第六章 証言記録
子どもたちの証言


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終戦直前から直後までの記録

玉城※※(喜名・※※)昭和八年生
 *本稿は、筆者が子どもの頃から書き綴っていた記録を、中学二年生の時にまとめて清書しておいたものに、若干の聞き取りを合わせたものである。

飛行場建設

 一九四三年(昭和十八)春、喜名部落の村内(むらうち)に憲兵将校が軍刀を下げてやってきて、喜名の有志や区長、組長などを事務所に呼び集め、「西原(イリバル)に飛行場を造るから住民も協力するように」と、命令されたとのことだった。その話は、部落中の人に知られるようになった。まもなく、村内(むらうち)の道や辻に憲兵が二、三人立つようになり、集会がないか、反対者がいないかと、夜の九時ごろまで目を光らせていた。たまたま、家に親戚が訪ねて来ると、憲兵が後からついて来て、門の所で内をうかがっていた。
 喜名の人は、ほとんどの人が農業で生活していたので、土地を取り上げられたら食べていけないといって、初めはみんな飛行場建設に反対だった。しかし、憲兵が絶えず目を光らせていて、「飛行場は秘密裏に造ろうとしている。反対する人はスパイだ」とか、「戦争を勝ちぬくため」と大義名分で話すので、住民は最後まで反対することができなかった。当時は、スパイと言われるのは何よりも怖かったし、住民の多くは、「自分たちの子どもや兄や親も、今は他国で戦争しているのだから」と思うと、反対を押し通すことができなかった。
 最後まで反対していたのは事業家の重久という人だった。重久さんは、広大な畑に百合根やアロールートを栽培し、大きな工場を造って麦飴を炊き、本土に出荷していた。百合畑では、喜名の女の人たちもたくさん働いていた。工場には、一辺が六尺ぐらいの四角い大きな鍋がずらっと並べられて飴を炊いていた。僕たちはよく、工場に行って飴をもらった。重久さんは、全財産を投じて工場を造ってあったので、飛行場建設には最後まで反対していた。
*アロールート クズウコン科の澱粉作物。
澱粉を採取し、お菓子や料理に利用する。
 しかし、まもなく飛行場建設は始まった。資産家の※※のアサギ(離れ)では、机の上に長い板を二枚敷いて大きな白紙を置き、兵隊さんたちが五人、ある時は七人で、大きなモノサシや三角定規、分度器などを使って線を引いていた。何をしているのか、僕には分からなかった。
 ※※のおばあさんが兵隊さんたちにお茶を運んできて、「軍曹さんもどうぞ」と言ったので、僕はびっくりして「おばあさんは兵隊さんの階級も知っているんですか」と聞いた。おばあさんは、「名前は知らないけど、兵隊さんたちが軍曹、軍曹と毎日呼んでいるから」といった内容を方言で答えた。おばあさんが僕を傍らに呼んで、「ここでは長く遊んではいけないよ。飛行場の第一滑走路の図面を書いているからね、これは秘密だよ」と、これまた同様に方言で言った。
 日に日に、兵隊さんがたくさん来るようになった。一か月後、国場組の総監督をしていた屋我さんたちが※※のアサギを事務所に使うようになっていた。しばらくして第一滑走路ができたとのことだった。第二滑走路を造る時には、飛行場の図面を書く兵隊さんたちは、静かで人通りも少ない東側の※※(屋号)にいた。飛行場建設期間中、読谷には各地から徴用されてきた人たちが大勢いた。

