第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


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対馬丸の遭難を乗り越えて

喜友名※※(旧姓大城・波平)昭和十一年生

県外疎開へ

 一九四四年(昭和十九)当時の私の家族は祖父母と父母、私、弟二人の七人家族でした。どういう経過があったかははっきり分からないのですが、概ね次のような事情から母と弟二人とともに疎開することになりました。
 当時、私が七歳(小学二年生)、弟たちは五歳と三歳で母は三十一歳でした。父は若い頃応召したことがあって、その時に右手の人差し指をけがして帰還してきました。でも、軍隊で習ったんでしょうか、父は運転免許証をもっていたために軍属として沖縄に残って仕事をすることになりました。父は軍隊生活のなかで、戦場がどんなに恐ろしいものであるのかを知っていて、沖縄に居ては危ないから安全なところに避難しなさいということで私たちを疎開させることにしたのですが、母の実家(※※)では猛反対で絶対に疎開してはいけない、と何度も母を説得したそうです。でも、母は父との相談で決めたことを実行する道を選びました。母にしてみれば私が行かなければ弟たちの面倒を見る者がいなくなって、仕事をしようにもできないという思いがあったようです。母は工場で働いて、私たちの生活費を稼ぐつもりでした。
 学童疎開は小学校(当時は国民学校初等科)三年生以上が対象でしたから、私たちは「一般疎開」をしたことになります。どんな船に乗るのか船名などは、ほとんど知らない状況でした。「対馬丸」だったということも戦後知りました。
 一九四四年(昭和十九)八月十九日、夜明けと共に馬車で「軽便鉄道」の嘉手納駅にいき、そこから那覇までは汽車に乗って行きました。父も一緒でしたから、私たちは大はしゃぎでした。那覇では出港を待つために港の旅館で二泊しました。二十一日になって船に乗り込むことになりました。まだ太陽があって、明るかったので昼の時間だったと思います。その船は沖に停泊していて、桟橋からはしけが出て何度も往復していました。大きな船に乗り移って船室に入ると、むっとする臭気がしてとても汚く、すぐに気分が悪くなるほどでした。よく見るとサトウキビの枯れた下葉が敷き詰められていて、山羊小屋のようでしたので、子ども心にも「こんな所に」とうんざりしてしまいました。
 寝具などあるはずもなく、雑魚寝で一晩を過ごしたのです。船って、こんなものだろうか、来るんじゃなかったと思いました。食べ物も臭くて、汚れたバケツのようなものに入れられてきたのですが、臭いを嗅いだ瞬間に吐き出してしまうほどで、とにかくひどい状態でした。

対馬丸の沈没そして漂流

 船室で一夜を過ごした午後、私たち親子四人は誰もいない甲板に出ました。外で風にあたった方がよいと母が考えたのか、ほかに理由があったのか分かりません。しばらくすると母は、「もし何かあったら大変だから」と四角い布で縫ったお守りを取り出し、その中に紙幣一枚ずつを入れて、私と弟たちの首から下げたのです。「何かあったら使いなさい」と言いました。私はそれを貰って嬉しくもあるし、悲しくもあるし、何か不安な気持ちに襲われていました。次第に暮れていき、風も冷たくなったので、母は備え付けの救命胴衣を私と弟に着けさせ、一番下の弟をおんぶして、そして私たちを抱きかかえるようにして甲板から動きませんでした。
 日が暮れて、潮風がますます冷たくなって眠たくもなってきたのですが、心の中では「何故ここにいるのだろう」と思っていました。母は「大丈夫だから」と何度も繰り返すのです。私は「大丈夫だったら、どうして寒い思いをしてここに座っているんだろう」と思っていました。さらに、お守りをくれたときの母の言葉がずっと気になっていました。母は「もし何かあったら、このお金を使いなさい。一緒だったらね、お母さんが見てあげられるけれども、もし何かあったら、自分達で自由に使っていいからね」と言ったのです。私は「なぜ、そんなことを言うのだろう」と暗闇の甲板で考えていました。その後起こったことを考えると、母は虫の知らせで何かを感じていたのかとずっと思い続けているのです。
対馬丸
画像
 真夜中近く、うつらうつらしていると突然「ドカーン!」というすごい音と共に船はグラッと大きく揺れました。外は暗くてよく見えなかったのですが、煙突だったのか何かが二つに割れ、火の粉がパリッパリッと飛び散りました。それが私たちに降りかかり、肌を刺すように痛くて、ずっとそれを振り払っていました。すると次第に船が傾いてきて、海水が上がって、周囲からはいろいろな悲鳴が聞こえてきました。そして高いところから滑り落ちるような感覚で気を失いました。そして、気がついたら海の上に浮かんでいました。
 海の上は資材置き場をひっくり返したような状態で、いろんな物が浮いていました。私は誰かが乗せてくれたのでしょう筏(いかだ)の上に居るのです。そこからお母さんや弟たちの名を呼びました。するとどこからか「ここにいるから大丈夫だよー。ちゃんとつかまっておくんだよー」という母の声がするんです。お母さんはそばに居るんだと思っても姿は見えないし、その後は分からなくなりました。でもそれが最後になりました。
 誰かが私をいろんな筏に乗り移らせてくれたように思います。記憶がはっきりはしていないのですが、とにかく誰かがより安全なものに乗り移らせてくれた、おぼろげながらそんな記憶なんです。筏には五人ほど乗っていたと思いますが、子どもは私一人でした。漂流している間は、お腹が空いたという感じもなくて、ただ寒くて眠いんです。眠ろうとするとピッシャと誰かが叩いて起こすんです。「寝たらいけない、死ぬぞ」と、これが強烈なんです。恐いという感情はありませんでした。大海の波間に浮かぶ筏は、一枚の木の葉のように、ただただ波のなすがまま揺れているだけでした。

