第六章 証言記録
子どもたちの証言


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私の戦争体験

屋宜※※(親志・※※)昭和七年生
昭和20年当時の陸軍少年兵召募のポスター
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 昭和初期の子供たちは少国民とよばれ、現人神である天皇の「赤子」(子ども)として天皇と国体護持のために命を捧げるという教育を施されました。いわゆる「皇民化教育」が徹底された時代でした。登校すると朝会では全員が東に向かって宮城(皇居)遙拝をし、各教室には「天照大神」と書かれた当麻(たいま)(大麻・皇大神宮のお札)が安置され、授業はじめに柏手を打って礼拝し、天皇への忠誠を誓っていました。
 当時の歴史書では、日本書紀に記された神武天皇即位の年(西暦紀元前六六〇年)を元年とし、一九四〇年(昭和十五)は、紀元二六〇〇年に当たることから大々的な記念行事が行われ、翌年からは学校の呼称も尋常高等小学校から国民学校に改められました。そしてこの年十二月には太平洋戦争へと突入していきます。
 こうした状況の中で、国民学校五年生になった一九四三年(昭和十八)ころから私は陸軍幼年学校に入ることを志し、軍人として天皇のため、お国のために一命を捧げる覚悟でいました。当時は、学校の教科書を始め『少年倶楽部』などの少年向けの月刊誌などにも、軍隊の活躍やドイツの「ヒトラー・ユーゲント」(ナチス青年隊)の活動状況などが紹介され、幼い子供たちは今でいう「マインド・コントロール」によって死ぬことに何の恐怖も感じませんでした。
 戦争が激しくなった一九四三年から読谷山(北)飛行場の建設が本格化し、読谷山国民学校は飛行場建設のための徴用工たちの飯場になったり、飛行場が完成すると守備隊が駐留、周辺には高射砲が据えられ、校舎は完全に接収されました。そのため一九四四年(昭和十九)には、喜名分教場や近くの字事務所などに分散して授業を受ける状況になっていました。
 さらにサイパンが「玉砕」し、戦況が緊迫してくると授業は午前中で打ち切られ、午後からは飛行場守備隊の防空壕や掩体壕、散兵壕掘りに動員される毎日でした。

人間爆弾「桜花」

 北飛行場には、隼戦闘機を中心とする陸軍航空隊が配備され、周辺には陸軍の山部隊と球部隊、海軍部隊などが守備隊として配置されていました。
 親志には、航空隊の燃料庫や弾薬庫などがあり、魚雷や人間爆弾「桜花(おうか)」などもありました。グシチャンアジマー(部落入口の交差点)から喜名向けに行くと右手に嘉手苅さんの家がありましたが、その裏側に魚雷などの信管を装填する弾薬処理場がありました。比謝矼には海軍の特殊潜行艇(人間魚雷といわれた)も配置されていましたが、これもここで信管の装填などが行われていました。
 職業軍人を夢見ていた私は、家でとれたバナナ、ミカンなどの果物やイモなどをもって部隊を訪れ、いろいろと軍隊生活や戦争の話を聞いたりしていました。折目(ウユミ)など沖縄の年中行事のときには、家に招いて食事を上げたりして親しくしていた兵士が何人かいました。
 通学路のそばにあった戦闘機の駐機場にも出入りして航空兵とも親しくなり、隼戦闘機に触れたりしました。航空隊は、毎日飛行場の上空で空中戦の訓練をしていましたが、「きょうは、木の葉落としを見せてやる」といって、上空から地上に機体を左右に揺らしながら真っ逆様に落ちる高度な技術を披露してくれたこともありました。陸軍の隼戦闘機は、海軍の零戦とともに当時の世界最強の戦闘機といわれ、すぐれた設計と飛行士の技術は対戦国の脅威となっていました。
 こうしたある日、当時最高機密と言われていた人間爆弾「桜花」の存在を知りました。
 私と親しくしていた兵士から「あれは人間爆弾だ」と教えたもらったものは、小型のロケット状のものでエンジンがなく、胴体の側面に桜のマークと「桜花」と書かれ、飛行機に装着して敵艦の上空まで行き、そこで切り離し、搭乗者が操縦して艦船に突っ込むということでした。
 しかし、一九四四年(昭和十九)十月十日の米軍の空襲で航空機のほとんどを失った日本軍は、制空権も米軍に握られ、「桜花」は一度も実戦に使われることはなかったのではないかと思います。戦後、高校に通っていた頃、学校の近くの米軍基地で貰った米国の雑誌で「桜花」を紹介した写真が掲載されているのを見ました。写真説明には「BAKA・BOMB」(馬鹿爆弾)とあったのを忘れることができません。

