第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


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※※の戦争体験

大湾※※(渡具知)昭和十四年生
  父   明治二十六年生(防衛隊)
  母   明治三十年生
  長男  昭和八年生
  次男  昭和十一年生
  長女  昭和十六年生
  父の姉 明治二十四年生
 *僕が六歳の時、戦争があった。五〇年以上も前のことであるが、忘れることなく脳裏によみがえる。

父の死

 一九四五年五月、渡具知から与那への避難中に家族は離れ離れになっていた。父と長男の※※と、そして※※と呼ばれていた六歳の僕は、奥間の川沿いの避難小屋に身をひそめた。食べ物もなく三人とも栄養不良と病で体が衰弱しきっていた。
 避難民の人たちが小屋を覗いては山奥へ逃げていくのに、僕たちは三人とも動けなくなっており、死を待つのみであった。 父が先に息絶えた。時間が経つにつれて死臭を放ち、遺体はふくれていった。その傍に僕は座っている。雨がどしゃ降りになり、避難小屋の中にも水が湧き上がってきて、竹でできた床は水浸しになっていた。横なぐりの雨が入口や壁を突き抜けて、父のむくろ(死骸)をたたきつける。
 雨がやみ、太陽の光が避難小屋を照らした。光の中で静寂の時が過ぎていった。
 一九四五年(昭和二十)五月、父死す(享年五十二歳)

命拾い

 僕が気がついたのは、羽地の野戦病院のベッドの上であった。点滴で体が回復し目を開けたのである。のぞきこむようにして看護婦が僕を見つめていた。脈をはかり、気がついた僕に「よかったね」とひとこと言って隣のベッドへ移っていった。
 ※※も僕も、父の死体の傍で衰弱した体でいたのをアメリカ兵に助け出され、病院へ担ぎ込まれていた。あと一日でも発見するのが遅れていたら、二人とも死んでいたであろうと言われた。※※は回復が早く、元気を取り戻して病院から孤児院へ移されて行った。僕の体も病院で食べ物を与えられたことで徐々に回復していった。
 病院で働いている人の中に、母の郷里屋良の出身の人がいた。その方が、僕らの母親が金武の病院へ収容されていることを知って、金武の病院へ僕は移されることになった。

母との再会

 山あいの道を車は金武へ向かって走った。いかついアメリカ兵が大声で話しながら僕の傍に座っている。僕は、どこかに連れ去られるような、そんな気持ちになっておびえていた。アメリカ兵が話している言葉が、何やらさっぱりわからない。僕は不安の中で身をちぢこめて、ちょこんと座っている。やがてテント小屋が立ち並ぶ金武の病院へ着いた。アメリカ兵は僕を抱き上げて車から降ろすと、待っていた人へ引き渡した。その人は僕の手を引いて一つのテント小屋に入った。
 野戦用ベッドがいくつも並んでおり、そこにケガした人たちや衰弱した人たちが横たわっていた。皆重病人であった。薄暗いベッドの横の通路を通って母の寝ているベッドのそばで立ち止まると、「あんたのお母さんだよ」と言って、付き添いの人が僕を母のところへ押しやるようにした。「おかあ!」大きな声で叫び、ベッドの上の母に飛びすがるように母の顔をのぞき込んだ。
 母はしばらく呆然とした顔で僕を見つめていたが、やがて涙をぽろぽろと落として泣いた。身動きのできない衰弱した体を動かして、手を差し伸べて、僕の顔をさすり、「よく生きていたね」と強く抱きしめたいようなそんなしぐさをしていた。母の傍のベッドには兄の※※が寝ていた。しかし衰弱しきった体は、僕をうつろな目で見ているだけで、起き上がることもしなかった。息づかいだけが激しくなっている。母たちと行動を共にしていた妹の※※は、僕が母の傍で泣いている姿を見て、僕と並んで毛布のすそをつかんで立っていた。
 母は「お父ヤ?お父ヤ?」「※※ヤ?※※ヤ?」と、父と兄はどうしたんだと聞いている。僕を連れてきた人が、「お父は奥間で死んだ」「※※は羽地の孤児院にいる」僕は羽地の病院から送られてきたと事情を話した。母は僕の手を握りながら、涙を流し声にならない声でむせび泣いた。