一九四四年(昭和十九)、初めて大砲を見る

 一九四四年(昭和十九)八月のある日、学校帰りに喜名事務所の前を通って、※※(屋号)の後ろの道から東の通りを見ると、見たこともない大きな黒い馬が二頭で大砲を引いていた。その前方では四頭の馬が、それより少し大きい大砲を、そのまた前方では六頭の馬が、もっと大きい大砲を引いていた。大砲は、まるで羽を広げた大きな鷲のように見えた。夢を見ているのかと思うような光景だった。これは何だろうと思って、日本の兵隊さんに訊くと、その中の一つを指さして「それは野砲だ」と、笑いながら教えてくれた。
 ※※(屋号)の後ろの道から東松林毛(アガリマーチョーモー)(松林の地名)の所まで、野砲が並べられていた。僕が、あまりに珍しくて触っていると、「野砲の中を見てごらん」と言って、兵隊さんが僕を肩車してくれた。中を覗くと、中はきれいに磨かれて銀色に光っていた。
 この通りは村内(むらうち)の中心になっていた。道の両側には大きな木や竹が茂っていて空が見えないくらいだった。「ここは大砲の置き場所として良い所だから当分は置かしてもらう」と、兵隊さんは話していた。
 それから四、五日の間に、東松林(アガリマーチョー)の松の木に軍馬が五〇頭余り繋がれ、山部隊の兵隊が入ってきた。僕は、毎日学校から帰るとすぐに友達と三人で、大砲と軍馬を見に行った。日本の兵隊さんたちと毎日過ごすうちに親しくなり、大砲も一緒に磨いた。休憩しているときに、「軍馬は大きいですね。力持ちですね」と言うと、兵隊さんは、「この軍馬は遠い遠い北海道から来たのだよ」と話してくれた。僕の家の馬よりもずっと大きく見えた。
 僕は、大人たちが、「戦が近づいているというのに、部落の真ん中に大砲を置いたら、爆弾を落とされるのではないか」と、心配しているのを聞いていたので「兵隊さん、戦争が始まっているのですか」と、何気なく訊いた。「南方では戦争している」と、兵隊さんが答えたので「僕は戦争のことは知りませんが、うちの祖父や祖母は心配しているよ」と言った。兵隊さんは、「そうか、大砲を道いっぱいに並べてあるからでしょう。この大砲は一週間ほどしたら山の方に持って行くから心配するなと、おじいさん、おばあさんに話しなさい。もう少しだからね」と言った。夕方、大砲にカバーを被せながら「また、明日もおいで」と、兵隊さんが笑いながら言ったので、「いい兵隊さんだなあ」と、僕は思った。
 その後、野砲は喜名の部落内から他所(よそ)に移され、日々軍馬も少なくなり、半分ぐらいになった。山部隊の兵隊も、半分は喜名部落から山の方に移り、残った兵隊は東松林(アガリマーチョー)の東側の畑をつぶしてテントを張っていた。
 ※※(屋号)の家には山部隊の隊長がいて、その本部になっていた。そこは祖母の妹の家だったので、僕はたびたび行った。隊長は少佐だった。オートバイの横に小舟みたいなのが付いて(サイドカー)いて、隊長はいつもそれに乗っていた。伍長がサイドカーを運転していた。大尉は、いつも軍刀をぶら下げて、軍馬に乗っていた。前原松林小(メーバルマーチョーグヮー)から仲地原(ナカチバル)までにかけては高射砲陣地があった。

各部隊の駐屯

 一九四四年(昭和十九)の四月頃、前原(メーバル)の前の※※の南に宿舎が建設され、しばらくして沖縄航空隊特攻部隊の兵隊さんが入って来た。これは、航空兵のための宿泊所だったが、兵隊さんたちは、略して「オキク」と呼んでいた。その建物を造るとき、首里や与那原などから大工さんが二、三〇人ぐらい来ていた。私の家から前の池小までは、石を投げると池の中に落ちるぐらいの距離だった。そのすぐ前にナカムラヤーという一軒屋があったが、「オキク」を造るといって壊された。
 山部隊より先に喜名の部落に入ってきたのは球部隊だった。僕の家は軍の病院になっていた。球部隊は飛行場を守るための機関砲部隊で、西原(イリバル)方面の飛行場周辺にいた。その次に通信隊が入ってきた。本部は※※の新しい家に置かれていた。
 一九四四年(昭和十九)の夏、喜名の東の山手の方にあるムートゥンナー(元喜名)という所に巌部隊がやって来た。「海軍だよ」と話してくれた。一九四三年(昭和十八)から四四年の末までに、喜名にはいろいろな部隊が来ていた。

