第六章 証言記録
子どもたちの証言


<-前頁 次頁->

台湾で家族全員を失って

金城※※(旧姓眞榮田・※※)昭和六年生

台湾疎開のきっかけ

 私が、父※※(明治二十六年生)、母※※(明治三十五年生)、兄の※※(昭和四年生)、弟の※※、※※とともに台湾へ疎開したのは一九四四年(昭和十九)の八月ごろだったと思います。当時、妹の※※はすでに病気で亡くなっていました。
 私たちは、親戚の人で父のムヤーナー(こもり姉さん)だった津波※※さんから、「沖縄はやがて戦争が激しくなるから、台湾に一緒に行こう」と誘われて疎開することになったそうです。当時、父は四十歳を越えていたので、兵隊にとられなかったと思います。
 台湾に行く時は、那覇の旅館に一泊してから乗船したと思います。当時、私は十四歳で、那覇に行くのも初めてだったので、那覇のどこに行ったのか、旅館の名前も、乗った船の名前も覚えていません。その時、波平から上原※※さんの家族、渡慶次※※さんの家族、津波※※さんの家族、上原※※さんの家族、上地※※さんの家族も一緒に行きました。

台湾行きの船中で

 船で台湾に行く途中、潜水艦が接近したことがありました。ちょうど、本土に向かっていた対馬丸が沈没した頃だったと思います。対馬丸が沈んで、こっちに潜水艦が向かっていると聞いて、上原※※というおばあさんが、「みんな集まりなさい。同じ船に乗って、もう死ぬも生きるも一緒だから、みんなでお祈りしよう」と言って、みんなでお祈りしたのを覚えています。このおばあさんは、キリスト教伝道師の上原※※さんのお母さんだったと思います。※※さんは後の方に立っていらっしゃいました。おばあさんは何歳だったか分からないんですが、かなり年をとっていらっしゃって、歩くのもあまり達者ではなかったです。そうやって集まってお話しているうちに、「潜水艦は通過したから、もう大丈夫だよ」とおっしゃって、また元の位置に戻ったのを覚えています。このおばあさんは、台湾で亡くなられました。
 台湾まで何日で行ったかは覚えていませんが、ただ、船の中で怖かったことだけは今も記憶に残っています。潜水艦が船に近づいたのはこの一回だけだったと覚えています。台湾に着くまで、船はあちこちの島影に隠れたりして、途中で何回も泊りながら行ったと思います。

基隆から南投到着まで

 台湾ではまず基隆に到着しました。基隆で何泊かして、そこから汽車を乗り継いで、南投に到着するまでに何日もかかったと思います。汽車の中は人がいっぱいでした。車中、台湾の人からおにぎりをもらいました。基隆から南投に行くまで、あっちこっちで泊りました。台中公会堂では二、三日ぐらい泊ったと思います。船で一緒だった人たちは、南投までずっと一緒でした。

明糖倶楽部での共同生活

 着いた所は台湾台中州南投郡南投街(たいちゅうしゅうなんとうぐんなんとうがい)の明治製糖株式会社の明糖倶楽部(めいとうくらぶ)でした。今の体育館みたいな大きな建物でした。中は、一番東側に舞台みたいな感じで一段上がった所があって畳が敷かれていました。下の方は縦に一つ、横に二つの通路があって、通路の両側は四つに仕切られて床が敷かれ、通路より少し高くなっていました。そこに、だいたい三家族ぐらいずつ入りました。家族と家族の間は荷物で仕切っていました。全部で一五家族いらしたと思います。中は壁も何もなかったので、全部見通すことができました。
 明糖倶楽部の向かいの社宅には、越来村白川出身で班長をしていた安里さんの家族がいました。
 明糖倶楽部での共同生活は一年余り続いたと思います。その間、若い方々やお父さんたちは製糖工場で働いていました。明治製糖の工場は、明糖倶楽部から一七〇メートルぐらいの所にありました。
 私の父も製糖工場で働いていました。兄の※※は、工場でサトウキビを運ぶ機関車の旗振りをしていたそうです。母の※※は家で家事をしていました。私も家で母の手伝いをしていました。弟の※※は当時六歳で、※※が四歳でした。
 食べ物は贅沢はできませんでしたが、それほど不自由はしませんでした。建物の東側の空地に炊事場があって、ガスコンロがありました。各家族とも別々に作って食べていました。おじやとか、お粥とか混ぜ御飯とか、米の御飯を炊いて食べていました。米は配給があったと思います。野菜はあんまりなかったと思います。
明糖倶楽部で共同生活した家族の部屋割り
(15家族)
画像