兄※※の死

 母、※※、※※の三人は家を出た後、実家である池原家の家族と避難行を続けていた。そして途中、父が避難している与那へ行くと言って別れたようだ。
 金武の病院に母が収容されていることを知って、母の兄である池原※※伯父さんが見舞いに来た。伯父さんは僕を見て「※※、よく生きていたね」と頭を撫でた。
 母に再会して二、三日が過ぎた。※※の容態は悪くなる一方であった。栄養失調の痩せ細った体は、他の病気を併発し、※※は間もなく息を引き取った。伯父さんと息子の※※さんが、※※を荼毘(だび)にふすことになった。母は自分の子どもが死んでも起きることもできない。伯父が抱きかかえた※※の顔を撫でてやるのが精いっぱいである。涙だけがとめどなく流れていた。母は、息子をお願いしますと兄に言葉をかけることもできずに、息子の亡骸を見送った。
 戦場で死んだ人、病院で死んだ人、整然として掘られた穴の中に容赦なく埋められていく。※※の体が穴の中に寝かされて作業員のスコップが土をかぶせた。伯父と※※さんが手を合わせた。その傍に僕も座って手を合わせた。何の儀式もない野辺送りだった。
 一九四五年(昭和二十)五月、兄※※死す(享年九歳)

見舞いに来たオホンマー

 金武の病院は、戦場から送られてくるけが人や重病人で収容しきれないほど多くなっていた。
 母と僕と妹の※※の三人は、宜野座の病院へ移されることになった。※※兄の死から一〇日は経ったのであろうか。母も寝返りができるようになってはいたが、起き上がって歩くことはできない状態である。難民収容所のテント小屋が立ち並ぶ原っぱより、ちょっと高くなった所に、宜野座の病人を収容するテントが建てられていた。夏の日の暑さをしのぐためにテントのすそが巻き上げられて外が見渡せるようになっていた。僕と※※は、母のベットの横に座って外を眺めていた。そこで僕の目に映ったのは、まぶしい太陽の光から目をかばうように額のほうに手を当てて、あたりを見回している人だった。いつも僕をかわいがってくれていたオホンマーの姿であった。僕は大きな声で「オホンマー!オホンマー!」と叫んだ。オホンマーは僕の声に気づいて、僕のほうに向かって歩いてきた。僕は走った。オホンマーも小走りになって僕を受け止めて強く抱きしめた。オホンマーはテントの中に入って母と妹を見舞った。母と再会して泣いていた。「よく生きていたね」とオホンマーは言ったが、母は父が死んだこと、※※が死んだことを話すのが辛かった。自由に動けなくなっている自分の体をどうすることもできない。この子供たち二人をどうすればよいかと嘆いていた。オホンマーは、母を勇気付けた。気を落とさず早く元気になって欲しい、子どもたちのことは心配しないで、私がみるから。早く体を治して元気になりなさい、とはげました。しかし母の病気は重く、容態は悪くなっていた。母は、宜野座の病院でオホンマーに看取られながら、暗い夜のテント小屋で死んだ。母の遺体は共同墓地にほうむられていった。僕と※※を残して死んだ母の気持ちは無念であっただろう。
 一九四五年(昭和二十)六月×日 母死す(享年四十八歳)
*オホンマー ウフアンマーで伯母のこと。