十・十空襲

 一九四四年(昭和十九)にサイパンが「玉砕」し、戦況はいよいよ厳しくなってくると「国家総動員法」によって、成年男子は軍隊に召集されるか、防衛隊員あるいは徴用工として駆り出されていきました。叔父の※※(三男)も防衛隊として駆り出され、島尻で戦死しています。三八世帯、二〇〇人足らずの親志でも、出征兵士の壮行会、防衛隊員の送り出しが頻繁になり、軍隊に召集されなくても、徴用工として働けるものは皆駆り出されていきました。
 さらに、非常事態に備えた米、イモなどの食糧の供出、貴金属や鉄などの供出が進められ、否応なしに戦争への緊迫感が漂っていました。この年政府は、次世代の子供を戦火から守るということで学童疎開の命令を出しました。私も先生から本土に疎開するよう勧められましたが、沖縄が戦場になると一命をなげうっても戦う、と断りました。
 そのとき乗る予定だった船が奄美大島の悪石島沖で米軍に撃沈された対馬丸でした。
 婦人会や児童会でも防空演習をくり返す毎日が続きました。国民学校初等科の最上級生で軍人志望だった私は、児童会を統率して竹槍訓練、緊急時の伝令の仕方などを教えていました。また、「鬼畜米英」は毒ガスを使用することもあるというので、木炭の粉を使った防毒マスクの作り方や使い方などを習ってきて指導したりしていました。
 こうした中で、一九四四年(昭和十九)十月十日に初めての米軍機による空襲がありました。午前七時過ぎにグラマン、カーチスという艦載機を中心とした米軍機が突然北飛行場を襲って来ました。飛行場めがけて爆弾を落とすとともに焼夷弾をばらまいたのです。焼夷弾はあたかもビラのように無数にひらひらと降ってきました。初めのうちは、日本軍の演習だと思って見ていたのですが、そのうちに飛行場ですさまじい爆発音と黒煙が立ち上がり、応戦する守備隊の高射砲や機関砲が火を噴き、初めて空襲だと認識しました。
 飛行雲を引きながら上空から爆弾を投ずる爆撃機と超低空での機関砲を発射する戦闘機と、巧みな攻撃でした。とくに低空で攻撃する戦闘機の操縦士は、天蓋を開けて外を覗くほどのゆとりがあり、白い長いマフラーが風になびくのが印象的で「敵ながらかっこいい」と感じたことを今も思い出します。この空襲で、南(那覇)、中(北谷・屋良)、北(読谷)の各飛行場に駐留した飛行機は飛び立って応戦する間もないままほとんどが破壊されてしまいました。空襲は、私たちに大きな衝撃を与えました。読谷山岳(クールーダケ)には電波探信儀(レーダー)がありましたが、米軍機を探知できなかったようです。

父と米の備蓄

 成人男子が次々軍隊、防衛隊に駆り出される中、父は区長をしていたために徴用を免れました。しかし、労務の提供、物品の調達と戦時体制の中で字人たちをまとめていくのに苦労していました。当時作った米はほとんど供出し、代わって毎月一定量の米の配給を受けていました。その米を受け取り、保存し、配るのは区長の仕事でした。親志の配給米はおよそ一五俵程度備蓄されていましたが、空襲が激しくなってくるとこれを確保するのも大変でした。焼失してしまうと区民全体が飢えてしまうので、空襲がいかに激しくても父は防空壕にも入らず、米俵のそばにいました。
 一九四五年(昭和二十)になると、読谷山村以南の各市町村住民に国頭郡への避難命令が出されました。読谷山村民も国頭村への避難命令が出され、父は年寄りや母子所帯を優先して避難を進めましたが、配給米を保管するわが家は、最後に行くことにしていました。
 そんなある日、わが家に米軍機からロケット弾が二発打ち込まれ、家畜小屋を直撃、家畜もろとも吹っ飛んでしまい、母屋の板壁も壊れ、柱の真ん中を破片が貫通するという被害を受けました。私たち家族は、家から三〇〇メートルほど離れた小川の岸に横穴を掘り、空襲があると直ちに避難していました。この防空壕は、叔父、叔母の家族を加え、二〇人ほどが避難、生活できるように掘ってありました。この日は、朝から激しい空襲のくり返しで、家族は壕から一歩も出られないまま、不安のうちに時間を過ごしていました。
 午後三時過ぎ、米軍機が何度も家の上空を旋回しているので、不安になった父は、やっと防空壕に避難してきました。それから小半時も経たないうちに、家の方で大きな爆発音が聞こえました。日が暮れ、空襲が終わり、家に帰ってきて爆撃の威力を知りました。破片が貫通した柱は、父が防空壕に避難する直前まで、背をもたれていた柱であり、命拾いしたと言うほかありません。
 ところでわが家は、親志の集落から二キロ以上離れた山中に三軒があるというへんぴな場所にあり、何故うちがねらい撃ちにされたのか、いま考えても理解できないものがあります。区長の家で食糧が保管されていると知っていたためなのか、あるいはそれより前の空襲のときに低空で飛行場めがけてとんでいく米軍機に、たまたま遊びに来ていた兵隊が小銃を発射したためなのか疑問は募るばかりです。

