襲がありました。通りすがりの私達には壕のありかも分からず、また他人の壕に入るわけにもいかないので、ちょっとした茂みに慌てて隠れました。私の体のまわりに「プス、プス」と機銃弾が刺さる恐怖は、言葉では表せないほどでした。

伊地から軍艦山へ

 三月二十四日の夕方、伊地にたどりついた私達は、そこで長女山内※※をはじめ先に疎開していた家族と会うことが出来ました。伊地は県の指導で決められた疎開場所になっており、避難小屋も準備されていました。伊地の住民は本当に情け深い人々で、各家庭に割り当てられた私達疎開民の避難小屋を山に造ってくれたり、壕に連れて行ってくれたり、また住まいばかりでなく食料もお世話になりました。伊地や国頭村の人達が作ってくれた芋があったればこそ、私達は命をつなぐことができたのです。こうして伊地の住民の温かい親切を受けながら、避難小屋でしばらく生活していましたが、敵が接近していること、また上空から見えてしまうということなどから、山奥へ移動することになりました。
 辺土名と安波の中間にある軍艦山と呼ばれた山の頂上から、東よりの地点に家族みんなで移動すると、そこには儀間や宇座の人たちがたくさんいました。そこで山内※※一家が馬車の馬を潰してみんなにごちそうしてくれたこともありました。山の中は密林のように木々が繁茂(はんも)していて、昼であれ夜であれ飛行機が飛ぶのも見えなければ、爆弾を落とされることもありませんでした。ただ、食べるものに困る日々で、宇座から嘉手納ぐらいの距離を歩いて芋を採りに行っていました。また野いちごなどを採って食べていましたが、野いちごのある所には決まってハブも多く十分な注意が必要でした。しかし幸いにも山に隠れていた人の中には医者と思われる人がいたので、噛まれた人は手当てをしてもらっていました。
 甥(※※)はまだ乳飲み子でしたが、姉の母乳は出ないので、痩せこけていました。私達は赤ん坊を死なせないために自分達の分のお米を残して、おかゆにしてお乳の代わりに食べさせるなど苦心しました。その甲斐あって甥は生き延びることができました。
 「米軍に見つかっても、捕まらなかったよ」という情報が流れて、これまで米軍に見つからないようにと夜に食料を探しに行っていた私達も、「それならば」と昼に食料を求めて山を下りました。ところが、私と姉と山内※※(屋号※※)の三人が芋を掘り終わって山に帰ろうとすると、米軍が待ち伏せしていて、私達のように山を下りて食料を探しに来た人達を捕まえていたのです。私達三人は大慌てで逃げ出しましたが、逃げる人に向かって発砲していた米兵も、女子供ということでか、私達には発砲しませんでした。私達は畑に逃げ込んで夜を待ち、闇に紛れて山に帰りました。
 やがて一緒にいた人々も食料の窮乏から、別の避難地を探して軍艦山を後にし、芋がなくなりソテツまでも食べていた私達も、もといた伊地に戻ることにしました。伊地から約六キロ山奥に進んだ伊地底ナガー山に行くと、その避難小屋には数十人の人が身を寄せていました。

米兵に囲まれて

米軍に収容される老人
画像
 六月の下旬、深刻な食糧難から人々は行動範囲を広げ、食料を求めるうちに色々な情報を耳にするようになっていました。なかでも「米軍の捕虜になっても殺されない」という情報は私達の恐怖をいくらか和らげてくれました。
 その日も避難小屋に隠れていた人の多くが、食料を求めてあちらこちらに出ていて、私は残った一四、五名の人達と避難小屋で帰りを待っていました。するとそこに五〇人を優に超す米兵がやってきて私達全員を小屋から出し、一か所に集めて回りをぐるっと囲みました。「米兵は民間人を殺さない」という情報があったので命の危険は感じませんでしたが、圧倒的な数で私達を囲む米兵を前に、生きた心地がしませんでした。その時、私達の家族は弟の※※以外は全員そろっていました。※※は米兵に囲まれた時までは私達と一緒に居たのですが、いつのまにはぐれたのか姿が見あたりませんでした。私達は※※のことが心配でしたが、米兵は私達の避難小屋を目の前で焼き払うと私達を連れて山を下りました。
 米兵は銃を持ち、緊迫した面持ちでニコリともせず、私の姉は見ず知らずの病人を担がされて苦しそうでしたが、彼らは意に介す風もありませんでした。その情け容赦も無い姿は今にも銃剣で刺しそうで、私は彼らの顔を見ることさえできなくなっていました。私達は大宜味村に向け海岸を八キロ程歩き、その途中では日本軍と米軍が鉢合わせることもありましたが、日本軍はすぐに逃げだしたので戦闘にはなりませんでした。行方不明になっていた※※とは、後で合流することが出来ました。弟を収容所まで連れて来てくれた婦人がいて、大事には至りませんでした。

