第六章 証言記録
子どもたちの証言


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妹を背負い山中彷徨

波平※※(旧姓松田 座喜味・※※)昭和九年生

国頭へ疎開

 父の※※は「満州」から帰ってきた直後の一九四四年(昭和十九)十二月に座喜味の区長になりました。翌年二月になって疎開命令が出たが、字民はなかなか疎開したがらず、区長の家族である私達一家は率先して疎開することになりました。
 一九四五年(昭和二十)の二月には山原に疎開するということになっていたので、二月十三日に私の家では、疎開中の食料にする保存用の油ミソ等を作るために豚を潰しました。
 疎開の準備で忙しかったその日、十四歳だった姉の※※は、家の池で芋を洗っている時に癲癇(てんかん)の発作をおこし、その池で亡くなってしまいました。翌日葬式をおこない、あわただしくナンカ(初七日)までは済ませました。そして翌二月二十一日の朝、母と私達兄弟四人は山原に向け座喜味を発ちました。父は区長なので座喜味に残らなくてはなりませんでした。
 それまではあまり座喜味から出た事もなかったので、私にとっては初の遠出でした。多幸山あたりには、一人しか入れないような避難用の小さな壕がたくさん掘られていました。
 山田から仲泊を通って安富祖の学校で泊まりました。そこではたすきをかけた婦人会の人達が夕食のおにぎりや味噌汁を作って待っていてくれました。それを食べて寝て、翌朝は朝ご飯を食べて、お昼の弁当まで持たせてくれました。芋ではなくご飯だったのでとても嬉しかった。大人はどうだったか知りませんが、私達はまだ子供だったので、避難するといってもどこに行くのかもわからないし、朝から晩まで米のご飯が食べられ、見たこともない景色をみたりして遠足気分でした。
 兄は当時十八歳で、どこで手に入れたのか地図を持っていました。それで、ここはどこの部落と教えてくれたので、その時途中の部落の名前を覚えました。
 そして安富祖の次は羽地の学校で泊まりました。そこでも婦人会の人達が食事を作ってありました。翌日羽地を出発し、大宜味村の塩屋まで行きました。そこにはまだ橋がかかってないので塩屋湾を迂回して行きました。

疎開地辺土名

 座喜味を出発して四日目に奥間に着きました。ところがそこの受け入れ名簿には私達の名前が無かったので、桃原に行きました。そこで兄は私達を馬車から降ろして座喜味に戻っていきました。母と私達だけが残り、桃原の浜で遊んだりしました。私達は全くピクニック気分だったのですが、母は心配で桃原の事務所に問い合わせたら、そこの名簿にも私達の名前は無いということで、今度は辺土名に行きました。よくわからないのですが、辺土名の名簿には名前があったらしく、そこの高山という家に割り当てられて、そこでは配給をもらいました。
 二月ですからその頃はまだ空襲も激しくなく、母も働き盛りだったので、その家の畑に出たり山に行ったりして手伝いをしていました。ひと月くらいは私達も畑に一緒に行ったり、隣の奥間や桃原まで妹を背負って遊びに行ったりしていました。わりと平和で食糧の配給もあり、食べる物にもあまり困りませんでした。
 私は辺土名の学校には通わなかったのですが、金城※※という先生が、同じ高山の家を借りていたので時々学校に遊びに行ったりしていました。
 ※※(屋号)の宇座※※先生達が、私達より先に疎開していて、その後別の家族がそれぞれやって来ました。疎開の時期が早かったので、その頃は一緒にたくさん疎開してきたのではありませんでした。※※(屋号)の人たちも馬車で来ていました。
 こうして座喜味の人が疎開して来ると、私たちは「今日は※※(屋号)が来たってよ」とか「※※(屋号)の山城※※さん達が来たってよ」とか言うので会いに行ったりしました。
 兄は馬車を持っていたので、中城まで芋を買いに行き、辺土名まで運んで来ました。二月から三月の間に二回か三回くらいは往復したと思います。兄はいつ防衛召集されてもおかしくない歳だし、途中で何があるかわからないので兄が中城に行く度に、母はこれが最後の別れになるのではないかと泣いていました。私はまだ子供でしたから、何故泣くのかわかりませんでした。兄が中城から帰ってくると芋が食べられるので、私達は手を振って喜んで見送っていました。
 三月になってからでしょうね、辺土名の海で機銃掃射があったということで、海岸にいた人達が戻って来たのを覚えています。
 辺土名では※※と※※と私達三家族で、※※のいた近くの桑畑に地下壕を掘ってありました。

父も辺土名に疎開

 空襲もだんだん激しくなってから、父が読谷から辺土名に来ました。辺土名も空襲されるようになったので山に登ることになりました。
 山に上がってからは食料はほとんどありませんでした。四月、五月頃はちょうど山苺の時期なので苺を採りに行ったら、アメリカーが来ているということでさらに山奥に逃げることにしました。
 辺土名の山から比地に向かう山道では、たくさんの人がぞろぞろと歩いていて、その中には座喜味の人もいました。山中は大木が茂っているので昼でも歩けたのです。
 与那覇岳を通った時に山に雲がかかり、母が「頭を雲の上に出し…」と歌っていたのを覚えています。
 その頃からは父も兄も一緒だったし、母の兄さんの奥さんとその子供二人と、父の妹の家族も一緒でした。
 そこら辺では、部隊からはずれた日本兵達もたくさん見られました。沖縄で防衛隊に召集されていた人達も、家族を探して中部あたりから国頭まで来ていました。