米軍上陸

 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、国民学校卒業式の日の朝、出校する準備をしているところで空襲が始まりました。これまでの空襲は一日単位で、時間も短時間で終わっていました。しかし、この日以降空襲は切れ間がなく、連日終日続くようになりました。米軍は、「サイパンの次は台湾攻略」というのが当時の軍部の見方でした。そのため、沖縄駐留の部隊の中でも精鋭部隊といわれた武部隊が沖縄から台湾に移駐していったのです。だから米艦隊が近海に来ているとは夢にも思っていませんでした。仮に米艦隊が近づいてきても「神風」が吹き、米軍は直ちに退散すると誰もが信じていました。
 四月一日の夕刻、防空壕の中で夕食を済ませたところへ、喜名在住の飛行場守備隊の伊藤軍曹(山形県出身)が防空壕まで馬で駆けつけ、「米軍が渡具知に上陸した」と知らせてくれました。伊藤軍曹は、「間もなく親志の北側にある燃料庫に火をつけ、われわれも南部に撤退する。燃料庫が爆破される前に多幸山を過ぎるように」といい、直ちに北部に避難するようにと言って帰っていきました。青天の霹靂で、私たちはパニックに陥りました。一緒にいた二〇人は、持てるだけの食糧と衣類だけをもって暗闇の中で国頭村をめざすことになりました。しかし、当時伯母の舅で八十三歳のおじいさんは、足が悪くとても歩けないので一人残るというので、仕方なくおにぎりを一〇個ほど作っておき、壕に残すことになりました。戦争とはこれほど非情なものかと幼い心に突き刺さりました。
 県道に出て、親志を過ぎ、多幸山にさしかかった頃、伊藤軍曹が話していたように名嘉山小(ナカヤマグヮー)の裏手の弾薬庫にあった燃料タンクが爆破され、空を焦がして燃え上がりました。そのとき、初めて米軍の上陸は事実だと認識し、不安に包まれました。
 ところが、山田にさしかかった頃、暗闇の中を伊藤軍曹が馬で追いかけてきて、「米軍を撃退した。戻って必要なものを持っていった方がいい」といってくれました。米軍を撃退したと聞いて、元気が出ました。そのとき伊藤軍曹は、「僕は軍人として潔く戦い、戦死したことを君が家族に伝えて欲しい」といって写真と住所を書いた紙を託して去っていきました。伊藤軍曹の度重なる厚意に感謝し、私たちは山田の親戚に荷物を預けて、食料などをとりに家に戻ることにしました。ところが親戚の家は、誰もおらず、部落にも人影はありませんでした。仕方なく、われわれは野宿することにし、県道沿いの畑のそばに小さな防空壕を見つけ、ひとまず休むことにしました。そこで年寄りや子供が荷物の番をし、大人たちは食糧や衣類、生活用品を取りに家に戻ることにしました。
 一里あまりの道を三往復して、夜明け前には一応生活に必要な物を運び出しました。
 昼間は、米軍の空襲が激しいので道路を歩くことはできませんでした。私たちは、小さな横穴の壕に十数人が息を殺して、一日を過ごしました。日が暮れ、米軍の空襲が終わるのを待って私たちは、避難先の国頭村をめざすことにしました。まず、年寄りと子供を二手に分け、一方が先遣隊とともに荷物を持って国頭に向かい、一方は残って荷物の番をする。先遣隊は、恩納村谷茶まで進み、適当な野宿の場所を見つけると、山田にとって返し、残った荷物を持って戻るようにしたのです。
 米軍は、暗くなると空襲はやめたが、艦砲射撃は夜も続けていました。激しい砲音とともに、曳光弾が光の矢のように陸地をめざして撃ち込まれ、恐怖を駆り立てました。
 途中の集落は、どこも明かりを消し、人影はありませんでした。恩納村役場から万座毛にかけては、焼夷弾攻撃を受けたのでしょう、火がくすぶっていました。集落は米軍の空襲の標的になる恐れがあるので、集落を離れた海岸のアダン林の中に荷物を置き、そこを隠れ場所にして、昼間を過ごすことにしました。
 翌日夜明けとともに米軍は空と海から一斉に攻撃を開始しました。海岸に出て、沖を見ると米軍の艦船がまるで鎖で繋いだように並び、中南部に向けて激しい艦砲射撃をくり返していました。おびただしい艦船の数に、度肝を抜かれ、いよいよ迫る地上戦に生命の危機を感じ始めていました。同時に、日本は「神の国」であり、必ず「神風」が吹き、米艦隊を海の藻屑にすると信じていました。
 私たちの家族には、字古堅や嘉手納から空襲を避けて避難してきた伯母たちの家族も同行していました。従兄弟に県立農林学校三年と一年生がおり、彼らは鉄血勤皇隊員としての動員命令を受け、四月一日に首里に集結することになっていました。二人は、家族を離れ、首里に行くと主張していましたが、伯母たちが国頭まで家族を疎開させた上で行くよう説得し、同行することになりました。

