第六章 証言記録
子どもたちの証言


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奪われた青春

神谷※※(宇座・※※)昭和五年生
  当時の家族 父  明治二十六年生
        母  明治三十九年生
        長男 昭和七年生
        次男 昭和十年生
        三男 昭和十四年生
        次女 昭和十八年生

戦争の準備

 沖縄戦当時、私は渡慶次国民学校高等科の二年生でした。学校に入学するとすぐに、意味もわからないのに教育勅語を暗唱させられ、戦争が近づいてくると陣地構築や食糧増産などに動員させられ、勉強らしい勉強はさせてもらえませんでした。米軍上陸直前のどさくさにまぎれて卒業証書ももらえなかったのがとても残念です。
 私達が受けた教育は、天皇とお国のために尽くしなさい、死になさいという教えでした。戦後、渡慶次小学校のクラス会の席で、高等科一年生の時の担任だった旧姓町田※※先生は、「ごめんなさいね。あんた達にああいう教育をしたのは間違いだった。今になって間違っていたと言うことを許してね」というふうに詫びられましたが、当時はこうした教育は当たり前でした。だから今でも、「君が代」がテレビなどから流れると直立してしまったり、座っている体をきりりと直してしまいます。戦争を憎んでいますが、戦時下で受けた教育はなかなか抜けないものです。
 その当時、学校に行くときはほとんどの子が裸足でした。弁当も芋を持って行ければいいほうでした。女の子は皮をむいて弁当箱に塩と一緒に入れて持っていきますが、男の子は二、三個を手拭いに包んで肩に掛けて持っていきました。食べる前には「箸(はし)とらば、天地御代の御恵み、君と親との御恩味わえー。いただきます」と言って食べました。食べ物があっただけでも有り難いことでした。
 それでも小学校の五年生くらいまでは、校舎での勉強も、体育祭やそろばんなどの競技会もありました。しかし、その後は、竹槍や長刀の訓練、掃除や壕掘り、守備軍の手伝い、防空訓練などを行い、勉強はできなくなっていました。長刀の訓練は体育の時間に行なったし、防空訓練には、救急係や非常持ち出しの係が決められていて、担当の先生の指示で一斉に動きました。時には座喜味城址に動員されて、壕の補強用に使う松の木の皮を剥ぐ作業をさせられましたが、私たちはその皮をザルに集めて家に持ち帰り薪にしました。一九四三年(昭和十八)頃からの本格的な守備軍の駐屯によって校舎は軍にとられていましたので、勉強する教室はすでになくなっていました。
 校舎のみならず、大きな民家や字事務所も軍の兵舎になってしまいましたが、彼らには好意を持っており、私達と守備軍はよくうちとけあっていました。二十代の若者が多かったせいか、宇座のお母さんたちには、兵士達が出征している自分の息子と重なって見えていたのではないかと思います。懇意にしていた兵隊さんが波平辺りに移動して行くと、母は「お腹が空いているはずだから、波平まで持っていっておくれ」と言って私を差し入れの使いにやることもしばしばでした。兵舎となっていた家のおばあさんは、長男、次男、三男が出征していたので、日本軍に対する思いはひとしおだったのでしょう。差し入れを届ける折、「自分の子供にあげているのだと思えば、誰でもいい。兵隊さんにあげたい。これが親心だよ」と言っていたくらいでした。
 当時の私にとって、憧れそのものであった軍人さん達とのこうした思い出は印象深いものがあります。北海道出身の兵士から「ソーラン節」を聞かせてもらったこともありました。

