第六章 証言記録
子どもたちの証言


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脳裏に焼き付いた沖縄戦

池原※※(古堅・※※)昭和八年生

入学時の校門

 一九四〇年(昭和十五)、私は古堅尋常高等小学校に入学した。そのとき、校門の門柱には古堅尋常高等小学校と書かれた銅版がはめ込まれていた。翌一九四一年(昭和十六)四月、私が二年生になったとき古堅国民学校に変わった。門柱には、黒い字で「古堅国民学校」と書かれた白磁器がはめ込まれた。その上の余白部分がモルタルで塗りつぶされていたので、汚いなぁという印象を受けた。後に分かったことだが、白磁器は銅版を剥がした上にモルタルでくっ付けてあった。一九四〇年(昭和十五)には、中庭に新校舎が着工され、翌四一年に完成した。
*モルタル セメントと砂を水で練ったもの。
レンガのつなぎ等に使う。

御真影のこと

 古堅国民学校の校門の前には大きなデイゴの木があった。校門の所から学校敷地は道よりも一〇センチぐらい上がっていた。朝、登校すると、校門の二つの門柱の間に立って、天皇陛下の写真に向かって最敬礼をした。
 後日、古堅校に十何年もいらした真壁※※先生の話によると、古堅校でも校門のそばに奉安殿を造る予定だったそうだが、当時はまだ着工してなかったので、御真影は校長室裏の備品室の一角に置いてあった。古堅校には講堂がなかったので、四大節には六教室ある教室棟の中戸を外して、そこに全校児童を入れて行事を行なっていた。その時には、教室の端の神棚に先生方が朝早く御真影を奉迎し、うやうやしく神棚の戸を開けていた。顔を上げて見ようとすると怒られるので、先生に見つからないように見ようとしたが、後ろからは全然見えなかった。普段は、神棚は一番角の高等二年の女子の教室に置いてあった。当時の六教室のあった棟は、今の古堅の村営住宅辺りにあった。

古堅国民学校に山部隊が駐屯

 一九四三年(昭和十八)の終わりごろだったか、古堅に軍隊が来る前は、飛行場造りのために島尻から来た徴用人夫の人たちが私の家に宿泊していた。
 一九四四年(昭和十九)の何月ごろだったかはっきり分からないが、私が五年生の時、古堅国民学校に山部隊の兵隊がたくさんやって来た。校舎にも古堅の民家にも兵隊が入っていた。それで、児童は学年ごとに集まって、先生と一緒に古堅部落の後ろの山などに行って勉強した。私たちは、トゥキシヌヤマ(渡慶次山)でやった。
 後日聞いた話によると、当時、古堅国民学校最後の校長だった宇座※※先生は、日本軍が入って来て、児童や先生が山学校に行くようになっても一人で頑張って出勤しておられたようである。あるとき、軍の上官から「校長室から出ろ」と言われたが、「私は、預かっている御真影を守る勤めがあるから出ません」と言って断ったという。そうしたら、軍の上官は「夜は誰が御真影を守っているか。職員室は誰も居ないじゃないか。我々軍隊が居たら、ちゃんと歩哨を立てて守れる」と言ったが、校長先生は、「御真影はあなた方に賜ったんじゃない、この学校に賜ったものだ。この学校の責任者は私だ」と言って、絶対譲らないで、最後まで明け渡さなかったという有名な話がある。
 山部隊の輜重隊(しちょうたい)は、最初は学校にいたが、後に民家にも入っていた。学校には軍用トラックがいっぱいあったが、後に敵機に見られないようにと民家の近くの道路などに隠していた。その頃、たいていの民家の屋敷囲いには防風林として大きな木が繁っていたので、トラックを隠すにはちょうどよかった。私の家の周辺の小道にも、あっちこっちに軍の車が隠されていた。日本兵は、二トン半の軍用トラックで私の家の近くの道を通って、フルギンガーから学校に水を運んでいた。
 また、古堅校は日本軍の病院にもなっていた。十・十空襲の後は負傷した兵士がいっぱいいて、両足を切断したり、両手を切断した負傷兵もいた。井戸で血の付いたガーゼを洗っているのをよく見かけた。とにかく兵隊がたくさんいた。後に、私の家の近くの民家もみんな医務室になっていて、池原※※さんの家はその本部と言われていた。
 三男兄の※※が「ウチグン」になって内出血で足裏が腫れたとき、宿泊していた軍医か衛生兵がメスで切開してくれたことがあった。兄の足の皮が厚くてなかなか切れなくて、長い間かかっていたのを覚えている。この兄は、一九四五年(昭和二十)一月ごろ、海軍に志願して出征した。そのとき、千人針などを持って行ったのを覚えている。その千人針は現在、村の歴史民俗資料館に寄贈してある。