山中逃避行

 このようにして、夜の逃避行を続けて一週間後の深夜、国頭村奥間に到着した私たちは、奥間の区長の案内で比地川の下流「クスノキ山」と呼ばれる林の中に案内されました。
 川のそばの広場には、避難してきた大勢の読谷山村民が野宿をしていました。三月以前に疎開した人たちは、国頭村内の農家の納屋などに住んでいましたが、米軍の上陸直前に逃げてきた人たちには、空き家はなくこうした広場で過ごすしかありませんでした。しかも、ほとんどが着の身着のままで逃げてきた人たちでした。
 このころ、中南部では激しい戦闘が繰り広げられ、後に「鉄の暴風」と表現される陸、海、空からの米軍の激しい砲撃が吹き荒れていたのですが、北部の山の中はたまに米軍の偵察飛行がある程度で、地上戦が展開されているという実感はありませんでした。比地川の清らかな水と山の新緑が、一週間にわたる夜間の逃避行で疲れた身体を癒してくれました。子供たちは、ピクニック気分で川で水浴びをしたり、川のほとりにある大きなグミの木の実が早く熟れないかなと眺めていました。
 国頭の山の中では、戦場の情報は全く入らず、大人たちもそう長い期間避難生活が続くとは思っておらず、露天に寝るという生活を続けていました。しかし、一週間が過ぎた頃には本部(もとぶ)の嘉津宇岳で戦闘が展開されているなど、戦闘が身近に迫っているとの情報が入ってきました。雨期が近づいてきたこともあって、私たちは山の中腹に掘っ建て小屋を建てて移りました。
 初めのうちは、奥間の農家からイモや野菜などの食糧を譲ってもらっていましたが、時が経つにつれて、避難民の中には無断で農作物を取っていくのが現れたりして、奥間の人たちと避難民との間には険悪な空気がみなぎるようになり、食糧の調達も思うようにいかなくなりました。
 従妹に一歳の誕生日を迎えたばかりの女の子がいました。栄養不良になった母親の母乳が出ず困りました。私たちは、彼女のために毎日川にでて蛙を捕まえ、そのもも肉を焼いて彼女にあげていました。
 そのうち、国頭村にも米軍がきたとの情報が入り、私たちはさらに山奥に移動しては、小屋を造って住んでいました。しかし、四度目の小屋を建てた頃、山の尾根に上ってみると、県道を米軍のジープやトラックが走っているのが目に入りました。パニックに陥った私たちは、小屋を捨ててさらに山奥へと避難。以来二か月余にわたり、野宿生活が続きました。
 南部の友軍(日本軍)が反撃に出て、米軍を追いつめているといった情報があり、避難民は南部を目指せという話が流れ、私たちは山中を南部目指して進むことにしました。
 山の中にも時折艦砲弾の着弾があり、ときには機関銃や小銃の音も聞こえたりして、戦いが身近に迫っていることを感じました。持参した食糧は、底をつき一日おにぎり一個か二個で過ごさなければならず、お腹が空くとイタジイの実を拾って焼いて食べる状態でした。

