第六章 証言記録
子どもたちの証言


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シムクガマでの戦争体験

与那覇※※(高志保・※※)昭和十年生
  当時の家族
   父    明治三十九年生
   母    明治四十一年生
   長男   昭和六年生
   二女   昭和八年生
   三男   昭和十三年生
   三女   昭和十七年生
   長女   大正十五年生
   長女の子 昭和十九年生

家族構成など

 一九四五年(昭和二十)当時私は十歳で、五人の兄弟姉妹と両親と、そして甥の九人家族で暮らしていました。甥は長女の子で、この時わずか生後六か月でした。長女は婚約していたのですが、相手が徴兵されていたので、実家に戻っていました。
 父は「支那事変」勃発の頃に出征し、二年の兵役を終えて沖縄に戻っていました。当時、私の同級生の父親達は次々と防衛隊として召集されましたが、父はフィラリア症に罹っていたので家族のもとに残る事ができました。
 フィラリア症はマラリアに似ていました。父は疲れがたまると、その日の夜に高熱が出て、起き上がることができませんでした。とても寒がって、ふとんをかぶせて上に人が乗ってもブルブル震えていました。一週間ほどすると治るのですが、無理をして働くとまた熱を出すので難儀な仕事はできなかったのです。

沖縄戦直前の奉仕作業

 大人たちが飛行場建設などに徴用されるようになると、私たち小学生も、陣地構築のための奉仕作業をするようになりました。
 私は出生の届け出が遅れたため、一期後輩の昭和十一年生と共に入学しました。私が二年生になる頃には、飛行場に使うバラス(砂利)を長浜の海岸に取りに行ったり、二年生の途中からは校舎が友軍の兵舎になったので、字事務所や木の下で勉強するようになりました。小学校の高学年も陣地を構築するための本格的な戦力としてかり出されるようになったので、勉強はできなくなりました。ですから毎日のように、松の木を切って皮を剥いで防空壕の坑木を作ったりしていました。
 一日の奉仕作業が終わると、私たちは兵隊ともよく遊びました。遊びと言っても、薪の代わりに使う松の葉っぱを熊手で集めながら、兵隊と話をしたり、そういった家の手伝いが遊びの代わりになっていました。
 話をしている時の兵隊はやさしい印象なんですが、団体・集団でいるときは、なんと言っていいのか、とても怖い存在でした。軍隊は、学校などの公共の施設も取り上げる、それで私達は公民館に移って勉強しているのに、また彼らが公民館を訓練に使うと言えば、私たちは黙って渡さなくてはならなかったんです。怖かったですよ。
 ある時、木炭自動車に私達の供出した食料を載せて国民服を着た係りの人が運んでいるのを見たのは印象的でしたね。
 一九四四年(昭和十九)の暮れあたりになると軍隊も食料は十分じゃないようで、特に初年兵なんかが、私たちのような農家に、「食べ物をくれ」と言って来るんですよ。二、三名ぐらいでこっそりと来る様子が、子供心にもとってもかわいそうだなと思いましたよ。兵隊も大変だったんでしょうね。
 父も家にいたし、兄も十四歳だったので働き手がいましたから、食事にはそう困らなかったほうだったと思います。でも字の中で比較的裕福な家庭などは山原に疎開しましたが、私たちのように家族の多い、貧しい家は疎開することはできませんでした。それで米軍が上陸するまで読谷に残っていたんです。