朝鮮人軍夫

 古堅には朝鮮人の軍夫もたくさんいたが、日本軍に牛馬の扱いをされていてとてもかわいそうだった。あるとき、私の家の前で、一人の朝鮮人軍夫が、日本兵に激しく叩かれて「アイゴー、アイゴー」して泣いていた。アイゴーの意味は分からなかったが、あんな大きな人が泣いていたから、不思議に思った。彼らは、赤くなったコーレーグースー(高麗胡椒)を取って生で食べていた。

飛行機の誘導路に利用した中道

 戦時中、今の大湾公民館横から比謝にかけての中道は、道幅が広げられて、瓦を割って敷き詰め、そこから戦闘機を運んでいた。
 当時、大湾公民館の北側に日本軍の四式戦闘機一機が置かれていたのを見た。飛行機の翼は外されていたが、戦後まで残っていた。その後、どこに持っていったか分からない。

軍用車の三角旗と階級

米軍撮影の航空写真から当時の古堅国民学校付近を拡大
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 古堅国民学校の校門の所から学校敷地は段差があったので、一九四四年(昭和十九)に日本軍が入ってきた時、軍用車が入らないからと、コンクリートで傾斜をつけて乗り上げができるようにしてあった。
 校門から入った右側には、いつも衛兵が立っていて、傍らには交替要員の兵士が何名かイスに座っていた。校門から将校の車がサーッと入って来ると、そのころは私たちも兵隊に行きたいと思っていたから、興味があって、しょっちゅう見に行った。車の前には小さい三角旗が掲げられていた。赤、青、黄と、旗の色によって乗っている兵隊の階級が分かった。青色が来たら尉官、赤色は佐官、黄色は将官だった。沖縄には中将までいたらしいが、ここにはめったに来なかった。青色の場合は問題にしないが、赤色の佐官が来たら、みんな走って見に行った。今の嘉手納中学校の敷地には、そのころ農林学校があって、そこに中将がいたという話だったが、見たことはなかった。
 この時に将校が乗っていた車は、左ハンドルだった。日本の車は右ハンドルだったから、不思議に思って「なんで左ハンドルですか」と、兵隊に聞くと、「南方の激戦地やフィリピン辺りでぶん取って来たアメリカの車を修繕して使っているんだ」と言ったのでびっくりした。アメリカの車はかっこいいから、子どもたちはみんな走って見に行った。私たちは車が止まる所までずっと追いかけて、渡具知の浜まで行ったこともあった。
古堅国民学校校舎等配置図(池原※※氏作成)
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スパイの話

 日本兵は、沖縄の住民を信用しないで、ちょっと変わった人がいるとすぐスパイじゃないかと疑っていた。
 小さいころは電灯がなかったし、大きな木がいっぱいあったから、夕方になると真っ暗で、幽霊の話ばっかりだった。だんだん大きくなると、幽霊話よりはスパイの話が多くなった。スパイは時計の中にカメラを隠して写すとか、ペンの中にカメラを隠しているとかという話だった。スパイという言葉はよく知っていた。これは、まだまだ兵隊が来ない時分の子ども同士の話で、子どもたちは、スパイの話に非常に興味を持っていた。
 ある所で壕の上の松が偶然に枯れたとき、これを「スパイが、松を枯らして真っ赤にして目立つようにしてある」と言って、大騒ぎしていたそうだ。