友軍に追われる防衛隊

 このようにして、東村の山中を南部に向けて進んでいるとき、祖母が高熱を出してしまいました。通り過ぎたばかりの山の尾根では、米軍の銃声が響き、米軍が迫っている時で、周辺の人たちは一目散に南に向けて逃げていきました。前に進めなくなった私たちは、谷間の方に移動、川沿いの茂みの中に身を潜めて、夜を待つことにしました。依然として背後で銃声が聞こえ、誰もがこれが最後という思いに沈んでいたとき、私たちの目の前を軍服姿の兵隊が脱兎のごとく逃げていきました。米軍が身近に迫ったと思い、もう最後だと皆黙り込んでいました。重苦しい空気から逃れようと私は、かさばって持ち運びが面倒になり、捨てることになった柳行李をほどき始めました。そのとき、父が大声で「やめろ」と怒鳴りました。私は、捨てるものを壊してなぜ怒られるのか意味がわからなかったのですが、父の剣幕に押されやめました。後で聞いたのですが、父は祖母の最悪の場合を考え柳行李を棺桶に使うことを考えていたようです。
 皆がおびえて沈黙の小半時が経ったころ、先ほど逃げていった兵隊が戻ってきました。その人は、恩納村出身の防衛隊員で、日本兵にスパイ容疑で追われているということでした。米軍も山狩りをしているが、まだここから離れた位置にいると説明してくれました。しかし、敗残兵となった日本兵は、山中で避難民の食糧を略奪したり、従軍看護婦を手込めにするなどひどいことをしており、それを咎めた彼は日本軍の将校に軍刀で殺されかかったというのです。彼は、とっさに自殺用に残しておいた手榴弾を握り、「死ぬなら一緒だ」と叫び、相手がひるんだ隙に逃げてきたそうです。「彼らは、ここにも来るかも知れない」と言うので、私たちは彼の軍服を脱がし、母の芭蕉布の着物を着せました。私たちは、見張りをおいて日本兵が来るのを警戒していました。
 兵隊がきたとの合図を受けた私たちは、その防衛隊員を伏させて先ほどの柳行李のふたをかぶせ、その上に私と従兄弟が腰をかけ、荷物と見せかけました。抜刀した将校と三人の兵隊がやってきて「スパイを追っているがここに来なかったか」と聞いてきました。私たちは、誰も通っていないといい、「戦闘ご苦労さんです」といって黒砂糖の塊を差し出しました。兵隊は、「スパイは防衛隊の服装をしているので、発見したら軍に連絡するように」と言い残して去っていきました。
 山中でも戦況が緊迫しているのを感じた私たちは、一時でも早くここを立ち去らなければならないと思い、その防衛隊員に同行を求めました。彼も、見つかれば「今度こそ命はない」と同意し、防衛隊の服と手榴弾を土に埋めました。そこで、父が祖母を背負い、父が持っていた米を彼に運んでもらうことにしました。
 私たちは、ほとんど山中をさまよっていたのですが、東村安部では部落内の道路を横切らなければなりませんでした。夜の闇に紛れて道路を横切り田圃のあぜ道を通って行ったのですが、米軍の陣地が近くにあったのでしょう、突然照明弾が十数発打ち上げられ、難民に向けて銃撃が加えられました。このことは、米軍が沖縄のいたるところに攻め入り、占領状態にあることを認識させました。同時に、戦争は兵隊同士が戦うものではなく、民間人も標的になることを思い知らされました。
 一か月余り山中を逃げまどっている間に、持参した米はなくなり、私たちは、クバの木の芯やツワブキの茎などを食べるなどして飢えをしのいでいました。おなかをすかした従妹が泣き出したりすると、周辺から「赤ん坊のためにわれわれまで殺さすつもりか」と怒鳴られ、なかには「赤ん坊を殺せ」と叫ぶ者までいました。そのため、私たちはいつも集団から離れて、家族だけで行動することにしました。
 「南部は安全」ということで、せっかく疎開した国頭村から南下を始めたのですが、南に向かうに連れて、逆に状況は厳しくなっていました。東村を過ぎて久志村に入った頃になると、山中にも米軍がピアノ線を張り巡らし、これに触れると攻撃されるという噂が流れ、山中も安全ではなくなってきていました。
 そんなある夜、昼間潜んでいた川辺から山越えして行くことになったのですが、ヤンバルダケの茂みを登り、尾根にさしかかったとき先頭の人がピアノ線に触れてしまいました。反対側の尾根から照明弾が打ち上げられ、軍用犬が吠え、機関銃による一斉射撃を受けました。私たちは、滑り落ちるように再び川の方に向かって逃げました。
 そのとき、親戚の八十歳になるおばあさんが取り残されましたが、家族は引き返して連れ戻すことができず、戦争が終わった後、遺族が遺骨を拾ってきたと聞きました。