大和魂

 みんなは川田平良(カータテーラ)に下り東海岸に出て、中部に近い所に行くとか言っていました。しかし、父も四十歳そこそこでしたし兄は十八歳でしたから、いつも大和魂の話ばかりをしていて、自決はしても捕虜にはならないというので、私達は高江新川(タキーアラカー)に行きました。
 六月頃だと思いますが、そこで初めてアメリカ兵を見ました。従姉妹と海に藻を取りに行った時です。赤い体で身長も高いし、鼻も天狗のようで、そんなアメリカーを見て本当にびっくりしました。それでここにいては捕虜になるということで、翌日急いで安波に向かいました。

妹を背負い山中彷徨

 妹の※※は、小さい頃から体が不自由でした。高江新川で捕虜になってそこから逃げて来たおじいさんが、妹を指差して「クングゥトゥグヮーナー アメリカーガ ンジーネー インヌムンドゥスンドー(アメリカ兵がこんな子を見たら犬のえさにするよ)」と言ったので、母はそれを聞いて絶対に捕虜にはならないと決めたと後で聞きました。
 食べる物もほとんどないのでおっぱいも出ないのですが、くわえさせないと泣くので乳首をくわえせていました。母も苦しかったと思います。母は一番下の幼い※※の面倒を見るので※※の世話は私の役目でした。
 ※※は歯も丈夫じゃないので、ヘゴ等も食べることができず、それをくわえさせておくと一日中でもくわえたままでした。
 私は十二歳、※※は五歳でした。私はあまり大きいほうではないし、※※は歳のわりに背が高かったので、おんぶすると引きずるような感じでした。ずっとおんぶしているので辛くて、歩きながら「ウヌクヮヤシティーンドー(この子を捨てるよ)」と母に何度も言いました。私にとっては重い荷物のように思えていたのでした。その時に母が自棄になって「イーシティレー(捨てなさい)」とでも言おうものなら、すぐおろしたかもしれません。ですが母親はそうは言わず「ナーイヒグヮールヤンドー(もう少しの辛抱だよ)」と言うので、私もそうかと思っておんぶして歩き続けました。
 とてもひもじいし疲れるし、いろいろあるので、妹が背中で泣くと痣(あざ)になるほど妹のももをつねったりしました。自分のことで精いっぱいでかわいそうとも思いませんでした。この子に分けられた食べ物でも、自分が取って食べたいくらいでした。
 その頃は米を炊くことも出来なかったので、母は水につけた米を噛んで※※に食べさせてましたが、私も母がくれるその米粒を食べるのがとても楽しみでした。
 山の中を歩く時も、大人の早さと子供の早さは違う上に※※をおんぶしているので母達は先に歩いて、その後をおっかけました。私達はいつもみんなより遅れていました。道が分れている時は、母が草の葉を結んだりして目印を作ってあるので、それについて歩いていきました。母達は私が追いついて来るまで休んでいて、やっと母に追いついたと思ったらまたすぐに歩き始めるので、私は休むことができませんでした。それでも塩やスク小(グヮー)(塩漬けの小魚)をほんの少し渡されて、それだけでまた歩き始め、喉が乾くと足跡のくぼみにたまった水を飲みました。
 父は栄養失調で体が腫れていました。兄は痩せていましたが元気でした。
 父の妹の家族と母の兄の家族も一緒でしたが、人数が多かったので食べ物がないということと、女所帯だから捕虜になってもいいということで高江新川で別れました。
 私達は父も兄も大和魂を貫くということでさらに奥へ奥へと逃げました。私は十二歳でピンピンとび跳ねるような年頃なのに、宇良あたりに来た時には杖をつかなければ歩けないくらいになっていました。骨と皮だけになって関節だけが目立ち、それだけの体力しかありませんでした。
波平※※さんの避難経路及び収容後の移動図(『平和の炎Vol.3』)
画像

投降

 山の中では、捕虜になったら御馳走がたくさんあるとか、いろんな情報が流れました。捕虜になったら一日一合の米の配給があるというのを母は聞いたらしく、※※のことが気がかりだったので捕虜になることを決心したといいます。だんだん痩せ細っていくのを見て「ウマウティ シナスシヤカー クミヌムンヌ チュチブ ヤティン カマチカラ アメリカーガ イヌンカイクィーンリチ ソーティイケーカラー アンナティンシムサ(ここで死なせるよりも米の一粒でも食べさせて、それから犬の餌にするというのならそれでもかまわない)」とまで思い詰めていたそうです。
 父と兄は捕虜にならないと言っていましたが、「ワッタービケーヤティンシムグトゥ 辺土名山マディヤソーティンジトゥラシェー(私達だけでも捕虜になるから、辺土名までは連れて行って)」と言われ、父もついてくることになりました。兄は「ワッターグーヤ ヒータインカイ イジョーシン ウグトゥ ワカリラ(私の同級生は兵隊に行っているのもいるからわかれよう)」ということで、兄とはそこでわかれました。父は辺土名山までも連れて行って戻るよりはということで、一緒に山から下りたんです。八月十五日のことでした。