戦前の学校教育

 渡慶次国民学校で習ったのは戦争のことばっかりですよ。また軍から関係者が指導員として一人配置されていて、私達を訓練していました。
 級長を選ぶ時は、元気のある者、人を叩くことのできる者を選ぶんです。朝会後、授業の始まる前には教室の入口の前にクラス全員が整列して、「前ならえ」や「気を付け」などをやるんですが、それは級長が号令をかけました。そして歪んでいる者がいたら、級長はすぐ走っていって殴る。そのぐらいの元気がないと級長はできないんです。人を叩くという事は良いことで、それができないと一人前じゃなかった。どんなに頭が良くても、人を叩くことができなければ級長にはなれなかったんです。
 また、誰か一人が悪い事をすると、先生がクラス全員を二人一組で向き合わせて殴り合わせました。運悪く、友達同士で向き合った時は、自分はどうしても殴れないんです。すると先生が私と友だちを前に出させて、「やりなさい」と指導する。それで仕方なく弱く叩くと「そんな叩き方があるか!」と先生に殴られました。結局どうしようもなくて、私は仲のよかった友だちを殴ってしまったんですよ。一度叩くと、その後はお互い顔が真っ赤になるまで殴りあいました。どんなに仲のよい友だちでも、人間は追い込まれるとそうなってしまうんです。後は誰に叩かれるのも平気になっていたんですから、今思えば、軍隊教育とは、こういうものだなと思うんです。だから日本の軍隊は世界から恐れられたんじゃないでしょうか。日本の軍隊は恐いものがなかったはずですよ、こうやって軍人を作るんですから。どんな優しい人間でもこういう環境には勝てないです。避けようがなかったように思います。
 現在の高志保の公民館がある所は当時は広場でしたが、朝は早く起きて、そこで兵隊たちの銃剣術の訓練を見るのが日課でした。
 三月二十三日は終業式の予定だったということは覚えているんですけど、終業式を行っていないので、恐らくその日から屋敷壕に入ったと思います。それから毎日、昼は空襲、夜は艦砲射撃が続きました。
 大根のシーズンだったのか、畑からとってきて塩をふったりして壕で食べたのを覚えています。火を使わなくていいので重宝しました。
 しかしあまりにも艦砲射撃がひどくて、壕から四、五メートルしか離れていない場所に砲弾が落ちたのをきっかけに、父がここにはいられないと判断したようです。父の姉が波平に嫁いでいてシムクガマに避難していたので、そのつてを頼る事になりました。また、シムクガマへ移動するにあたり、長女は甥を連れて婚約者の家族のもとに行くことになりました。嫁ぎ先の家族と行動を共にするべきだと考えたのでしょう。

シムクガマでの様子

シムクガマ(内部から出入口を望む)
画像
 八日間ガマに入っていたということを覚えているので、捕虜になった日からさかのぼって数えると、シムクガマに入ったのは三月二十五日の夜だったことになります。
 シムクガマは玉泉洞に似た大きな自然壕で、中には小さな川が流れていました。私たちは、避難してくるのが遅かったので、一番奥の方に入ることになりました。小さな川の流れを挟むように、たくさんの家族が寄り添って暮らしていました。特についたてなどはしてなくて、人がぎっしりひしめいていたんじゃないかと記憶しています。その時、八〇〇人ぐらいがこのガマに避難していると聞かされたのですが、戦後に聞いた話では一〇〇〇名近く避難していたそうです。
 私たち一家がガマに入ったのは夜だったので、私には周辺の様子はよくわかりませんでした。ガマの入口付近には二、三人の警防団員がいたように思います。
 ガマの中は真っ暗だったので、皿などに油をいれて(松の油や菜種油だったと思う)灯心に布を使って明かりを灯していました。それをあちこちに置いて、明かりにしていました。入口の近くは光が入るけれど、奥の方は昼か夜かさっぱりわからないし、天井に厚みがあったのか、ガマの外の音は全然聞こえませんでした。外がどうなっているのかわらなくて、私は「入口のほうに行ってみたいなあ」とよく考えていました。排泄は、小さな川の流れを伝って、誰もいないガマの奥の奥まで行き、そこでしていました。
 私たちの後から、父の二番目と三番目の姉がガマへやって来ました。山原に避難しようとしたところ、米艦隊で海が真っ黒に埋め尽くされているのが見えて、私達同様、長女を頼って来たそうです。
 食料は、父と叔母たちが夜の艦砲射撃をかいくぐって確保してくれました。昼間の攻撃で、牛や山羊が死んでいたら、その肉を持ってきてくれて、また豆なんかもよく食べたと記憶しています。