父、米軍に捕まる

 国頭村の山中から同行してきた防衛隊員は、故郷の恩納村が近づくと家族のもとに行くことになり、私たちと別れました。彼は、無事戦争を生き抜き、戦後貸してあげた母の着物を返しに来てくれました。
 久志村に入ると、私たちの周辺にも米軍の山狩り(敗残兵狩り)部隊が、出没するようになり、昼間は藪の中に身を潜めておくほかはありませんでした。移動は、もっぱら夜で、昼間に父が移動する安全なルートを探して目印を付け、夜間にそれを頼りに移動するという方法をとっていました。そんなある日、父とともにルート探しに出かけた人が、「米軍がいた」と言って息を切らせて戻ってきました。
 その人の話だと、川沿いに下り、川が分岐したので右と左に分かれて行ったところ、父が進んだ方向で銃声がしたので逃げ帰ってきたというのでした。私たちは、不安のまま父の帰りを待ちましたが、いっこうに帰ってきません。一緒にいた親戚の家族は、ここは危ないと早々に避難場所を変えたのですが、私たちは、二、三日とどまって父を待つことにしました。また、私たちの家族だけが取り残されることになったのです。でも、父は戻ってきませんでした。私たちは、父は米軍に殺されたものと思い、移動することにしました。
 私たちは、父が通ったという川を下って移動しました。川の中を夜通し歩き、のどが渇くと岸に近い川の水を飲んでいました。朝目が覚めて川上を見ると、米軍に殺害された日本兵の死体が浮いているということもありました。それでも私たちは、川の水を飲むほかありませんでした。このころになると、人間の死体がいたるところに転がっており、死体を見ても何も感じなくなっていました。なかには、羽二重(はぶたえ)の布団を二、三枚を目の前にしたおばあさんが「この布団を上げるからお握りをください」と哀願しているのも見ました。でも、人々は見向きもせずに急ぎ足で通り過ぎるだけでした。
 父は不明になってから一週間ほど経って、私たちの隠れ場所に戻ってきました。金武村中川(現在は宜野座村)の近くの山中でした。死んだものと思っていた私たちは、歓喜しました。父は、あの時山狩りをしていた米兵と遭遇、そのまま金武の捕虜収容所に連れて行かれたそうです。
 帰ってきた父は、いきなり「戦争は南部の一部でまだ続いているが、日本は負けたようだ。金武の収容所には、各地から集められた住民が米軍の保護のもとに暮らしている。」「松村の伯母の家族も元気でいた。読谷の壕に残してきたおじいさん(伯母の舅)も元気だ。米軍は住民には危害は加えない」と説明、白旗を掲げて歩けば保護されるので、投降しようと勧めました。しかし、私たちは誰も父の言葉を信じませんでした。

特攻兵

 父が米軍に捕まった後戻ったことで私たちは、戦況や里の状況がかなり分かるようになりました。とくに里は米軍が支配し、ここから先に進むことは危険だと認識し、現在の場所でしばらく身を隠すことにしました。でも、小屋などを造ると米軍に見つかる恐れがあるので、川辺の藪の中に水鳥の巣のようにカヤを敷き詰めて寝起きをしていました。当時は、ちょうど雨期で連日雨に見舞われましたが、私たちは畳二枚ほどのテント地の布を張って身を寄せ合っていました。マッチも水に濡れて使い物にならないので、火打ち石で火を起こしていました。持ち出した食糧は、とっくに無くなり、もっぱら野草や木の実あるいはヘゴの芯などを採集して食する原始人のような生活でした。
 中川は、戦争中の食糧増産のため国が進めた開拓地で、中南部の人たちが移住して農業をしていました。しかし、そのころ開拓者はすべて米軍によって宜野座の収容所に収容されて、空き家になっていました。ある日開拓地の畑にイモや大豆が残っているのを発見しました。私たちは、米軍の銃声が近くにないときは、谷間から尾根の開拓地に行き、これを失敬し、飢えをしのいでいました。
 食事はほとんどが開拓者の畑から取ってきた大豆でしたが、みそはもちろん塩もないので、米軍のキャンプ地を避けながら海に行き、潮水を汲んできて味付けをしていました。
 そんなある日、従兄たちと三人で食料を調達しての帰り道、山の尾根を歩いているときツナギの服を着たのっぽの兵士と鉢合わせしました。とっさに谷に向けて滑り落ちると、相手も反対側の谷間に逃げ込んだのです。おかしいと思い、匍匐して元の尾根に戻ると相手も同じように匍匐して戻ってきました。よく見ると日本の航空兵でした。互いに相手を確認するとほっとして立ち上がり、握手をしました。彼は、特攻隊として沖縄に来たが、本部(もとぶ)の沖で敵機に撃墜されたとのことでした。彼は、軍刀のほかに十数個の手榴弾を腰のまわりにつけ、「今夜、宜野座の米軍キャンプに斬り込む」といいました。その話を聞いて、私たちは一緒に行くことを決め、航空兵から一個ずつ手榴弾をもらい、腹ごしらえをして夜を待つことにし、家族のもとに帰りました。話を聞いた母は、驚き、怒り、そして泣いて私たちを止めました。その様子を見ていた特攻隊員は、「君たちにはまた機会があるはずだ。武器も少ない。今日は、俺一人で行く」といい、母が用意した大豆の食事をして去っていきました。