空襲

 私たちが台湾に行ってすぐに空襲がありました。明糖倶楽部にいる間に、私が覚えているのでは、三回ぐらい空襲がありました。空襲のときは、みんな建物から出て防空壕に入りました。明糖倶楽部入口の前の大きい道から左に折れたところの道のそばに、大きな防空壕が掘られていました。防空壕は、私たちが台湾に行く前にちゃんと準備されていました。この防空壕に一五家族全員が入れたと思います。明糖倶楽部の防空壕はこの一か所だけだったと思います。
 東向きに防空壕の入口がありました。防空壕の上にはガジマルの葉が覆われていました。かがんで入っていって、真っ直ぐ立てなかったと思います。防空壕は長くて、中は真っ暗でした。トンネルみたいに両方に入口がありました。かまぼこ型のコンセットみたいな形だったと思います。壕に入ったのは三回ぐらいだったと思います。防空壕の外でバーンと音がしたときは、爆風でゆらゆら揺れました。
 道路の傍らには、あっちこっちに防空壕が掘られていて、上はガジマルの葉などで覆い被されていました。防空壕の反対側の道に沿って川が流れていました。
 南投はあんまり空襲は激しくなかった方だと思います。爆弾が落ちたのは台北がとても激しかったと思います。後に見た総督府は、半分壊されていました。

マラリアの蔓延(まんえん)

 明糖倶楽部では雑魚寝だったので、ほとんどがマラリアに罹ってしまって、元気な人はわずかしかいませんでした。悪性マラリアというのは、一週間で生死が分かれると言われていました。七、八日で元気になった人は回復するんですが、亡くなる人は四、五日うちに亡くなりました。全然マラリアに罹らずに元気だったのは、上原※※おばあさんだけでした。

家族の死

 一九四四年(昭和十九)八月に台湾に行って、その年の十二月ごろにマラリアで父が亡くなりました。父は仕事に行ってきて、すぐ翌日亡くなったんです。マラリアで「寒いよ、寒いよ」して急にでした。マラリアはいつ罹るか分からないんです。
 翌四五年の夏ごろ、兄もマラリアで亡くなりました。敗戦前だったのは覚えているが、何月だったかは覚えていません。そして母も亡くなりました。一番下の弟は、夜、乳を飲みながら母と一緒に亡くなりました。母は、四〇度の熱にうなされてガタガタ震えていましたので、遺言を言う暇もなかったです。
 母が亡くなって後、弟の※※は私が面倒をみていたんですが、約半年後ぐらいに亡くなりました。戦争が終わってからだったと思います。何月だったかは覚えていません。父が亡くなってから、兄が亡くなるまではあまり間がありませんでした。兄が亡くなってから母が亡くなるまでもそんなに間がなかったと思います。亡くなったのは、明糖倶楽部にいるときでした。みんな火葬にしました。
 兄が亡くなって後、私もマラリアに罹ってしまいました。家族で一番マラリアがひどかったのは私だったんです。何回も何回も繰り返し熱発して、何日も続いたんです。母が亡くなった時も、弟たちが亡くなった時も、私は熱が出て、火葬にも立ち会うことができずに家でガタガタ震えていました。
 だけど今、私はこんなに元気に生きているんです。一番、母が大変だっただろうと思います。私は何も考える余裕はなかったです。親、兄弟たちがマラリアで一人去り二人去りして、私一人残った時には、「もう、自分は生きていいのか、いないほうがいいんじゃないか」と思いました。他人にお世話にならないといけないので、そのことがとても辛かったです。

上地さんのお世話になる

 一人になってしまった私を、母の従兄弟の上地※※さんが引き取って面倒を見てくれました。※※さんの所にいるときも、私は何回もマラリアの症状が出ました。当時、※※さんには長男の※※さんと赤子の※※さんがいました。※※さんは自分の子どもは上原※※おばあさんに預けて、遠い病院まで来てくれて、一週間も二週間もつきっきりで看病してくれました。

敗戦後、旧総督府庁舎で生活

 敗戦になって、疎開者はみんな一緒に明糖倶楽部から別の所に移りました。沖縄に引き揚げる前は、何回も何回も移動しました。「こっちは外国になっているからここにいてはいけない」と言われたこともありました。日本が負けたというのをどうして知ったか覚えていません。どこかに集められて聞かされたということはなかったと思います。
 沖縄に帰る前に、旧台湾総督府庁舎に何か月だったか、長らくいました。そこでは、旧軍隊(琉球籍官兵)も一緒でした。沖縄から行った民間人は、総じて琉僑あるいは琉民とよばれていましたが、疎開で行った人々と戦前から住んでいた人々の二種類がありました。戦前から台湾に住んでいらっしゃった沖縄の方たちは、公務員とか芸能人とか、いろんな方々がいらっしゃいました。その方々は、台湾のカワサキという所に個人住宅があるとかで、そちらに移動して行きました。
 沖縄に引き揚げる時は、疎開者から先に帰して、前々から住んでいらした方々は後になったと聞いています。旧軍隊(琉球籍官兵)は最後に帰られたと思います。
 旧総督府庁舎では、旧軍隊(琉球籍官兵)が責任をもって炊事をしてくれました。みんなは運ばれてくるのを、ただ取りに行って食べるだけでした。食事は十分にありました。