十・十空襲

 一九四四年(昭和十九)十月十日の空襲の頃は、兵隊がいっぱいいた。鉄砲を担いだ兵隊を道でよく見かけた。読谷飛行場を離発着する飛行機は、よく古堅の上空から飛んで行ったので、日本の戦闘機には真っ赤な日の丸がついているのを知っていた。私はいつも、その飛行機を見ていたから、日本軍の飛行機の形も名前も覚えて、よく飛行機の模型を作って遊んでいた。
 十・十空襲の時は朝から夕方まで、米軍の飛行機がひっきりなしに攻撃してきて大変だった。日本の兵隊は、初めは「あれは日本軍の演習だ」と言っていた。しかし、飛行機がゴーッと上がっていってキラッと光って胴体が白く見えたので、兵隊に「変だよ、変だよ、あれ、日の丸じゃないよ」と言うと、「あれは演習だから、アメリカのマークを付けているんだよ」と言った。日本の飛行機は翼の先が丸いのに、この日の飛行機は先が切れていたので変だなと思った。グラマンという飛行機だった。しばらくして、本物の空襲だと分かり、大騒ぎになった。人間は不思議なもので、本能的にクバの葉陰に隠れたんだよ。その日、私は字内を回って歩く余裕はなく、壕と自分の家を行き来していた。古堅の字では、十・十空襲で被害を受けた家はなかったが、機銃で撃たれて亡くなった人が一人いたと、後で聞いた。
 その後も、たびたび空襲があったが、十・十空襲のように激しいものではなかった。

防空壕

今も残るフルギンガー上の家族壕
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 当初は、私たちは屋敷内に竪掘りの防空壕を掘ってあったが、空襲の時、地面を掘っただけの防空壕ではあまり意味がなかったので、みんなそこに荷物を置いたまま逃げた。その後、住民は比謝川沿岸の硬い岩を掘って防空壕を造った。岸には防空壕がずらっと並んでいた。私の家でも三男兄が軍隊に入る前に比謝川沿いに防空壕を掘ってあった。その防空壕は、爆風除けのために壕の入口から階段で下に下りてから横に入っていくように掘ってあった。しかし、すぐに暁部隊の船舶工兵隊が来て、「こっちは軍が使うから、みんなそこから退け」と言って、住民はみんな立ち退かされた。暁部隊の船舶工兵隊は、壕の近くに網を張って木の葉で覆いをして、そこに上陸用舟艇を隠していた。この船は空襲のときに沈められたものもあった。戦後、離島の人たちなどが、沈んでいる船を引揚げて修繕して使っていた。
 それで、私たちは一九四五年(昭和二十)になってから、大急ぎでフルギンガーの上の方に防空壕を掘った。その壕は、三月の空襲の時に爆風で入口が塞がってしまったので、私たちは再び、軍隊が移動して行って空いていた比謝川沿いの元の自分たちの壕に入った。その壕は今も残っている。

兵士に助けられる

 暁部隊の船舶が隠されていた壕の近くに、水面から出ている岩があって、子ども達がよく、その岩の上から飛び込みをして遊んでいた。ある時、私はその岩で遊んでいるときに、あやまって転落し流され、溺れかけたことがあった。見ていた友達は、私がわざと溺れたふりをしていると思って、助けようとする気配はなかった。何も掴む物がなくて、私が必死でバタバタやっていると、やっとある兵士が気付いて、飛び込んできて私の後から脇を捉まえて岸に助け上げてくれた。
 その兵隊たちも、米軍が上陸する前に島尻方面に移動して行った。

一九四五年(昭和二十)三月の空襲

 学校にいた兵隊は、そんなに長くはいなかったと思う。何月だったか覚えてないが、兵隊がどこかに移動して行ったので、私たちは、また学校に戻った。
 一九四五年(昭和二十)三月のある日、私は古堅国民学校の五年生であったが、運動場では卒業式の予行演習をやっていた。ちょうど、仲宗根(曽根)※※先生が指揮台に上がって話をされている時に、敵か味方か分からないが、遠くで機関砲らしい音がしたので、パーッとみんな一斉に逃げた。振り返ると、仲宗根(曽根)先生が一人で指揮台に立っていたのを覚えている。その後からはもう、毎日空襲が続いた。それで二十三日に行なわれる予定だった卒業式はできなかった。