米軍に投降

 梅雨がひどくなり、野宿がつらくなりだしたので、私たちは、これまで意識的に避けてきた中川開拓地の空き家に移り雨をしのぐことにしました。完全な家を避け、しかも傾きかけた人が住みそうにない家を探して、留まることにしました。
 山中を逃げ回って二か月余り、久しぶりに屋根の下に寝ることができました。父は、近くの畑から取ってきた大豆のさやから豆を取り出すという生活を続けていました。案の定、梅雨の晴れ間が二、三日続いたある日、銃を構えた十数人の米兵が私たちの隠れ家にやってきました。彼らは、私たちに銃を向けたまま、家のまわりを一回りし、一言も言葉を発せずに去っていきました。私たちは、いつ銃が火を噴くか、不安で、ただ黙ってひとかたまりになって見守っていました。まったく生きた心地がしませんでした。そのころ、「米軍は男はすぐに殺す」という噂があったので、従兄弟をはじめ男は女の着物を着てごまかし、女は顔に泥や墨を塗り、醜く見せていました。
 その後は、いつまた米兵が来て殺されるか分からず、不安な毎日でした。それから数日が過ぎたある日ついに米兵に見つかり、大久保にあった収容所に連行されることになりました。

収容所生活

 宜野座には、国民学校に米軍の駐屯本部があり、その周辺に難民収容所がありました。収容所に着くと、身分確認が行われ、十四歳以上の男性とその他に振り分けられました。十四歳以上の男性は、金網で囲われた収容所のほぼ真ん中にさらに二重の金網があり、その中に収容されました。その他の人たちは、軍用の丸テントの中に、二十数人が押し込められ、夜寝るときは寝返りもできない状態でした。ここの難民は、ほとんどが首里や知念村、玉城村からの避難者や戦争中に南部で収容されて連れてこられた人たちで、読谷の出身者はほとんどいませんでした。
 収容所では、一日三回、おにぎり一個と空き缶一杯のおつゆが配られるだけでした。
 二重の金網に入れられた男性は、読谷や嘉手納飛行場の基地整備や、戦死者の遺体収容などに駆り出されていました。また、看護婦だった次女の※※は、収容所に入ると同時に呼び出され、惣慶にあった米軍の野戦病院で働かされました。長女も看護助手として、呼び出されましたがその仕事は、傷ついた日本兵の傷口にたかる蛆を取り除くことでした。こうした労働に対しては、一個か二個余分のおにぎりが支給されていましたが、長女は一日でやめてしまいました。
 たまたま、大久保の浜の近くに祖母の遠縁の人が住んでいるのが分かり、母はそこで大きな鍋を借り、塩水をくんできて一日煮詰めて食塩を作り、これでイモや野菜などの食料と交換したりしていました。
 米軍は、伝染病予防のため、毎日収容所の上空や近くの川の上にセスナ機でDDTを散布していましたが、トイレは、広場に細長い穴を何条か掘り、ソテツの葉を周辺に立てただけのもので、三日程度で一杯になると、別の所に穴を掘るというもので、とにかく生活環境は劣悪でした。
 収容されたとき、二重の金網に入れられることを避けるため、私は年齢を三歳ごまかして申告したため、収容所に学校が開設されると三級下の小学校五年生に編入させられました。成長盛りの子供たちは、いつも腹を空かして、ときには農家のイモ畑からイモを失敬してかじることもあり、それが原因で地元と難民の子供の間で喧嘩が絶えませんでした。米軍キャンプの周辺には、機関銃の弾や手榴弾などもごろごろしており、これを玩具にしたり、川に手榴弾を投げて魚を捕るなど危険な遊びをしていました。
 お腹を空かした子供たちは、米軍キャンプに近づき、「ワッシュ、ワッシュ」と声をかけ、軍服などの洗濯物を受け取り、川に行って洗濯し、ガムやチョコレート、缶詰などを貰ったりしていました。
 そのうち、名護や恩納などの米軍のゴミ捨て場には、缶詰などの食料品が沢山あるというので、私も友達数人と密かに金網をくぐり抜け、山越えして恩納まで行ったことがあります。山中には、まだ日本軍が残っていたのでしょう、米軍が山狩りをしていました。彼らは、子供が山中を歩いてもどうもせず、ガムなどを与えていました。当時米兵は、子供を見るとトラックの上からよく「バッド・トウジョウ」(東条の悪者)と叫び、これをまねるとお菓子をくれていました。私たちは、米兵の集団と出会うたびに「バッド・トウジョウ」といっていました。「鬼畜米英」が「バッド・トウジョウ」に変わっていました。
 半日かけて、命がけで山越えしてきたものの、恩納では食料を手に入れることはできませんでした。やむなく野菜代わりになるイモのツルを一抱え、肩に乗せて帰ることにしました。途中の山中で米軍の動きがおかしいので、ひるんでいると銃を向けて「早く行け」と身振りで私たちを追い立てました。走ってその場を逃れ、しばらくして振り向くと、二十歳ぐらいの娘とその母親らしい人が口を押さえられ、数人の米兵に茂みの中に連れ込まれるのが目に入りました。しかし、私たちにはどうすることもできません。私たちは、ただ黙々と急ぎ足で逃げるほかありませんでした。あの母娘は、その後生き延びたか死んだのか、今でも気がかりです。そして、米兵の暴行事件があるたびに、あの光景が鮮やかに蘇ってきます。
 沖縄での組織的な戦闘が終結した六月末から七月のはじめ頃、二重金網の中に収容されて労働させられていた男性も解放され、家族と生活するようになりました。炊き出しによる食糧支給もなくなり、米や缶詰などの配給があり、各家庭で食事を作るようになりましたが、宜野座の食糧事情はよくありませんでした。
 石川にいた親戚や読谷出身者の話では、石川は十分な食糧の配給があるということでした。しかし、当時収容所間の移動は禁じられていました。そこで私たちは、石川にいる親戚からの呼び寄せの申請を出してもらい、ようやく石川への移動が認められ、一九四五年(昭和二十)の年の瀬も押し迫った十二月末に大久保の収容所を出て石川に向かいました。
 移動証明書を手にした私たちは、早朝に大久保を発ち、夜遅く石川に到着しました。石川には、親戚や親志の人たちも大勢おり、それに読谷山岳を隔てて古里読谷があると思うだけで嬉しさが込み上げてきました。
 石川は、当時沖縄の民政の中心となっていたせいか、配給物資も宜野座に比べると多かったような気がします。また、石川では、軍作業などへの動員があり、働くとタバコや食料品などの支給があったようです。それに「戦果」と称し、米軍物資を隠して持ち帰ることもできたようで、宜野座と比べてはるかに物資は豊富でした。
 しかし、戦前の一部落に過ぎなかった石川に、三万人を越す人たちが収容されていたので、住宅事情は同じく劣悪で、私たちが割り当てられたのは、米軍テントで、すでに入っていた三所帯のなかに割り込む形で、四〇人ほどが一つのテントで暮らすことになりました。