救助され鹿児島へ、そして宮崎へ

 何日たったのでしょうか、私には一週間にも一〇日にも思えたのですが、実際は四、五日後だったそうです。朝方か夕方かほの暗いなかで、何か光が見えるんです。水平線に船影が見えたんです。それで「あっ、船だ!」と叫んで、私も眠気が一気に醒めました。それで、みんなで一斉に「助けてくれー」と手を振ると、船が近づいてきました。間もなく、上から服を脱いだ人達が飛び込んで私を抱きかかえて船に上げてくれました。皆さんがおっしゃるには漁船だったということでしたが船名も知らず、私にはただ船としか記憶がありません。
 それから毛布にくるまって眠りました。どれくらい寝たのか分からないのですが、目がさめたら温かいお粥があって、「世界中でこんなに美味しいものがあるのかな」と思うぐらいに感謝をしながらいただきました。その船はやがて鹿児島に着きました。
 鹿児島では、生存者を収容している旅館があって、そこに入れられました。子どもたちがたくさんいるので、弟たちも当然いるものだと思って探すのですが見つからないのです。それで、旅館からは抜け出して港に行きました。港では多くの出入りする船があって、たくさんの人々が入ってくる船を待っていました。そこで私は、走って行ってはお母さんや弟たちを探しました。ずっと繰り返しそんなことをしているものですから、港の人に叱られてしまいました。でもなかには親切な人も居て、「お母さん達を探しにきました」と言ったら、その人は持っていた弁当を私にくれました。船に走って行っては探す、でもいないと分かるとすぐ泣きました。泣き疲れて港で寝てしまって、港の人に旅館まで連れていってもらったこともありました。
 そのうちに宮崎に行くことになって、誰が迎えに来たのか、どんなふうに行ったのか記憶がないのですが、そこでは渡久山※※先生が引率してこられた古堅国民学校の皆さんと一緒でした。宮崎県加久藤村の国民学校の講堂が宿舎になっていて、炊事のおばさん達も一緒に寝起きしていました。子ども達は四〇人ぐらいいました。私も学校に行くのですが、二年生の私は正式な学童疎開の年齢に達していないので年下の妹として可愛がられることもありましたが、その逆もありました。一番大変だったのは食糧の買い出しでした。子ども達自身でお金を持って付近の農家を回って購入して来るのです。食糧事情が悪い頃ですから、中には「持っていって食べなさい」と分けてくれる人もいましたが、人さまざまでした。時には何も買えず、そのまま帰ると叱られるので、近くの河原で泣いているうちに泣き疲れて、そこで眠ってしまったこともありました。宿舎も何度か移ったように思います。今でもあの頃お世話になった炊事のおばさんと道で出会うことがあるんですが、ほとんど会釈するぐらいです。というのも、私のお母さんみたいにしていただきましたから、いろんなことが思い出されて、顔を見るとお互いにただ泣き出してしまうんです。
 加久藤村でも空襲がありました。ある日、私一人が校舎に残っていて空襲が来たんです。防空壕をめざして運動場を横切って、走っていきました。すると私のすぐ上空をパラ、パラ、パラと攻撃して飛んで行くんです。運よく弾は外れてくれて、こうして生き残っているんですが、次第に空襲警報が頻繁に出るようになって、その度に避難を繰り返しました。
 そんな中で、担任の大王※※先生は、私を不憫(ふびん)に思ってくれたのでしょう、自分の着物をほどいて、私の服を作ってくださったり、何かにつけとてもよくしてくださいました。あの時のお心遣いは今でも忘れることは出来ません。

沖縄へ。そして今

 沖縄に戻って来たのは、一九四六年(昭和二十一)で私も四年生になっていました。帰る日にちを祖母に伝えていたのですが、迎えには誰も来ていないんです。ただ、一人の旧師が私が帰ってきたことを聞きつけて、取るものもとりあえず駆けつけてくれました。しかし、船から降りた人たちが父母らに抱きかかえられるようにそれぞれ出ていくのに私だけ取り残されたように感じて、「生きて帰らなければよかった」と子どもながらにとても傷ついて泣いてしまいました。そうしているうちに、一緒に疎開先から帰ってきた糸数※※(比謝矼出身)を迎えに来ていた親戚の松田※※さんの車に乗せてもらって石川に行きました。その人は、石川で祖母の所在も探して連れていってくれたんです。祖母は、伝えた日付が変更になっていて迎えに行けなかったということでした。
 沖縄に残った祖母ら親戚の人たちは生き残り、応召した叔父たちも元気に帰還してきているのに、私の父も母も弟たちもみんな死んでしまいました。「あんた達だけ疎開するから、こういうことになって」ということをよく耳にしましたが、私にはどうすることもできなかったのです。でも、親戚や周囲の人々にはとてもよくしてもらいました。「あんたなの、対馬丸から生きて帰ってきたのは」「大きくなったら、幸せになれるよ」「あのような中から生き延びてきたんだから、運が良かったね」「これからの人生はすばらしいものになるよ、きっと」などと言葉を掛けられました。みんなが支えてくださったその気持ちが有り難くて、ほんとうに感謝しています。
 こうして、自分の体験を話すことができるようになったのもつい最近なんです。いつかは絶対話さないといけない、と思いながら全く話せませんでした。対馬丸の「つ」という言葉を聞いただけで逃げていました。ブルブル震えて、眠れないし、食事も出来ない状態もありました。いま、心の整理がついたということでもないのですが、やっと話せるようになりました。
 あれから五十三年も経つんですが、何かにつけ、今でもあの頃のように弟たちが「お姉さん」と呼ぶような気がするし、「※※ちゃん」と母も来てくれるような気がするのです。
(一九九八年採録)
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