フルギンガーでの爆撃

 一九四五年(昭和二十)当時、長兄の※※と三男兄の※※は海軍に行き、次兄の※※は陸軍に行っていたので、私の家族は父と母と私の三人だった。空襲のとき、私たちはフルギンガーの上の方に掘ってあった防空壕に入った。そこには、古堅の人たちがそれぞれ防空壕を掘ってあった。私の家の壕は、伊波※※家と池原※※家の壕の間にあった。
 三月二十五日も空襲が激しくて、あちらこちらで爆撃されるたびに、防空壕の天井からどんどん石が落ちてきた。私は頭から蒲団を被ってぶるぶる震えていた。
 しばらくして、ダダーンと私たちの防空壕の前に爆弾が落ちた。私は「ワーッ」と、初めて恐怖で泣いた。でも、涙は全然出なかった。親父に「大丈夫か」って聞いたら、「チャーンネーン、チャーンネーン(なんでもない、大丈夫)」って言うから、安心した。
 気を落ち着けてみると、爆弾で壕の入口が塞がれていた。それで、どんどん手で土を押し出しながら這い出てきた。外に出ると、煙で辺りが真っ暗になっていて、火薬の臭いがした。私は夢中で防空壕から飛び出し、走って逃げた。思わず、フルギンガーの湧き口を囲っている縁の上を走っていた。昔は、フルギンガーの縁は今よりももっと高くて怖いぐらいだった。よくも落ちなかったなあと思う。しばらく行くと、すってんころりん。気がつくと、私は倒れている軍馬の上を走っていたのだ。フルギンガーの周辺には大きな木がいっぱいあって上空から見えないので、そこに軍馬が何頭かつながれていた。それがみんな、爆風でやられてひっくり返っていた。その馬の肉は、後でみんなで食べた。
 そのときは、まさか空襲でこっちが爆撃されるとは思ってなかった。爆弾が落ちたのも何時だったか覚えていないが、夕方ではなかった。当時、フルギンガーの近くに防衛隊の炊事場があったから、炊き出しをしている煙が敵に見つかって爆撃されたんじゃないかと、後日聞いた。
 その後、私たちはフルギンガーの向かいの真栄田城(メーダグスク)に掘られていた防空壕に逃げ込んだ。しばらく隠れていると、渡久山※※先生が来て「もう、慶良間に上陸したってよう」と言ったので、みんな大騒ぎになった。
 真栄田グスクには、古い墓があって、口の広い甕がいっぱいあったが、戦時中、兵隊がそれを全部取り出して、墓の中に入っていた。

兄※※の戦死

 その後、私たちは比謝川沿いの壕に入った。そこから、明日、山原に立つという晩に、次兄の※※が訪ねて来た。※※は「支那事変」のときに中国に兵隊で行ったが、脚気に罹って帰って来て、すぐにまた、警備隊として召集されていた。※※は数え二十七歳だったと思う。兄は正露丸とか、いろんな薬を持って来てくれたので、私たちは、それを山原に持って行った。父母は兄に、「絶対サチバイ(先がけ)になるなよ」と言っていた。そのとき、兄が壕から出て行く姿が今でも目に見える感じで、忘れることができない。この兄は中飛行場(嘉手納飛行場)に行って、野里(のざと)という所で四月一日に戦死した。
 戦時中、今の名嘉病院の所に警備隊の連絡所のようなものがあった。兄は私たちの壕から出てそこに行き、※※の※※たちと一緒になったという。彼の話によると、四月一日、米軍が上陸してきた日に兄は壕から真っ先に出ていって、すぐやられたという。兄は「もうだめだから、みんな行きなさい」と言って、そのままこときれたそうである。母が「絶対に先になるなよう」と言ったのに、兄貴は若いから、真っ先に出て行ってやられたと聞いた時の母の様子は今も忘れられない。
 戦後、兄を埋めたという人の話を聞いて、父が遺骨を拾いに行くと、私と一緒に作った真鍮のバックルがそのままあったので、すぐに分かったという。兄は、みんなの薬を持っていたので、その薬も遺骨と一緒にあったから、道案内をしてくれた人もはっきり、「ここだった」と言ったので、父は遺骨をもって帰って来た。それからしばらくして、そこは飛行場を拡張するためにブルドーザーで敷き均された。

艦砲で傾いた家

 米軍が上陸してくる直前に、防空壕から家に帰ってみると、家が傾いていた。古堅の部落のあっちこっちの道に真黒い艦砲の破片が刺さっているのを見てびっくりした。普通の爆弾の破片は小さいが、海から飛んで来る真黒い艦砲の破片は大きかった。私たちがフルギンガーから逃げたときはなかったから、その後に艦砲射撃が始まったと思う。上陸する前に、艦砲射撃が行われた。