辺土名地区収容所へ

 安波から辺土名まで二、三日かかりました。兄は自分の食料を探すため、辺土名山に蘇鉄をとりに行き、そこで捕虜になったということでした。
 安波から宇良に下りて来た所に陣地があって、アメリカー達は川のほとりにいました。アメリカーはCレーションをくれたので、それを開けて食べました。なんとも言えずおいしかった。こんなおいしい物を食べて後だったら死んでもいいと思ったほどでした。
 宇良でCレーションをもらって、歩いて県道に出たら、GMCトラックに難民のカンパンシンカ(収容所の連中)が乗っていて、水罐に水を入れて運んでいました。私達はこれから下りていくのに、この人達は既にカンパンで働いていたのです。
 宇良から辺土名に行って、辺土名から喜如嘉に戻って行きました。その時喜如嘉に向かっている人が一生懸命手を振っていました。私達は足も腫れてやっと歩いている状態だったので、車に乗っている人を羨ましいと思っていました。母は、それが兄だったことを知り、「ワッター※※ヤタン。カチミラッティクルサリーガヤン(うちの※※だ。捕まえられて殺されに行くんだ)」と思ったらしいのですが、歩いて喜如嘉の収容所に行ってみると兄は先に着いていました。
 収容された人達は辺土名地区といって喜如嘉、謝名城、田嘉里の各部落に配置されていました。私達は田嘉里の※※という家に割り当てられました。途中で離れ離れになった父の妹の家族も、母の兄の家族もみんな田嘉里に収容されていました。
 田嘉里では米や缶詰の配給もありました。割り当てられた家の一番座に私達が住み二番座には宇良の人が住んでいました。家主は裏座や台所に住んでいました。ご飯は家畜小屋で炊いていました。「炊事場小(グヮー)」と言っていました。

羽地へそして石川へ

 配給があるといっても石川あたりのようにたくさんあるというわけではありませんでした。両親が芋掘り作業に行ってカズラ等をもらってきたりしていました。
 八月に山から下りて、十月頃まで田嘉里にいました。そこであまり配給もなかったので羽地に移ることにしました。十月の台風の日でしたが、昼だと捕まえられるので夜中にこっそりそこを出たのです。
 私はずっと※※をおんぶしていて、いつでもみんなより遅れていました。山の中では、※※の食べ物も取って食べたいくらいだったので、私は人間ではなかったと思うのですが、その頃からは食べ物もあるし、※※が可哀相と思うようになっていたので、私も少しは人間らしさを取り戻していました。煎ったえんどう豆を※※に食べさせながら歩いていました。
 ちょうど大きなアルミの鍋があったのでそれを二人で帽子のように被って、台風の雨の中を歩きました。夜通し歩いて、仲尾次あたりに来た頃、夜も明けて風も止んでいました。
 私達が辺土名に行く時は全然無かった水陸用の戦車が海にたくさん浮かんでいました。本当に歩いて渡れるほどで、小学校の三年生くらいの時に習った「因幡の白うさぎ」を思い出しました。その辺には三角テントがいっぱい張られていたので、収容された人達がいっぱいいたと思います。私達は鍋を被って汚れた格好をしていたので、そこの子供達に石を投げつけられました。
 親達は知り合いのいる羽地田井等に先に行っていて、そこに着いてから私達を迎えに来るつもりだったらしいのですが、私達は途中で照屋※※さん達と会いました。鍋を被って歩いている私達を見て可哀相に思い、声をかけてくれて、照屋さんの住んでいる家に連れて行ってくれました。その時食べさせてもらった料理はとてもおいしかったことを覚えています。
 私達がその家にいる間に、両親は探しに来たが、どこにもいないので、我部祖河あたりまで探しに行ったということです。
 私もそれまでは頑張って歩いていたのですが、照屋さんの所で一旦休んでしまったら歩けなくなってしまいました。
 その後、やっと親が探し当ててくれて、担がれて羽地に行きました。幼い妹達がいて母は私にかまうことができませんでしたので、それまでの疲れと栄養失調で一週間くらいはトイレに行くのにもよつんばいで行くような状態でした。羽地に着いてからは、芋の配給もありました。早い時期に捕らえられた人達は、食べ物もあって体力も回復しているようでした。私達は三月から八月まで五か月くらいずっと山の中をさまよっていて、やっと落ち着くと思っていたのに、すぐ田嘉里から移動するなど無理をしていました。
 兄は、羽地から先に石川のカンパンに行き、その後私達も石川に行きました。石川に行ってからは配給はたくさんありました。
 二度とあのような山中での彷徨はしたくありません。
(一九九〇年五月二十一日採録)
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