十・十空襲

 戦況が悪化し、宇座からもたくさんの人たちが出征していきました。残波岬のタビウクイモーで松の青葉をくべてのろしを上げ、沖行く船を見送った記憶が今でも鮮明に残っています。こうして、青年、壮年の男の人たちがみな兵隊にとられ、残ったのは女と子供と老人ばかりになりました。残った者も徴用にかり出され、戦争の影はいよいよ現実のものとなりました。B29やB24が偵察のために海の方から定期的に飛んでくるようになり、遂に「十・十空襲」の日がやってきました。
 私は五人姉弟の長女で、父、母を含む七人家族でした。当時十五歳の私を頭に、十三歳の長男、十歳の次男、六歳の三男、二歳の次女がいました。父は、胃を悪くして嘉手納の大山医院に通院していました。その日は定期的に薬を貰いに行く日で、私は父の使いでいつものように朝、家を出ました。私が座喜味にさしかかった時、東の方から飛行機が編隊を成して飛んでくるのが見えました。近くにいた日本兵が「大演習だよ、お姉ちゃん大演習だよ」と私に声をかけてきましたが、彼もそれが本物の敵機来襲とは、夢にも思っていなかったのです。もちろん私も、その時は事の重大さには気づいていませんでした。しかし、座喜味城址から高射砲を撃って応戦しているのをみて、私も本物の敵機来襲だと気づきました。私は一目散に、宇座に向かって引き返しました。
 その頃家にいた母も敵機来襲を知り、私を使いに出したことを悔やんでいました。母は、「うちの※※はもう死んでしまったに違いない。どうして今日という日に薬を取りに行かせたんだろう」と思ったそうです。しかし私が生きて帰ってきたのをみて、母は私を抱きしめ、二人で泣いてよろこびました。
 でもその日、宇座から飛行場の徴用に出かけた一二名のうち、九人の人が座喜味の家族壕に避難していたところ、爆撃で壕の入口がふさがれ亡くなりました。宇座では親族の方々が馬車を出して遺体を引き取り、その日のうちに葬式を出しました。明日何が起きるかも分からない、そんな日々でした。
 飛行場建設への徴用は割当で、私も体調の悪い父の代わりによく行きました。今みたいにトラックやブルドーザーはないので、みんなで手作業でした。レールを敷いてトロッコに小石をのせ押していったり、モッコで担いだり、そんな作業でした。

父の選択

 十・十空襲の後は、それはもう毎日が大変でした。学校も通えない状態で、米軍がいつ上陸するのかと恐ろしく、ちゃんとした生活はできなくなっていました。「年寄りと子供は必ずやんばるに逃げるように!」と区長がみんなに伝えて廻ると、馬車のある世帯はやんばるに避難しました。また割り当てられた壕に残る世帯もあり、宇座の人々は次第にばらばらになっていきました。私達一家は、宇座に残る道を選びました。父は、やんばるのような良く知らない土地に行くと、食料の調達に困ってしまうと考えたようです。「五人もの子供を抱えて、爆撃をまぬがれても餓死してしまうくらいなら、自分の土地で死んだほうがいい」という父の考えが、結局のところ私達の命を救う選択となりました。やんばるに疎開した人達の多くは、長く戦争の苦しみにさらされることになったからです。

宇座が焼けた日

 年を越した一九四五年(昭和二十)三月。その月の半ば頃までには守備軍はどこに行ったのかほとんど見えなくなり、昼を家で、夜を壕で過ごす日々が続いていました。何らかの情報や伝達もなく、いつの間にか徴用もなくなり、ただそこにいて生きるだけの毎日でした。
 ところが三月二十三日、米軍は宇座の部落に飛行機を使ってガソリンを撒き、焼夷弾攻撃で全てを焼き払いました。私達は割当だったスヌヘークガマに避難していて、家々が焼けるのを見てはいません。ガマの中にいると焼け落ちる音さえ聞こえませんでした。その後、家が焼かれてもう無いんだと聞かされただけでした。米軍上陸もあるかもしれないという状況の中で、私は考える余裕もなく、爆撃と食料不足の日々を、ただ一生懸命生きていたのでした。
村道沿いの遊水池右側フェンスの
下がスヌヘークガマの入口
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 私達が避難していたスヌヘークというガマは、かなり大きな自然壕でした。ガマには水が流れ込んでいて、その両脇にむしろなどを敷いて家族の居場所を確保したのです。一家族が一畳くらいに身を寄せあって暮らしました。じめじめして、敷物が濡れて、気持ちが悪いものでした。食事は、婦女子が焼け残った家で炊き出しをして、各ガマにおにぎり等を配っていました。
 爆撃のすさまじさはものすごいものでした。「ダダーン」と爆弾が落ちると、スヌヘークに大風が吹くかのように爆風が吹き込んで、みんなが頭から被っている布団が吹っ飛んでしまうような勢いでした。「ほら、またくるぞー」と誰かが叫び、私達はタオルを湿らせて、爆風返しだと言い、口にあてました。爆風があまりにひどいので、スヌヘークは今にも崩れそうだと言って、避難していた人々のなかには墓などに移る人が出てきました。そして私達一家は、あのヤーガーに移ったのでした。三月二十七日のことだったと思います。