投降

 米軍がシムクガマに来たのは、一九四五年(昭和二十)四月一日の正午ごろじゃないかと思います。「比嘉※※さんがハワイ帰りで英語が話せたので、米兵と交渉した」ということは、後で聞きました。私たちはガマの一番奥にいたので全く知りませんでした。
 ガマの入口のほうから「武器になる物(カマや包丁など)を持って外に出よう」というようなことが、伝えられてきました。そこで、父は中国での戦争の経験から「刃物などは置いて行ったほうがよい。すでに上陸しているのだから、無駄な抵抗はやめておとなしく出ていこう。向こうの言うことを聞こう」と、今度はガマの一番奥から、入口の方に向かって伝えていきました。
 戦後、シムクガマの多くの避難民の命を助けるため、二人のハワイ帰りの人(比嘉※※、比嘉※※)が尽力されたということが知られるようになりました。しかし、彼らだけの力で壕内に潜んでいた一〇〇〇名近い人々の意見が半日のうちに「投降」へとまとまるわけもありません。壕の後方にいた私たちが見聞きしたところでは、あの時は様々な人の意見が壕内を駆け巡っていたのです。当時父のような大人の男性は壕には少なく、しかも父は軍隊の経験もありました。その父が「抵抗するな」と言ったというのは大きな影響力になったと思います。父には入口付近の動きは分かりませんでしたが、知らないうちに「投降への協力者」の一人になっていたのです。恐らく、父のような協力者はたくさんいたのだと思います。そうでなければ「鬼畜米英」と教えられていた壕内の人々が投降するはずがないからです。
 しばらくして、壕内に避難していた人々が入口に向かって動き始めましたので、私たちも後を追ってガマからみんなで出ました。入口には米兵が立っていましたが、私は怖くてしっかり見ることができなかったのであんまり覚えていません。外に出ると夕方の五時頃でした。長い間壕の中にいたので、みんな灯りからでるススで、誰なのか顔が判別できないほど真っ黒になっていました。
 私は八日間、一歩も外に出なかったので、久しぶりに外の空気を吸うことができました。
 入口のすぐ真向かいに急な坂道があって、そこを登ると、戦車がたくさん停められていました。米兵に誘導されて私たちが都屋へ向かって歩いていると、米兵が戦車からいろんな食べものを投げてよこすのですが、毒が入っていると信じて、誰も口にしませんでした。
 私たちが連れて行かれたのは都屋の海岸で、すでに夜になっていました。薄暗い海岸では、たくさんの艦船が停泊しているのが見えました。砂浜に皆がおりたとき、バラバラとすごい音がして、もうここでみんな殺されるんだと、思いこんでしまいました。家族みんなで肩をくんで、そんな覚悟をしました。
 しかし、いつまでたっても撃ってこないので顔を上げてみると、海岸の一面が霧で覆われたようになって、そこに停泊していたはずの艦船が見えなくなっていました。
 実は最初に聞いた発射音は、艦隊を隠蔽する煙幕を張る弾の音で、霧だと思ったのはその煙が海岸一帯を覆っていたのです。後になって、それは上空の日本の特攻機から米軍の艦船が見えないようにするためだったと聞かされました。