山原避難の協議

 当時、字事務所には兵隊がいたので、避難協議をするときには、区長が中心になって、あっちこっちの民家に集まってやっていた。シマブク(島袋)という瓦家の一番座に集まって協議していたのを覚えている。私はどうなるかと思って、しょっちゅう見に行った。それで、山原に避難することになった。「早く避難しなさい」と言っても、みんななかなか避難しないから、「これはもう、区長の私たちから行かんといけないな」と言って、区長の家族は先に山原に行ったと思う。

古堅に残っていた祖父

 私は父と母と三人で山原に行った。年老いた祖父は、山原まで歩けないので家に残った。祖父は壕にも絶対入らないと言って、なかなか避難しようとしなかった。どこの家の年寄りもみんな家に残っていた。祖父は※※の兄弟達と一緒にいたが、四月一日にすぐに収容されたそうだ。その祖父は戦後、金武の収容所で亡くなった。

住民を救い出したメードーウフスー

中央で杖を持ち頭巾をかぶったのが祖父の池原※※氏。
その下、米兵のヘルメットで横顔が見えない人がメードーウフスーである
(この写真に写っているほとんどの氏名が判明した)(那覇出版社提供)
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 今の古堅第二公園の所に、ハワイ帰りのメードーウフスー(前當じいさん)という人が住んでいた。この人は足が悪かったので、山原に避難せずに、古堅に残っていた。米軍が来た時、メードーウフスーは、「防空壕に民間人が隠れているから助けてくれ」と英語で話したそうだ。そして、壕にいた人たちに「ンジティクーワ(出てきなさい)ンジティクーワ(出てきなさい)」と呼びかけて、部落に残っていた年寄りを全部出して救い出したそうだ。古堅の壕から出された人たちは、米軍の水陸両用車か何かに乗せられて沖に出たので、沖で殺されると思っていたそうだが、楚辺の浜から部落内に連れて行かれ、そこから石川辺りに連れて行かれたそうだ。米軍が写した沖縄戦の写真集には、このメードーウフスーや壕から出された古堅の年寄りたちの写真も掲載されている。

山原へ避難

 私たちは、フルギンガーの壕から比謝川沿岸の壕に移って二、三日後の三月二十七日か二十八日ごろ、今の国道五八号を通って山原に向かった。字の人も一緒だったと思う。その頃、今の福祉センターの辺りにあった読谷山国民学校は、飛行場建設のために今の喜名小学校の所に移転していた。私たちが山原に行く時、その読谷山国民学校は、炎上していた。馬車のある人たちは馬車に荷物を乗せて行くが、馬車のない人は、みんな荷物を担いで歩いていた。父と母は蒲団や食料を担いで歩いていた。私は小さかったから、山原に行ってから防空壕を掘るといってスコップだけ持たされていた。昼間は隠れて、夜しか歩けなかった。もう眠たくて眠たくてしょうがなかった。私は知らない人の馬車につかまって、眠りながら歩いていた。
 仲泊辺りで朝になったので、敵に見られては大変だからと山に隠れた。夕方になると、また出てきて歩いた。照明弾がパッと上がると、さっと隠れた。ずっと照明弾を警戒しながら行った。元の羽地(現名護)からは、どこかの人が道案内をしてくれたが、今帰仁に行く道辺りに来たら、「ここからは真っ直ぐ行きなさい」と言って、案内人が居なくなったので、とても不安だった。