ヤーガーの悲劇

 ヤーガーもスヌヘーク同様の自然壕ですが、スヌヘークに比べると少し小さく、避難してきた人であふれて、足も伸ばせない状態でした。ヤーガーに避難したのは私たちが最後のほうでしたので、入口近くに陣取る形となりました。奥の方までは見えませんでしたので、中の様子はよくわかりません。
 ガマの中では、ゆいまーるの気持ちで、「うちは水があるけど、そっちにはある?あげようか」「黒砂糖があるけど、うちはたくさんあるから、あなた達にもあげよう」などと、兄弟や親戚のように助け合う姿が見られました。とはいえ、大黒柱を兵隊にとられた家族は、本当に辛かったと思います。主人も長男も戦争にとられてしまい、小さい子供が多くて本当に困っている母親がいましたが、わたしの父は「心配するなよ。生きるのも、死ぬのもみんな一緒なんだ。だから一緒に生きていこう。お父さんも息子さんも頑張っているから」とその母親を励ましていました。
 しかし壕の中では、そのような励まし合いばかりがあったわけではありません。一番下の子だった※※は、当時二歳でした。母のお乳は出なくなり、食べさせる物もないので黒砂糖のかけらを口に含ませるのですが、下痢が続き、ついには骨と皮になって、だっこすると力無く伸びきっていました。※※もそうでしたが、子供が泣くと隠れていることが米軍に知られてしまうおそれがあるので、泣き止むまでタオルで口を押さえられて、本当にかわいそうでした。あまりにひどく泣くと、「この子一人のために、ここにいるたくさんの人が犠牲になるかもしれないよ。どうにかしなさい」と言う人もいました。人間というのは、いざという時には恐ろしい一面もあるのです。
 夜になると、何名かでアガリガーに桶で水を汲みに出かけました。照明弾がポンと上がり、周囲が明るくなると、また艦砲射撃が行われるかもしれないと思い、水を捨ててガマに逃げ帰りました。そうすると翌日は飲み水もなく、苦しい思いをしました。
 三月二十九日、私達が移って二日後にヤーガーは大変な爆撃を受けました。一回目の爆弾がヤーガーのすぐ傍に落ちると、入口にいた人達が爆撃を恐れて少し奧に下がっていきました。すると中の人達も少しずつさらに奧に進みました。これが運命の分かれ目でした。二回目の爆撃はヤーガーを直撃し、入口より中程付近に移動した人達の上に、天井の大きな岩が崩れ落ちました。モウモウと立ちこめる砂塵の中、泣き叫ぶ声にまじって、母の名を、父の名を、あるいは子の名を呼び合っていました。岩に押しつぶされて身動きできず「助けてくれ!」と叫ぶ声等が、ガマの暗闇に響きわたりました。
 押しつぶされた人々のすぐ隣にいた※※の※※姉さんは、ヤーガーで※※という赤ちゃんを産みましたが、姑さんが私の母に「私の孫は、息してる?あなた触ってみてちょうだい」と暗闇のなかで赤ちゃんをさしだしました。母は、「大丈夫よ。生きているから、この子を捨ててはいけないよ」と言っていました。
 父は「もう一度爆撃されれば総崩れだ。ここを出よう」と、下に人が埋まっているであろう崩れた岩の上を這って入口に向かいました。すると暗闇のなかで、軍歌を歌う子供の声が聞こえてきました。私達には「ああ、※※の※※だ」とすぐにわかりました。本当に残酷でした。※※は私の一期後輩の十四歳でした。共に隠れていた家族は一瞬にして大きな岩の下敷きとなり即死しました。※※だけがほんの少しずれていたのでしょう、家族が潰されて死んでいる傍らで、彼自身もまたその岩に下半身が押し潰されていたのです。
 通りかかった父の足を掴んで、「助けてくれー、助けてくれー」と訴えてきます。しかし、その時は、※※にのしかかる大きな岩をどうすることもできませんでした。死に物狂いで足をつかむので、父は私たちに「お前たちがつかまれると大変だ。私がつかまえられている間に、前を通って行きなさい」と言ってひとりずつ通してくれました。
浜小(ハマグヮー)は残波岬東端の
「東ヌ神屋」の下写真奥左側に入口がある
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 やっとの思いで外に出ると、まだ午後四時か五時ぐらいで日が暮れてはいませんでした。ヤーガーを飛び出した私達の背中を追うようにして、敵機が機関銃で「パラパラッ」と撃ってきました。家族はばらばらにウージ畑に逃げ込み、日が暮れるまでそのまま隠れていました。夜になると、私達は浜小(ハマグヮー)に避難しましたが、ヤーガーに生活道具を置いてきたために、取りに戻ることになりました。しかし、父とヤーガーの入口に立つと、みんなが出ていったガマの中から※※の歌声だけが聞こえるのです。「勝って来るぞと勇ましくー」と歌う※※の声は、何十年経とうが、私の耳から消えることがありません。※※が可哀想でしたが、どうしてやることもできませんでした。戦争とは本当にむごいものです。父は、「戻ろう。もう何もいらない。※※のことを思えば、何もいらないじゃないか」と言いました。あの声を聞いてしまうとたまらなくて、私達は何も取らずに浜小に戻ったのです。