妹よ許してくれ

 母が死んだ後、僕は妹を連れ歩くようになった。子供心にも母の居なくなったことの状況がわかったのだろう。妹は「おかあ、おかあ」と泣きながら母をさがしている。僕は妹の手を引いて母の死んだテントの周りを幾度となく訪ねていた。オホンマーは、二人をかわるがわる抱きしめて涙した。オホンマーは、両親を亡くした子供たちをこれからどうすればよいか途方にくれているようだった。二人を連れて難民収容所のテントへ戻った。テントの中では多くの家族でひしめきあって生活していた。
 僕は夜が明けると妹を連れて、母が死んだテント小屋のまわりをウロつくようになった。ひもじさが二人を襲っていた。僕は、妹の手を引いて共同作業のお昼のおにぎりを配っている大人たちの列の中に立った。僕は配られていくおにぎりを見上げながら、妹の手をしっかり握っていた。おにぎりを配っているおばさんが僕たちに気づいておにぎりを僕と妹に渡し、「あっちへ行きなさい」と言った。おにぎりを貰った僕と妹はテント小屋の後ろにまわり、隠れるようにおにぎりを食べた。とてもおいしかった。妹へしてやれた、僕の忘れられない思い出である。
米軍から手当を受ける子ども
(アメリカ国立公文書館映像資料より)
画像
 夜になった。ひもじさに妹も疲れ果てていた。どこへ行くあてもない僕らは、新しく建てられたテントの中に身を潜めていた。オホンマーのいる所も幼い二人には皆目分からなかった。外はどしゃぶりの雨となった。ひもじさに耐えられなくなった。妹の手を引いてどしゃぶりの中へ出た。オホンマーのところへ行きたいという気持ちがそうさせたのだろう。しかし、夜中のどしゃぶりの中、どこをどう歩いたのか知らない。妹は僕に手を引かれるままに歩いたが、小さい体は限界にきていたのであろう。びしょぬれの体は熱を出していた。誰もいないテントの中に二人は入った。妹は倒れた。衰弱した体を雨に濡らして肺炎にでもなったのであろう。息は荒くなり、やがてうめき声になり妹は死んでいった。その屍の前に僕はポツンと座っていた。妹よ許してくれ、今もって悔やみきれない妹への悔恨の気持ちである。
 一九四五年(昭和二十)六月×日 妹※※死す(享年四歳)

放浪のみなし児

 とうとうひとりぼっちになった。僕はオホンマーに引き取られて生活するようになった。しかし、よくテントを逃げ出し、いつものように母が死んだテントのあたりを一日中うろついた。オホンマーは巡査に呼ばれこっぴどく叱られた。何度もそのようなことを繰り返し、テントを逃げ出してさまようのである。手に負えない子どもになっていた。
 僕は兄の※※の所に行きたいとオホンマーにせがんだ。オホンマーはこんな小さい子が羽地まで行けるはずがないと思いこんでいた。それに僕をあやすためということもあったのだろう、テントの中で混ぜご飯でも食べさせてやれと混ぜご飯を缶詰の空き缶に入れた弁当を作った。弁当を貰った僕は、あてもなく道を歩いていた。村はずれまできた。道のちょっと奥まった広場あたりで一休みしようと、そこで混ぜご飯を食べた。そしてお腹いっぱいになると、眠くなってそのまま眠ってしまった。目が覚めると夕方になっていた。暗くなると走ったり止ったりして道を歩いた。明かりが見えた。古知屋に向かって歩いていたのである。明かりが灯っているのは巡査の詰め所であった。家の前の軒に立っている僕を巡査はめざとく見つけた。巡査は、この侵入者の身の上を親兄弟からはぐれた迷子か戦争孤児であろうと察した。僕にごはんを食べさせて寝床につかせた。翌日、僕は古知屋の孤児院へ送られた。