山原での避難生活

 出発して何日か後に山原の比地(ひじ)(国頭村)に着いた。その時、「渡具知の浜から敵が上陸してきた」と聞いた。古堅の人の避難地は鏡地(カガンジ)部落が指定されていた、鏡地部落に行くのは時間的に無理だったので、すぐに比地の山に逃げた。それからはずっと山の中で避難生活だった。比地の山の中には、誰だったかは覚えてないが、古堅の人もたくさんいた。先に避難して行っていた人たちとも、向こうで一緒になった。中には、戦後もそのまま比地に残った古堅の人もいた。
 避難生活は最初は楽しかった。毎日、見たこともない小鳥がきて鳴くので、とてもいい気持ちだった。恐いのはハブだった。当時はみんな裸足なので、「猪の糞を踏まないように注意しなさい」と言われた。猪はハブを食っているから、糞に毒牙が残っているので、それが足に刺さったら大変だと言っていた。しかし、当時の人の足の裏は革靴みたいに硬かった。
 水の中にはイモリがたくさんいてびっくりした。山亀もいた。方言でワクビチと言う大きな蛙もいた。岩穴から大きな鳴き声が聞こえたので、見たら、大きな口しか見えないからびっくりした。
 私は情報係だった。学校では毎日、軍艦や飛行機の絵ばっかり描いていたから、船や飛行機の形が分かるので、木に登って見ては、「今日は、航空母艦が何隻移動した」、「駆逐艦が何隻動いた」、「巡洋艦がどうした」などとみんなに報告した。軍艦はほとんど全体一緒に動いていた。水平線が見えないくらいいっぱいいた。何という軍艦か名前は分からないが、軍艦の形は分かった。航空母艦は平たいので、すぐわかった。
 私たちが避難していた所には爆弾を落とされなかったが、照明弾はときどき上がった。古堅に帰りたいと思って、太平洋側から回って行こうとして、山の方から東海岸を見ると、軍艦がたくさんあった。それを見て、日本の兵隊が私たちの所に来て、「日本軍が来ている」と言った。私たちは、みんなで「バンザイ、バンザイ」して喜んだ。しかし、それは米軍の艦船だったと後でわかった。
 山中で避難している時に一番怖かったのは、米軍のセスナ機が飛来した時だった。セスナ機が飛んできて、空中でエンジンを止め、スーッと近付いて来て偵察していた。誰かが、「アビンナヨー、(静かに)」と言ったので、私たちは息をひそめ隠れていた。

食料難でソテツを食す

 山中に避難しているときは食料を確保するのが大変で、ソテツなども食べた。ソテツは毒があるので、芭蕉の葉で包んで発酵させ、蛆(うじ)をわかして毒を消してから食べた。ソテツの実は、めったに食べられなかった。おもにソテツの幹の部分を食べた。まず、ソテツの幹の皮を剥いで細かく切って、笊(ざる)の中に芭蕉の葉っぱを敷いた上に載せて水に浸けておく。しばらくすると蛆がわいてくるので、蛆をとって捨てて、水で流して残ったのを食べた。蛆がわくということは毒がなくなったという証拠。すぐ食べると中毒するとのことだった。ちっとも美味しくないから、田んぼに生えている草などを混ぜ、海の潮を汲んできて炊いたが、全然食えたものじゃなかった。でも、食べないと何もないから、そればかり食べていた。後には栄養失調になって、ふらふらして、骨ばかりになって、足だけが腫れていた。

負傷した叔父との再会

 私たちは、どこをどう通ったか分からないが、東村の高江新川(タキーアラカー)や川田平良(カータテーラ)の山中や谷底など、二か月ぐらいあっちこっち歩き回っていた。久志村(現名護市)三原の田んぼの畦で、私は、叔父とばったり出会った。もし、畦道を一つ越えていたら、そのまま会えないところだった。叔父は足を撃たれて負傷していた。弾が貫通していて、弾が入った所の傷は小さいが、出た所の傷は大きく穴が開いていた。貫通していたから幸いだった。弾が貫通してなかったら助からなかったかも知れなかった。薬もないから何の治療もできなかった。あんなに頑丈だった叔父が涙を流していたので、びっくりした。叔父は兵隊に行っていたが、部隊はみんなやられて山原に逃げて来ていた。今でも汀間(ティーマ)近辺に行くと、叔父に再会した時のことを思い出す。