人情に助けられて

 大宜味村の多嘉里では、配給品を配る人、居住地域の指定をする人などがいて、仮の行政が敷かれていました。私達の家族は民家(屋号※※)に住むように指示されましたが、そこには他に三世帯・約三〇名もの人が転がり込んでいました。私はお世話になっていた家のため開墾などを手伝いました。
 八月、私達一家は中部に戻りたいという思いが抑えられず、大宜味村を抜け出して宇座の人が多く収容されているという漢那をめざしました。途中で滞在した東村慶佐次では民家(空き家)に住んでいましたが、住民の皆さんの温かい人情に触れることも多くありました。戦乱の世であり、慶佐次の皆さんも食べ物に事欠く日々であったと思いますが、食べ物を分けてくれることもしばしばでした。また国頭村桃原でお世話になった宇座の人の話によると、食べ物に困って住民の芋畑を勝手に掘っている宇座の人に、桃原の人は「一緒に掘ろうね」と温かい言葉をかけてくれたそうです。避難民に親切にしてくれと指示されてそうしていたというより、みなさん全体的に親切で人情味にあふれていました。

漢那と石川の大火災

 やっとの思いで辿り着いた漢那では、私の叔父である屋号※※のお父さんが私達の家を準備していました。しかしそこに住まわせてもらっていくらも経たないうちに大火災が発生しました。漢那の建物の多くは茅葺きかテントで非常に燃えやすく、いったん上がった炎はあっという間に燃え広がっていきました。こうして漢那を去らざるを得なくなった私達は、知人を頼って石川に移り住んだのです。ところが間もなく石川でも大火災が発生しました。逃げる間も無いほどの速さで火が回り、終いには米軍がブルドーザーで建物を壊して、延焼を食い止めるという大火災でした。
 大火災後も私達は石川に残り、米軍払い下げのテントに暮らしていました。家のように広いテントで、二家族ぐらいが一緒に住んでいました。テント地が屋根から足元まですっぽり隠すような形になっていて、夏は非常に暑かったことを憶えています。

生きるために

 母は、足の不自由な父の世話と家事をし、食べ物は配給を受けていました。しかし、配給品だけでは足りず、私は軍労務に出る以外は食料探しに明け暮れていました。居住区を無断で抜け出すのは禁止されていましたが、読谷まで行って芋を掘ったり、毛布や鍋を拾ってきたりしました。民警、MPのどちらに見つかっても、刑務所に入れられてしまうので、夜の闇に紛れての行動でした。ある日、立ち入り禁止区域で友人と叔父と三人で家を建てるための材料を探していたのですが、米兵に捕まって石川から漢那の刑務所に連れて行かれました。家族は私がいなければ食べ物に困ってしまうので、私は一刻も早く石川に帰ろうと思い、漢那の刑務所を昼食時間の隙に逃げ出すと、そこら辺を走っている車に乗せてもらい石川に戻ったのです。その後も立ち入り禁止区域で芋を掘っている所を見つかって石川の警察に捕まったこともありました。刑務所は小さいもので、六畳ほどの広さを鳥籠のように金網で囲い、一二、三人が閉じ込められていましたが、数日で出ることができました。
 このような食べ物に事欠く生活をしていた私達も、念願の読谷への帰村が許可された一九四七年(昭和二十二)、高志保の西(イリ)ヘンサジ小(グヮー)へカバヤー(テント地で屋根を葺いた家)を造って移ってきました。
(一九九九年採録)
<-前頁 次頁->