孤児院

 孤児院には多くの子どもたちが収容されていた。男の子、女の子、みな戦争の中を奇跡的に生き残ってきた子どもたちだ。親を亡くし、また親とはぐれた子どもたちである。小学三年、四年にでもなれば年下の子たちの世話をみる兄貴や姉であった。
 孤児院では、三度の食事をはらいっぱい食べることができた。僕にも友だちができていった。小学生は広場に集められて勉強をした。青空学校、木の下での学校である。体操をしたり、唱歌を歌ったりして元気な子どもたちになっていった。おとう、おかあ、兄妹を亡くした傷も癒えて子どもたちの仲間に溶け込み、元気な声を出すようになっていた。保母さんが子どもたちの面倒を見てくれるし、居心地のよい生活を送ることができた。
 日が経つにつれて多くいた子どもたちが、親戚や家族が来て引き取られ孤児院から去っていく。秋が過ぎて冬も越し、一九四六年(昭和二十一)の二月頃になっていた。残り少なくなった孤児の中に僕は居た。
 僕の前に金武で別れた屋良の※※おじさんが現れた。おじさんは僕の名前を「※※、※※」と呼んでいる。おじさんは、金武の病院で別れてから母と僕らの消息を探していた。オホンマーは宜野座から石川へ移って※※と一緒に住んでいるから迎えに来たとおじさんは言った。
 おじさんに手を引かれて孤児院を出た。僕を孤児院でかわいがってくれた※※兄が村はずれまで見送ってくれた。さようなら、さようならと手を振った。少し行くとおじさんは僕を負んぶした。おじさんの背中で楽になった時、沖縄に戦争がくる前、嘉手納のオホンマーのところへ行く時に比謝川に架けられた製糖会社の桟橋(回転橋)を渡るおとうに負んぶされて、トロッコレールの枕木の間から川の水を恐る恐るのぞいていたことを思い出していた。おじさんは僕を背中に乗せて歌を口ずさんでいた。「なちかしやうちなー、いくさ場になやいー、しきんうまんちゅぬ、ながす涙…」おじさんの目にいつしか涙があふれていた。黙々と歩くおじさんの背中で、僕は心地よい眠りに落ちていた。

オホンマーとの再会

 オホンマーが住んでいるところは、宮森小学校近くのテント小屋であった。そこには渡具知の人たちが多く集まって住んでいた。テントの一張をいくつもの間仕切りをした狭い一間に、オホンマー、※※、従妹の※※の三人が住んでいた。
 二月の夕暮れ時に屋良のおじさんが僕を連れてきたのでみんな驚いた。隣に住んでいる渡具知の人たちも僕を見て、孤児院から帰ってきたことを喜んでくれた。おじさんはテントの中にいる※※を見舞った。やせ衰えた姿に言い出す言葉もなく胸を詰まらせた。そばで※※が黙って立っている。テントの薄暗い中で、オホンマーは僕を抱きしめながら「よく生きていたね」と涙にくれた。宜野座で別れてから八か月ぶりの再会となった。屋良のおじさん、オホンマー、※※、※※、僕と五人は薄暗いローソクの明かりで夕食を食べた。おじさんは僕をオホンマーに託した安堵した気持ちで弟のいる石川の別のテント小屋へ帰って行った。

マラリアでの※※の死

 僕が石川に来て間もなくのことである。※※兄の容態がどんどん悪くなっていった。マラリアに冒されて高い熱を出し、ぶるぶる震えている。息もあえぎあえぎ苦しそうであった。※※は羽地から石川へ送られてきた時、渡具知の宮本※※さんと出会ってオホンマーのところに連れられて来た。石川に来てからは読谷の芋あさりにも、夜道を通って出かけていた。体力が無いにもかかわらず、隣近所の人たちが出て行くときには付いて行って、少ないながらも芋を持ち帰って食事の足しにしていた。そんなことを何度かやっていたが、マラリアに冒されてしまった。※※はオホンマーや渡具知の人たちが見守る中で死んでいった。遺骸は集落から離れた山手の墓地に埋葬された。※※兄も亡くなり、僕はとうとう一人ぼっちになった。
 一九四六年(昭和二十)二月×日 長兄※※死す(享年十三歳)

オホンマーとの生活

 オホンマーは石川で僕を引き取ってからは、僕を宝物のように育ててくれた。四月に宮森初等学校へ入学した。一九四七年(昭和二十二)十二月には楚辺へ移住した。一九五二年は渡具知へ帰郷し、オホンマーは小さな雑貨店を経営するようになった。しかし、米軍による強制立ち退きによって比謝へ移住した。幾度となく住居を転々としてきて、ようやく一九七八年九月、渡具知へ移住し、安定した生活を築くことができるようになった。
 五十四歳から九十二歳の三十八年間、僕を母以上の愛情で育ててくれて本当にありがとう。オホンマーとの三十八年の生活は僕のかけがえのない人生であった。
(『渡具知誌』より一部修正のうえ転載)
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