浜小でのこと

浜小内部は結構広い所もある
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 浜小(ハマグヮー)には、一〇世帯程の人々が避難していました。尿がそこらへん一帯にこびりついていて、臭いもきつく、さらに不潔だった体からは虱もわいて、思い出すのさえ嫌な状況でした。海岸線の近くだったこともあり、米軍が上陸した四月一日以後は、私たちのいた所では空襲もなく、代わりに降伏を呼びかける日系二世兵の声が聞こえてきました。「出てきなさい、出てきなさい、戦争は終わりました」と、浜小の入口にチョコレートなどのお菓子を置いて行きました。父はそれを見て、「米軍は上陸しているんだ。ここに人がいることも分かってるから、もう従った方がいいんじゃないか」と私達に言いました。しかし、それはだめだと言う人もいました。結局、先に捕らわれた人が浜小に荷物を取りに来て、「戦は、負けたんですよ。どうにもなりませんよ」と私達に言ったのをきっかけに、白旗を作って浜小にいたみんなで外に出ました。四月三日のことでした。

投降

 私は捕らわれて初めて、敵である米兵を見ました。日本兵とはあまりに異なった米兵は、目の色といい、体つきといい、肌の色といい、ただただ怖い存在でした。通訳である二世兵の指示のもと、元の部落に戻った私達は、近くに住んでいた玉城(タマグスク)の家族とそちらの家で暮らし始めました。
 配給の缶詰やニワトリの卵などもあり、食べ物には不自由しない暮らしでしたが、夜になると前線の北谷あたりでの爆撃音や銃撃音が聞こえました。海の近くに建っていたこの家からは、昼間、特攻機が米軍の艦船めがけて突っ込むのが見えました。機体の日の丸が、海に墜落していくのがはっきり見えました。それを見ると本当に複雑な思いがしました。
 捕虜の身になってさえも、「今にすぐ、友軍が島尻から押し寄せてくる」と言う人もいました。この戦争は絶対に勝つ、天皇陛下のために絶対負けないんだという思いがあったんでしょう。
 私も戦争に負けたという実感はなく、終わって良かったという気持ちにもなれず、これからどうなるのか、自分たちの家も失って、ただ生きのびている今日があるという、何とも言い表せない思いでした。そうした中で忘れられないのは、父が私の頭髪を短く刈って、男装させたことです。私はその頃から体も大きかったので、米軍による強かんなどから身を守るためにしたことでした。米軍が周辺から居なくなってからも、髪型が恥ずかしくてタオルを頭に巻き付けていました。