大川で捕らえられ

 私たちは、負傷している叔父を一緒に連れて逃げ、歩いて大川まで来た。大川の崎山さんという人の民家に落ち着いた。その家には、五、六十代ぐらいのおじいさんとおばあさんがいた。おじいさんは、産婆の役目をしていたらしい。
 そこでは、男たちは外に出られないから、母たち女が芋掘りに行っていた。母たちは名護や、羽地、仲尾次(ナコーシ)(今帰仁村の字)など、あっちこっちに食料探しに行ったそうだ。だんだん食料もなくなってきて、みんなだんだん衰弱してきていた。
 たまにアメリカ兵が来ることがあった。「敵が来た」と言うと、みんな山に逃げた。逃げるときは速いが、下りるときは大変だった。栄養失調でフラフラして、足ががくがくして、なかなか下りることができなかった。
 大川の民家に入って一か月過ぎたころ、昼間、何名かのアメリカ兵が来て、私たちは収容された。六月ごろだったかと思う。そのとき捕虜になったのは、私と父と母と、母の姉の家族三名、叔父、比嘉(※※洋服店)の姉さんの全部で八名だった。突然、米兵が来たとき、私たちは食べる物もなく元気もなくなっていたから、もう諦めていた。母たちは、食料探しに行ったときに捕虜されている人たちを見ていたので、捕虜されても殺されないと分かっていたと思う。それで、大丈夫だと思ったんじゃないかと思う。
 私たちは最初は鏡地に向かい、比地の山の中に入って、大川で捕虜になり、クシグヮー(久志小・現名護市)の収容所に入れられた。後に私たちはそこから逃げて宜野座村の収容所に移った。
 その時、私たちはカタバル(潟原)を通って宜野座に行った。カタバルは遠浅なので、干潮の時を見計らって行くと、向かい側にMPが待っていて、「カマーン、カマーン」と言った。「カマワン(構わん)って言うから歩いていいんだな。日本語も知っているんだな」と思って、行こうとしたら、MPは怒った。「カマーン」というのは「来い」という意味だと、後で分かった。それで、カタバルに行くと、今でも思い出して苦笑する。
 宜野座の収容所にいたときに、大きな台風がやってきて、大きな松の丸太の柱が動くのでびっくりした。その時に、米軍の水上機が岸辺にたくさん打ち上げられていたので、私たちは、米兵の前で「バンザーイ、バンザーイ」して喜んだ。

石川で

大切に保管している宮森小学校の徽章(池原※※氏提供)
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 その後、私たちは宜野座から石川に移った。石川では、伊波さん(屋号※※)という人の家に入れられた。同じ屋敷内に古堅の人もいっぱいいた。私たちは牛小屋にいた。
 当時、石川は一番賑やかな所だった。そのときに石川市になった。石川は焼けてなかったので、米軍は初めから、そこに避難民を集めようという考えだったんじゃないかと思う。
 学校も、石川学園(城前小学校)が最初にできた。初代の校長は山内※※先生だった。五月ごろから学校が始まった。後に宮森小学校もでき、私はそこの五年生になった。学校に行って、ボクシングをしたり、相撲をとったりして遊んだ。何もなかった。毎週何曜日かに、学校でチョコレートの配給があった。その日は生徒がいっぱい来たが、他の曜日はがらあきだった。
 私は戦後の宮森小学校の一期生として卒業生名簿に名前がある。でも、いつ卒業したのか分からない。当時の宮森小学校の徽章(きしょう)を持っているが、白い四角い布に印鑑を押して厚紙に巻きつけて作られている。これは、当時、先生が校門で印鑑を押して渡してくれたものだ。現在、宮森小学校にも記録がなかったので、多分この一個しかないと思う。これは誰が作った物か調べても分からなかった。

古堅ウガンの焼け残ったフクギ

 戦後、古堅部落に帰ると、部落のあちこちに戦争の傷跡が残っていた。養子先の※※の家の斜め向かいに古堅のウガンがあった。戦前、古堅ウガンの周囲はフクギの木がいっぱいで鬱蒼(うっそう)としていた。小さいころはよく、蝶々を取りに行ったりなんかして遊んだが、暗くて怖い感じだった。そこに、戦時中は日本軍が大きな天幕を張っていた。当時は何が入っているか分からなかったが、戦後、燃え跡を見ると、飛行機の部品がいっぱいあった。
 そこに、戦時中に片側だけ燃えて、生き残ったフクギの木がある。米軍が爆撃したのか、焼夷弾を落としたのか、上陸して来てから燃やしたのか分からないが、焼けた部分から腐れ、木の真中に大きな穴が開いている。今でもその木は、生長し続けている。
 そのフクギの木から五〇メートルぐらい離れた畑の中に、米軍の輸送機が突っ込んだ所があって、終戦直後も尾翼が残っていた。戦後、古堅の人がそれで鍋などの鋳物を作っていた。
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