第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


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私の腕の中で死んだ妹、そして母の死

宮城※※(大湾)昭和十一年生
  当時の家族
   父  明治三十六年生(防衛隊)
   母  明治三十八年生
   長女 昭和二年生(当時本土の紡績)
   次女 昭和四年生
   三女 昭和十七年生
   四女 昭和十九年生
 *沖縄戦当時、私は九歳でした。そのため当時のことについて、あまりはっきりした記憶はありません。断片的ですが、当時のことを振り返り、私たち家族の戦争体験を話したいと思います。

父の出征

 父の名は宮城※※といい、※※(屋号)の次男でしたが、※※(屋号)の養子になっていました。そのため、父が防衛隊員として球部隊に入隊後、残された私たち一家は父の生家である友寄家と行動を共にしていました。当時、私たち一家は祖母、母、十六歳の※※姉さん、九歳の私、三女で二歳の※※、四女で一歳の※※の七人でした。友寄家はおじいさん、おばあさん、お母さん、※※兄さん、※※姉さんの五人でした。
 十・十空襲の時だったのではないかと思いますが、渡具知が米軍機に爆撃されているのを父と一緒に見たことがあり、入隊前の父との思い出として脳裏に刻まれています。その日、渡具知の船着き場辺りに米軍機がグーンと急降下して爆撃しているようでした。父はガジマルに登って空襲されている方角を眺めながら、幼い私に「もう戦争ははじまっているよ」と言いました。しかし、私には父が言う「戦争」というものが何なのか、本当には分かっていませんでした。
 この空襲後、部落の人々はあわただしく避難の準備を始め、私の家でも姉が荷造りをしていましたが、私にはやはり、父が言うような「戦争が始まる」という実感はありませんでした。

疎開

米兵に発見され、不安な表情の老人たち
(4月1日)(那覇出版社提供)
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 部落のみなさんが避難を始めたとき、私たち一家も友寄の皆さんと一緒に長田の防空壕に避難しました。やがて米軍の上陸も近いということでやんばるへ逃げることになりました。私たち一家と友寄一家は、同じ部落の人々二〇名くらいと読谷を後にしました。しかし、近所の老人たち数名は「山原まで歩くのは無理だから」と部落内の墓に避難し、私の祖母も墓に残ることになりました。
 途中、北飛行場が爆撃を受け、火柱がいくつも立っているのが見えました。私は大人たちと共に逃げながらも、「どうしてこんなに飛行場が燃えているんだろう」と不思議な感じがしました。

ナチブサー

 山田で一泊し、その後やんばるに着いた私たちは、米軍に見つからないようにと山中を逃げ回っていました。おなかも空いていたと思いますが、今は記憶には無く、ただ覚えているのは、大人について逃げるのに精いっぱいだったことです。米兵が怖いという実感もなかったので、「何で逃げるんだろう」と思っていました。
 当時二歳だった妹の※※はナチブサー(泣き虫)で、一緒に逃げていた人たちからとても嫌がられました。※※は体中にできたおできが、歩くたびに草や木の枝にかすって痛むらしく、「ワーッ」と泣き出すことが頻繁にありました。このままでは米兵に知られ大変なことになるぞと、私たちにいやがらせみたいなことを言う人もいました。私は子供心にそういった大人を憎く思ったことを覚えています。
収容直後。死に装束の晴れ着を親が着せている
(アメリカ国立公文書館映像資料より)
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 とはいえ同行の人たちに、命にもかかわるような迷惑をかけることはできないので、私たちは皆と別行動をすることになりました。
 読谷からずっと一緒だった友寄の一家は私たちに同行してくれることになり、共にやんばるをさまようことになりました。※※の※※兄さんは当時二十歳だったので、兵隊に間違われて殺されると大変だということで、移動は夜に行い昼間は身をひそめてじっとしていました。

やんばるをさまよう

 山から山へと避難する間には、いろんなことがありました。雨の日に、崖を歩いたこともあります。担いでいる布団が水を吸って重くなり、地面の赤土がぬかるんで、裸足で歩く私たちは今にも崖から転落しそうでした。私たちはお互いの腰を紐で結んで、誰かが足を滑らせてもすぐに助けられるようにしていました。
 ある晩、私たちが崖を歩いていると、近くを歩いていた人が足を滑らせて崖を転落していったのでしょう、「わーっ」という叫び声が聞こえてきました。本当に恐ろしかったことを覚えています。
 また、家族に置き去りにされたおばあさんなのか、「何か恵んでください」というふうな身振りで、通りがかりの人たちに頭を下げているのを見た時には、可哀想でつらい気持ちになりました。

軍用犬

 ある日、私たちは大きな犬に出くわしました。先頭を歩いていた※※兄さんが見つけて「前に犬がいるよ」と私たちに知らせました。軍用犬は、人を見つけると米兵を呼びに行くように訓練されていると聞いたことがあり、私たちの前に現れた犬も米兵を呼びに行ったのか、すぐにどこかへ走って行きました。私は、※※兄さんが見つかると大変なことになると心配しましたが、母は落ち着いた様子で「大丈夫だから、あんたたちは隠れなさい」と指示しました。私たちが茂みに隠れると、やはりさっきの犬が米兵を連れて戻ってきました。もし※※兄さんが見つかれば、兵隊と思われて殺される危険があります。母は犬が見つけたのは兵隊ではなく、ただの子供だと言うことを伝えたかったのでしょう、「小さい子供が逃げていったよ」というようなことを身振りで米兵に説明しました。軍用犬は、隠れている私たちを見つけてすぐそばまで来ましたが、米兵のほうは母の説明に納得したのか、それ以上探そうとはせずに立ち去りました。
 母は戦前に内地で働いていたことがあり、その時に外人の姿を見たこともあったようで、常々その印象を「そんなに怖くなかったよ」と話していました。そのためでしょう、この時も落ち着いた様子でした。