土地を追われて

 部落に戻っての共同生活もつかの間、この地域に飛行場を造るということで立ち退きを命じられました。軍用トラックで、当初は石川に行くはずでしたが、人であふれかえり住む場所がなかったので、金武に行き、役所跡で暮らしました。次に漢那に移りましたが、そちらも人でごった返していました。民家に居候させてもらったのですが、その家は何家族もぎゅうぎゅう詰めで暮らしていました。屋根の下で寝ることのできた私達はいい方で、「木の下組」といって、木の下に雨戸で屋根を作って暮らす人や、畜舎の屋根裏に暮らす人もたくさんいるという状態でした。
 食事はというと、読谷に比べるとひどい食糧難で、小指ほどの小さな芋を他人の畑からとって食べたり、ソテツさえ食べる事もありました。ある日、友だちと二人である小屋に入って藁(わら)で覆われた味噌瓶を見つけました。二人一緒にその瓶の中に手を突っ込んだものだから、抜こうにも抜けません。暫くしてやっとの思いで抜いたのですが、主に見つかったら大変です。ほんとに怖い思いをしました。私はその後、知人の紹介で漢那の病院で賄いの仕事をして働くようになりました。そこで食券を貰い、食料の支給を受けて、生活も楽になりました。
 ところが、軍人や男たちは収容所の中で監視されていて、面会さえできませんでしたが、私たち女や子供、老人はほとんど自由に生活ができました。
 私達のように、米兵によって漢那に連れてこられた者にとって、戦争は終わっていましたが、漢那の地元住民にとって、戦争は負けたわけでも終わったわけでもなかったようです。私達が間借りしていた家の家主や長男も、夜は山で寝ていました。食糧も山に隠して、まだ勝つつもりでいたんです。また、敗残兵が山に隠れていて、夜になると食べ物を貰いに山から下りてきました。食べ物を持って彼らが帰るところを、村はずれで監視していた米兵に見つかり、機関銃で撃たれる音が聞こえました。
 また、私が働いていた病院は仮設テントで、アメリカ人の医者と通訳と看護婦がいました。戦闘が続く島尻から、たくさんの負傷した民間人が運ばれてきました。時には死体が運ばれてきて、埋葬するのに大わらわでした。

弟の死

 その後、私は漢那の郵便局に勤めましたが、一九四七年(昭和二十二)一月二十四日に、家族と共に読谷に帰りました。そして、読谷にも郵便局が開設されるとのことで、私も採用されました。おそらく漢那郵便局での経験を買っていただいたのだと思います。
 読谷に戻り、家族も新たな気持ちで生活を始めたのですが、その年の十一月十五日、十三歳の長男※※が、都屋のごみ捨て場での不発弾爆発事故で死んでしまいました。家を造るための資材をさがしている最中の出来事でした。賢い弟で、戦争が終わってからも向学心抑えがたく、よく勉強をしていました。今でも、米兵のお古のノートに弟が書いた文字を見て、弟を偲び、あの頃のことを思って一人泣くことがあります。

今を生きる

 私たちには青春時代がありませんでした。友だちと会うと「私たちは今から青春をエンジョイしようね」ってよく言うんです。生き残った者の務めとして、亡くなった人々の分も平和に生きたいと思います。
(一九九九年採録)
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