読谷へ

 一九四六年八月になってようやく読谷の一部が開放されるようになり、各地に散らばっている村民は、ふるさとに帰れるようになりました。村民は村建設隊を結成し、みんなで力を合わせて戦災で荒れ果てた村の復興に取り組みました。しかし、親志は米軍の弾薬庫になっていて自分の土地、家に帰ることはできませんでした。親志の人たちは、高志保や波平などに仮住まいするよう割り当てがありました。
 わが家も、まず高志保に転居することになり、焼け残った自宅の木材や米軍の廃材などを集めて小さな家を建てて移りました。読谷に引っ越すと高校はコザ高校の校区になり、転校しなければなりませんでした。当時はバスなどの公共交通機関はなく、米軍の車を止めて乗せてもらうという方法しかありませんでした。したがって高校に通うには、コザに下宿するほかありませんでした。私は、伯母が石川に残ることになったので、そこに下宿することになり、一人石川に残りました。その後、一九四九年に読谷にコザ高校の分校(現在の読谷高校の前身)ができましたが、私は卒業間際だったこともあってそのまま石川に留まることにしました。以来読谷に住んだことはなく、村民と言うには後ろめたさもあるのですが、読谷で生まれ、少年時代を過ごしたことをずっと誇りに思っています。
 親志は、戦後五十数年が過ぎた今でも米軍基地として接収され、一人として自分の土地に帰ることはできません。わが家は、高志保に移って間もなく、今度は波平に移されることになりました。しかし、そこも長くは住めず再び座喜味に移ることになりました。ここで初めて、戦前の親志の人たちが集まり、集落を復活させることができ、現在まで続いております。当初は、親志に最も近い現在の国道五十八号(当時は軍用道路一号線と呼ばれた)に面する村有地が割り当てられたのですが、軍用道路沿いは米軍の女性への暴行など治安面で不安ということで、主要道路から奥に入った現在地に変更して住むことになりました。
 当時は、誰もがこの地は仮の住まいで、それほど遠くない時期に自分の土地に帰れるものと信じていたのですが、現在でも親志は全体が米軍の基地として使用され、自分の土地に戻れません。戦争のために財産を奪われた親志の人たちにとって戦後はまだ終わらないのです。
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