都屋で

 海岸から陸地に上がって、夜になっていたので畑で野宿をして一夜を明かしました。翌日からは、米軍が三間くらいのテントなどを持ってきて、そこで他の家族も一緒に暮らしました。米軍の船にたくさん積まれた食料を運ぶため、健康な人たちが声をかけられて、父と兄も手伝いに行きました。住民から班長のようなものを選んで、その人が船から運ばれた食料を住民に分配しました。
 食料はいっぱいありました。アメリカ軍は準備万端で来ているんだなあとびっくりしましたよ。Cレーションは一つの箱の中にタバコ、マッチ、缶詰、缶切までもがセットになっていたんです。これを見たときに「ああ、日本はこんな贅沢なアメリカと戦争していたんだな、だまされた」と思いました。
 米軍から「親のいない赤ん坊が収容されているが、身寄りはいないか」という呼びかけがありました。父は「きっと子供が邪魔になって捨てた親がいるんだな」と大変憤慨して、収容されている人たちの中に、赤ん坊の親戚がいないか探し回っていました。しかし見つからないので、父がその赤ん坊の顔を見に行くと、なんと長女の子どもだったのです。父は非常に驚き、長女が隠れていたナカブクの壕で一緒だった人たちに長女の行方を尋ねました。
 四月一日、長女が隠れていた壕は米軍に見つかったため、壕内の人たちのなかには慌てて飛び出す人もいたそうで、姉も赤ん坊を抱えて壕を出たそうです。おそらく姉は私たちのいたシムクガマに向かっていたのだと思います。赤ん坊を保護した米兵の話によると、長女は赤ん坊を背負って夜道を歩いている所を米兵に撃たれたそうです。弾は姉のわき腹を貫通して姉は亡くなり、赤ん坊は奇跡的に助かったという事でした。全ての事情を知った私たちは、ただ悲しみに暮れました。
 私の家は茅葺きでしたが、焼けずに残っていたのでテント生活は三日で切り上げて、自分の家に戻りました。「自分の家が残っている者は、帰っていい」という許可があったようです。
 食料は、トーガーの日本軍壕に山ほど隠されていたので、そこに行けばいくらでもありました。トーガーでは砂糖も俵に詰められて、それを馬車で運んだ覚えがあるんです。だから食料を確保すると言っても、米軍のも日本軍が置いていったのもたくさんあるから、取り放題でした。
 日中は危機状態を脱した安堵感がありましたが、夜に外出すると、日本兵に間違われて米兵に射殺されるため、戦争の緊張感が全くなくなったというわけでもありませんでした。
 夜になると特攻機がやってきて、空中戦をしているのを見ることもありました。そういう時は「あ、特攻隊来てるな」と思って眺めていました。日本の飛行機は、米軍に相当な数の弾を浴びせられて、見動きもとれないという感じでした。「日本軍はどうにもならない戦争をやってるんだな」と思っていたので、それを見てもかわいそうだという気持ちはわきませんでした。

金武へ

 二十日位が過ぎたころ、ここも危ないので金武方面へ移動せよという米軍の命令が出て、米軍の大きなトラックに詰めこまれるように乗せられ、金武村へ行きました。ただし、そこに収容所があったわけではなく、ただ降ろされて、住むところは自分で探しなさいという状態でした。四月の終わりか五月の始めくらいのことだったと思います。
 戦前からの家屋敷があって、焼けずに残っていましたけど、どの家もすでにいっぱいでした。父があちこち回って「なんとか住まわせてもらえませんか」とお願いをして、やっと住まわせてくれる家を探しました。そこではいくつもの家族が、少しずつ場所を確保して暮らしていました。金武は標高が高いところだったので、南部の戦闘の様子を高台から見ることができました。また、特攻隊が艦船に体当たりするのも見ました。
 金武では食べ物に本当に困ってしまいました。兄と父が米軍の作業に出て、報酬として食券を貰って、それでやっと食べていた状態でした。読谷にいたころは、ゴミ箱なんかに米軍がいくらでも食べ物を捨てていたのにな。読谷のほうが良かったな、と思いました。しかし一方では、大川という米軍も一般住民も利用していた湧き水があったのですが、そこはとてもにぎやかで、戦争を免れたという安堵感を感じました。
 読谷で飼っていた馬を売ってお金にしましたが、そのお金は父の留守中に侵入してきた米兵四、五名に盗られてしまいました。怖かったですよ、とくに女の人なんかは、いつ何時襲われるか分らない戦時でしたから。
 しばらくすると、米軍が基地を建設することになり、また移動するように命令されました。それで、現在の金武大橋を越えたギンバル・中川部落あたりへ行きました。そこでは茅を刈り、木を切ってきて自分の家を建てることができました。
 中川には約二年いました。学校も設立されて、中川初等学校に通いました。世変わりしてしまったから、ABCなども習いました。また学年も自己申告だったので、同じ学年の子でも年齢はまちまちでした。配給所もできました。また、人がたくさん死んだので畑や山に穴を掘って、埋葬しました。

高志保へ

 一九四七年(昭和二十二)くらいに、読谷に戻ってきました。高志保は比較的焼かれたところが少なく、水の確保が出来ていたので(前ヌ井泉(メーヌカー))、住民は波平と高志保に集中して住んでいました。
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