※※の死

 山中では、火をおこすのをみられると米軍の攻撃を受けるので、姉が見張りに立って、母が食事を作っていました。石油の匂いのするおにぎりを食べた思い出もありますが、どんなものであっても、食べる物があるだけまだましで、それも長くは続きませんでした。
 食べ物がなくなって、真っ先に弱っていったのは、一番下の妹※※でした。※※は、まだ二歳にもなっていませんでした。この頃、私たちは誰もいない避難小屋を見つけてしばらくそこで寝泊りをしていました。近くに日本兵数名が隠れていて、私たちは弱っていた※※のために彼らから缶詰を貰って与えました。しかし※※は大分衰弱して食べ物を消化できず、かえって下痢をして弱ってしまいました。
 その日、母と姉が※※を連れて洗濯に行くというので、私は※※を抱いて留守番をしていました。※※の家族も留守で、小屋には私と※※の二人きりだったように思います。
 突然、幼い私の腕の中で痩せこけた体をガタガタ震るわせて、※※がひきつけを起こしました。※※はやがて静かに息を引き取りました。私は、母たちが帰ってくるまで避難小屋の土間に座り、※※の亡骸を前に一人で泣いていました。
 大きな樹の傍らに皆で※※を埋葬する時、母は号泣しましたが、私は自分自身の体力も限界に達していて、悲しくても涙が出ませんでした。私には日付の感覚はすでになく、後で聞いて知ったのですが、※※が亡くなったのは一九四五年(昭和二十)の七月七日だったようです。

母の死

 ※※がなくなった日から、一週間ほどが経っていました。「夜は歩かず、昼間に山を下りて来なさい」という米軍の「二世」の声が、スピーカーのようなものを通して山中に響き渡っていましたが、私たちは相変わらず移動は夜間に行っていました。
 敵の陣地近くを、そうとは知らずに通っていたようでした。真っ暗闇の中、私はケーブルのようなものを踏んでしまい、「ピーッ」という音があたりに鳴り響きました。すると「ボン、ボン」と照明弾が上がり、辺りが真昼のように明るくなりました。すると機関銃が私たちに向かって撃たれました。防空頭巾をかぶった私の頭に、機銃掃射を受けて砕け散った山の土がボンボン落ちてきました。私は、前に立っているのが母だと思い、「かあちゃーん」と思いきりすがり付きました。しかし、それは母ではなく、※※の※※姉さんでした。「お母さんはあっちにいるよ」と言われて、そこに行ってみると、「うーん」と唸っている声が聞こえ、かすかに母が横たわっているのが見えました。母は私たちに一言、「先に行きなさい」と言ったので、すぐに姉さんたちが私たちを安全な場所に連れて行きました。逃げる途中、米兵がガヤガヤ何か話しているのが聞こえました。そのぐらい米軍陣地に近かったのでしょう。
 姉さんたちには、母が虫の息だったことが分かっていたと思いますが、それでも姉さんたちはあきらめきれずに、私たちを避難させるとすぐ、母が倒れているところに引き返していきました。しかし、母は頭を撃たれてすでに亡くなっていたようです。私は帰ってきた姉さんたちから、母が死んだことを聞かされました。
 母が亡くなったのは、一九四五年(昭和二十)七月十五日。享年四十歳でした。

投降、それから

水たまりでかみそりを洗う少年
収容直後(アメリカ国立公文書館映像資料より)
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 畑などで小指ほどの芋を採ってきては、それを食べるという日々も限界に来ていましたので、皆で山を下りることにしました。しかし、兵隊に間違えられる危険があった※※兄さんは山に残りました。投降時のことはあまりよく覚えていませんが、橋の上に立っている米兵が、手を挙げて歩いてくる私たちの頭上めがけて威嚇射撃をしたことを深く記憶しています。私たちに遅れること数日で、隠れていた※※兄さんも投降してきました。
 久志の収容所では※※のお母さんが病院の炊事係をしていて、※※姉さんは看護婦として働いていました。そのため私はよく病院に出入りしていました。蛆のでた人間がたくさんいるし、最初はびっくりしましたが、やがて米兵に指示されて死体や切断された足などを焼却場に引っ張って持って行く手伝いをたまにさせられたりしました。
 「※※のおばあさんは、石川にいるよ」と教えてくれた人がいたので、私たちは読谷においてきた祖母が無事だったことが分かり、祖母のいる石川へ移ることにしました。この時、友寄の家族は久志に残ることになったようで、ここで別れました。
 石川の宮森に一年ほどいた後、私たちはその後読谷に帰りました。
 出征していた父は一九四五年(昭和二十)六月十八日に島尻の喜屋武で戦死したことがわかり、私たち一家はこの戦争で父と母と妹の三人を失いました。
 あの日々、悲しみはもう忘れたい、思い出したくもない、それが私の本音です。
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