十・十空襲

 一九四四年(昭和十九)十月十日、沖縄で初めての空襲があった。米軍機は、読谷山飛行場や嘉手納飛行場を空襲した。一日に何度も来襲した。私たちは家の後の防空壕に避難していた。夕方、空襲が終わってから村内(むらうち)を見ると、僕たちの家は大丈夫だったが、たくさんの家が焼けていた。
 オキクの建物が学校校舎のように大きかったので、十・十空襲の時に標的にされ、そこら辺一帯の家が全部焼けてしまった。当時、※※(屋号)の前の道は、高射砲陣地に行く通り道だった。※※は資産家で、大きな倉があったので、日本軍はその倉に高射砲弾を入れてあった。そこに、十・十空襲の時に爆弾が落ちて、高射砲弾が誘発して、周辺民家の家畜が焼け死んだ。破裂した弾は周辺に飛び散り、※※、※※の前の通りから※※、※※、※※や※※、※※の前の通り周辺の家、※※、※※、※※の家などが焼けてしまった。座喜味辺りまでだろうか煙が上がっているのが見えた。
 三日後、僕は別の所に避難していた祖父が心配で、祖父の家に行ってみた。屋根が見えたので安心していると、中から祖父が出てきて、「みんな怪我はないか」と訊いた。「みんな大丈夫、家も大丈夫」と言うと、祖父は安心したようだった。祖父は「役場は残っているかね」と訊いたので、僕は「役場は残っているが、喜名の四分の一は燃えてなくなっている。大通りはみんなない」と言った。
 その日の空襲で家を失って、ヤンバルに避難していった人たちもいた。また当時は、みんな屋敷内に防空壕を掘ってあったが、十・十空襲以後は、家が焼けて防空壕も埋まってしまうかも知れないといって、喜名の東のナガサク山などに、各家ごとに防空壕を掘り始めた。※※叔父さんは、掘った壕の中に入ってみて、飛行機が飛んでいるのを見ては、ここは危険だと言って、また別の所に掘って、山の中に三か所も防空壕を掘ってあった。

軍医と兵隊たち

 僕たちの家は病院になっていたので兵隊さんたちの出入りが多かった。家にいる兵隊さんたちは、主に東京や群馬県、兵庫県からの人たちだった。入院している兵隊さんたちを合わせると全部で一五人いた。時々お酒の配給もあった。
 あるとき、酒が入った二番座の衛生兵さんたちが地方の歌を歌って楽しそうにしていた。それに負けまいと、一番座の軍医さんたち二人も東京音頭を歌いだした。歌では、軍医さんたちは、いつも二番座の兵隊さんたちに負けていた。一時間ほどして、軍医さんの合図で静かになった。その夜は、アサギ(離れ)に入院している兵隊さんたちもほろ酔い加減だった。
 翌朝、軍医さんが入院している兵隊さんたちを診察しながら、「だいぶ良くなってきたな。昨夜はお前も歌を歌っていなかったか」と聞くと、一人の兵隊は、正座して「軍医殿の歌う東京音頭を久しぶりに聞いて気持ちがよく、安静にしていました」と答えると、「そうか、よろしい」と言った。それから軍医さんは、僕が井戸から水を汲んであげると、「ああ、冷たくておいしい水だ。ありがとう」と、笑いながら言った。
 次々と日焼けで背中の皮膚がむけた兵隊さんたちが来ると、軍医さんは「沖縄の日差しは強いから裸では仕事をするな、何度注意しても聞かないと、ヨードチンキをぶっかけるぞ」と笑いながら話していた。とても良い軍医さんで、兵隊さんたちも良い人たちだった。