田里さんの子ども達の看病

 それまで、私は上地※※さんの家族と一緒でしたが、旧総督府庁舎では、今で言えばちょうどボランティアみたいなのがあって、私は青年会から病院に行くように頼まれて、病人の付き添いをしていました。そのとき、沖縄僑民隊総務部長の田里さんの子どもが二人とも病気ということで、「ぜひ、家に来て二人の子どもの世話をしてくれ」と頼まれて、私は田里さんの家に行きました。向こうでは、田里さんはみんなから一目置かれていました。
 私は、田里さんの奥さんと一緒に二人の女の子の世話をしたんですけど、私が行って二日目でしたか、ジフテリアという病気で二人一緒に亡くなりました。
 田里さんは、私にも大変よくしていただいて「私たちの家族になって、一緒に住みなさい」と言われたんですけど、私には沖縄に一人で待っている母方の祖母がいるし、家族のお骨もたくさん持っていたので、人の家にはいられないと思いました。それに、私の引揚者としての籍は疎開者の部にしかなかったので、先に沖縄に帰りました。

家族の遺骨を携えて引き揚げ

 南投郡の明糖倶楽部にいる時は、家族の遺骨はお寺に預けていました。旧総督府庁舎では遺骨置き場に置かせてもらっていました。沖縄に引き揚げる時は、柳行李に遺骨を詰めて縛ってもらいました。柳行李の中は家族五人の遺骨でいっぱいでした。
 沖縄に帰ったのは一九四五年(昭和二十)の十一月でした。帰りの船は、波平から一緒に台湾に行った人たちもみんな一緒でした。着いた所は久場崎だったと覚えています。着いてすぐ、頭から消毒剤を掛けられました。久場崎には二、三日いたと思います。その後、石川にいた祖母の所に引き取られました。石川では、上原※※さんの親戚の※※さんと※※さんがお隣でした。石川にいる時、田里さんが尋ねて来られて、「自分たちの子どもにしたい」とおっしゃってくれたんですが、祖母の世話をみなければならないので、そのまま石川にいました。

石川から読谷へ

 石川に半年ぐらいいて、それから祖母と一緒に読谷の波平に帰って来ました。波平に帰るときは、男の方がいらっしゃる所から先に帰ることができて、女所帯は後になりました。何年の何月だったかははっきり覚えていません。先発隊の男の方々は家造りをするために先に帰られていて、私たちは、幸い祖母の屋敷が空いていたので、そこに建てられた標準家(ひょうじゅんやー)に入れてもらいました。元の家は全部焼けて何も残ってなかったと聞きました。
 波平に来てからは、母の妹が波平の下の方にあった米軍の墓場の草刈り仕事の班長だったので、私も仕事を紹介してもらいました。また、友達からも順々に紹介してもらったりして、仕事に恵まれましたので、結婚するまでに産婆代も稼いでいました。親も兄弟も誰も頼る人はいないから、何でも自分でやらないといけないと思っていました。

戦後の思い

 戦後は、祖母の面倒をみながらずっと働いてきました。祖母は、私が嫁いで、長女が八歳のときに亡くなりました。嫁いだのは三十二歳のときでした。読谷に帰ってきてすぐに、結婚の話がいくつかあったんですが、私は、「お嫁さんになれ」と言われるともう震えてですね、家族をもつということがとても怖くて、どうしても結婚しようという気になれませんでした。父の親戚とか、母の同級生、兄弟たちの同級生の顔を見たら、すぐ涙が出るんです。「生きていたらこんなだったのにねえ」と。家族の話を聞かれると、泣いて体が震えて答えようがなかったんです。それで、米軍人の家庭に住み込みで働いていたんです。できるだけ住み込みの仕事をして、仕事が終わったらすぐ、友達の家に逃げて隠れていました。
 今になって思うと、もっと早く結婚しておけばよかったのにと思うんですけど。幸い、今では子どもたちにも恵まれて、何も言うことはありません。
 台湾に行く前の私たちの家族は、「とても朗らかで、隣近所の人たちが羨ましがるほどだった」と、私たちの家の前に住んでいた祖母の従兄弟が話してくれました。大きい家ではなかったので、月夜のときなんか話がはずんで大きい声を出すと、近所に聞こえたそうです。

最後に

 今も、私が一番怖いのはトゥシビースージ(生年祝い)です。私には親も兄弟もミーックッヮ(甥姪)もいない。それがとても辛くて、みんなは朗らかに笑っているのに自分一人泣いてはいけないから、こんな場所に行きたくないんです。死んだ家族のことが思い出されて、一人になると悲しくなるんです。本当に、こんな悲しい戦争は二度とあってはいけないと思います。
 この話は避けて通れるんだったら、なるべく話したくないと思っていたんですが、上原※※さんが「話しづらかったら、私も一緒に行ってあげるよ」と言われたもんですから、お目にかかってみようかと思ったんです。今日はお話を聞いていただいて、本当にありがとうございます。
<-前頁 次頁->