兵隊に牛汁をふるまう

 十・十空襲後のことでした。旧サーターヤー(製糖小屋)の広場に馬の草刈りに行くと、製糖小屋の中から「※※、※※」と僕を呼ぶ声がした。見ると、※※(屋号)の次男叔父さんが、製糖小屋の入口で、「おいで、おいで」と手招きしていた。僕は、「製糖の時期でもないのになあ」と不思議に思いながら入って行った。叔父さんは、「※※、牛を潰した。この牛の足を持てるだけ家に持っていって、煮て食べなさい。大きい祖母(オバー)にあげなさい、あんた達も食べなさい」と言った。僕は「ありがとう、叔父さん」と言って、牛の足を二本担いで行った。家に帰る途中、何度も兵隊さんたちに会った。
 三度目に会った兵隊さんたちは僕を知っているようで、「坊や、それは牛の足か」と聞いた。「はい」と言うと、「牛汁作るのか。何年なるかなあ、牛汁を口にしたのは。思い出すなあ。いいなあ」と兵隊さんが言った。それで、「夕方いらっしゃいよ、叔母さんに頼んで、大きな鍋に大根や昆布もたくさん入れて牛汁を作ってもらいますよ」と僕が言うと、三人の兵隊さんは口を揃えて、「本当か、本当に行っていいんだね」と喜んでいた。
 家に帰ってその話をすると、※※叔父さんは苦笑いしながら「芋もたくさん炊いてあるし、そんなに喜んでいたなら、家にいる軍医さんたちにもあげるから、もう一本担いできなさい」と言った。僕はまた製糖小屋に行って、※※の叔父さんから牛の足をさらに一本もらって来た。
 僕が急いで家に戻ってみると、※※叔父さんはもう、シンメーナービ(大鍋)に牛汁を炊く準備をしていた。「兵隊さんたちは、いつも芋ご飯と麦ご飯しか食べてないから」と言って、叔父さんは一生懸命、心を込めて牛汁を作った。
 初めに、三人の兵隊さんがやって来た。「一〇〇メートルも先から牛汁のおいしそうな匂いがした」と笑顔で入って来て、大きな鍋の蓋を勝手に開けて見ていた。叔母さんが、「もうできあがっているから、腹いっぱい食べて、おいしかったらおかわりもしなさい」と言うと、兵隊さんたちは「おいしい、おいしい」と言いながら、牛汁をおかわりして食べた。「何年ぶりかな、牛汁にありつけたのは。本当にありがとう」と言って、兵隊さんたちはみんな喜んでいた。祖母(オバー)は標準語も分からないのに、兵隊さんが喜んでいる姿を見て感動したのか、「毎朝芋を炊いているから、近くを通るときは食べにおいでよ、兵隊さん」と方言で言った。兵隊さんたちが帰ったあとで、僕が笊(ざる)にもっと芋を入れようとすると、笊の下に三円置かれていた。兵隊さんたちが置いていったのだとすぐに分かった。叔母さんは、「お金はいらないのにねえ」と言った。
 それから一〇分ぐらいして、「小母さん、牛汁ご馳走させてください」と、六人の兵隊さんがやって来た。その兵隊さんたちも、「大変ご馳走になりました」と言って、六円置いて帰ろうとした。叔母さんが、「お金はいりませんよう」と言って返そうとすると、兵隊さんたちは「気持ちですから。本当にご馳走さんでした」と言って、帰っていった。すぐにまた、三人の兵隊さんがやって来た。僕は、門から出入りする兵隊さんたちが喜んでいる姿を見ていてうれしかった。
 次から次へと兵隊さんが来るので、僕たちの家の一番座と二番座を借りている兵隊さんたちは、仕事の後片付けをしている最中だったが、叔母さんの所に来て、「僕たちのも残してくれよう」と叔母さんの耳元で言った。叔母さんは笑いながら、「軍医さんと衛生兵さんたちのために買っておいた牛肉も一緒に炊いて、別に取ってあるから心配しないで。あなたたちが一番だよ。仕事が終わったら食べにいらっしゃい」と言った。
 その日、全部で一七人の兵隊さんの楽しそうな笑い声を、久しぶりに聞いた。叔父さんも、「本当に、牛汁を作ってあげてよかったなあ」と言った。あとで、笊の中のお金を数えてみると一五円入っていた。叔母さんが、僕に帳面代として一円くれた。

一九四五年(昭和二十)三月

 一九四五年(昭和二十)三月初め頃、急に「三月いっぱいで全軍南へ移動せよ」という軍司令部の命令が出て、各部隊の兵隊さんは軍事物資運びで、とても忙しそうだった。三月二十日頃までは、喜名の牛ナー(闘牛場)の所に山積みされた米や食料を取りに軍用車が頻繁に来ていた。三月二十三日を最後に、食料を取りに来る兵隊さんの姿を見ることはなかった。それ以後は空襲が激しくなり、二十六日からは艦砲射撃も始まった。
 三月二十五日に、僕たちは、喜名東のナガサク山(長尺山)の壕に避難した。ナガサク山の壕は、通信隊が山を貫いて掘ったものだった。通信隊の仲村伍長が南部に移動する時に、住民に「個人で掘った壕は危ないから、この壕に入りなさい。私たちは南部に移動するから。私たちが掘った壕は、ちゃんと枠もはめて造ってあるので安全だから、みんなここに入ったらいいよ」と言った。それで、僕たちは最初はそのナガサク山の壕に入ったが、矢倉岳(クールーグヮー)(読谷山岳)の下にそれよりももっと大きな壕があったので、一時はその壕に移った。しかし、その壕は、東支那海に向いていて、たくさんのアメリカ軍艦船が浮かんでいるのが見えた。それで僕たちはまた、ナガサク山の壕に戻った。ナガサク山の壕に行ったのが四、五〇名ぐらい、クールー岳に残ったのが三、四〇名ぐらいで、合わせて一〇〇名近くの喜名の住民が避難していた。
 住民は空襲のない夜のうちに畑に行って芋を掘り、家に帰って食べ物を用意して、空襲が始まる七時頃までには山に戻るという生活を繰り返していた。

米軍に収容される

 四月一日の朝、読谷山飛行場で大腿部を負傷した日本兵が、傷口を脚袢(きゃはん)で縛り、鉄砲を杖にして、僕たちがいた防空壕の入口まで来てパタッと倒れた。その兵隊さんは夜通し唸っていた。防空壕には、ちょうど、元看護婦さんだった喜名の照屋※※さんがいたので、傍にいたおばさんたちが「あんたは看護婦でしょう。何とかしてくれよ」と言った。照屋さんは、血がこびりついて硬くなっている脚袢の上から、お湯に浸して絞った布を何度も当てていた。脚袢がやわらかくなったところで、ゆっくりはずしてみると、血が止まっていた。「もう大丈夫」と言って、傷口を拭き、フーチバー(よもぎ)をあてて包帯で巻いていた。そうやって、照屋さんは一晩中、兵隊さんの看護をしていた。
 翌朝、四月二日の夜明け頃、兵隊さんは落ち着いて話ができるようになった。その兵隊さんが、「米兵は上陸してそこまで来ているよ」と言った。米軍が上陸してきていると聞いて、みんな恐がって防空壕の奥に入って、誰も外に出ようとしなかった。
 しかし、僕は傷口を縛っていた巻脚絆を捨てにいきながら、水を汲みに行った。防空壕から一〇〇メートルほど下りた所に、山肌を削って雫が溜まるようにした井戸みたいなのがあった。そこにバケツを二つ持って水汲みに行き、水をいっぱい入れて持ち上げると近くでガサガサと音がした。山の中なので、朝霧で一五、六メートル先は見えなかった。もう一つのバケツにも水をいっぱい入れて持ち上げると、またもパタパタと音がしたので、「山鳩かねえ、ガートゥイ(鳥名)かねえ」と、思って振り向いたが、何も見えなかった。四、五分して、再び後ろを振り向くと、一〇メートルぐらい先で、五、六人の米兵が銃を構えていた。米兵は、僕が水汲みに行く前にすでに反対側から山に入ってきていたのだろう。偵察の兵隊だったと思う。
米軍に収容された人々
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 僕は、あわてて引っ返して防空壕に飛び込んだ。防空壕は八〇メートルぐらいの長さだったが、僕たちはだいたい真ん中辺りにいた。僕が防空壕に飛び込んでから半時間後ぐらい、ちょうど九時過ぎ頃だったと思う。二世らしい兵士と白人兵がやって来た。何事かと叔母が恐る恐る外の様子をうかがうと、米兵がいたので、「あんたはアメリカーを連れて来たんだね」と怒って僕に言った。二世らしい兵士が「殺しはしない。みんな出てこい」と言って、負傷していた日本の兵隊さんをまず担架で運んで行った。
 壕から出る時、米兵が一人ひとりチェックしながら出すので、全員が壕から出るのにかなり時間がかかった。米兵は、僕の頭をなでてチューインガムを与えようとしたが、僕が「いやだ」と言うと、半分ちぎって食べて見せた。それで、僕もガムをもらって食べたが、どんなに噛んでもなくならないので吐き捨てた。こうして、僕たちは四月二日の九時頃に米軍に収容された。〈投稿〉
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