第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


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山中で命の恩人に出会って

伊佐※※(旧姓宇江城)当時七歳
  父
  母
  兄(十四歳)
  妹(四歳)
 私は、戦争で両親と妹を亡くした戦災孤児です。当時七歳だった私には、はっきりした当時の記憶はないのですが、私を戦場で拾い引き取ってくれた方から聞いた話と、生き残った七つ上の兄の記憶から、そのときのことを振り返りたいと思います。

山中避難

 私の両親は、三歳下の妹が生まれて間もなく離婚しました。それで昭和十九年までは、私と兄は父方に引き取られて、四歳の妹は母が引き取っていました。しかし、戦況が厳しくなって北部へ疎開する人が増えてきた頃、母が私と兄を引き取り、四人で北部へ疎開することになりました。兄から聞いた話では、母方の親戚が「戦争のような非常事態に子供たちと離れ離れになってはいけないよ」と、母に勧めたからということでした。
 そうして私たち兄妹三人は母と一緒に、恩納村の安富祖の山に避難しました。しかし米軍が上陸してからは、避難小屋でもあぶないということで、小屋を捨ててさらに山奥へ避難しました。しばらくすると食料が底をつき、母と兄が山をおりて、食料を探しに行ったようです。私と妹は二人で母たちの帰りを待っていました。
 そんなある日、母と兄が食料を探しに出て行ったまま、戻ってきませんでした。食料を探す途中、母と兄は米兵に捕まっていたのです。捕虜になった人たちと共にトラックに乗せられた母は、私と妹を山に残していたので、トラックから飛び降りて逃げ出そうとしたらしいです。それを見た米兵が母を後ろから撃ち、即死してしまったということです。目の前で母を殺された兄は、そのまま収容所へ連れていかれました。
 そうとは知らない私たち二人は、母たちが帰ってこないので、おなかがすいてじっとしておられず、二人で山中をさまようようになりました。お母さんの名を呼びながら、ずいぶん歩いたと思います。そのことは覚えているんです。

山中の孤児

4月2日、読谷で収容された少女
サトウキビをかじっている。
画像
 低空で飛行機(「トンボ」)が飛んでくると、他の避難民は隠れますが、私たちは隠れるところもありませんでした。他の避難民が隠れたら、その人たちが食べていた食糧が、大きい鍋に炊いたジューシィやンムワカシーが置きざりにされていることがよくあったので、あわてて鍋に手を突っ込んで食べたりしました。飛行機がいなくなったらみんな出てきますから、私たちはあわてて逃げて。それから、米軍がチョコレートや缶詰を山中のあちこちに落としていましたので、それを拾って食べたりして、妹と二人命をつないでいたんです。こうした生活でしたが、私は体が丈夫だったのでなんとかやっていけましたが、四歳にしかならない妹は、母たちといたころからすでにかかっていたシブイワタ(アメーバ赤痢)が悪化して、おまけに寝泊りする小屋もなくて、木の下で寝ているのでどんどん体が衰弱していきました。

命の恩人との出会い

 母たちがいなくなってから、たぶん二〇日くらいはさまよったんじゃないですかね。この時のことは、断片的にしか覚えていないんです。山が火事のように燃えていたこと、木の下で雨をしのいだこと、山中をさまよい歩いてお母さんの名を呼んだことなど、うっすらとした記憶です。
 私を山中で拾ってくれた東※※さんから聞いた話では、東さんは南部にいた防衛隊員だったのですが、隊が壊滅状態になり、生まれ島の恩納村を目指して帰る途中に、私を見つけたらしいのです。その頃山中には、日本兵や米兵の死体が転がり、多くの避難民はそこから移動した後なのか、人の姿はあまり見られなかったようです。そんな場所に幼い私がポツンといたので、東さんはびっくりしたと言っていました。その時に妹は、私とはだいぶ離れた場所に座っていたため、東さんは妹も見かけたそうですが、私と姉妹だとは思わなかったと言っていました。
 私は、東さんを見るなり「お父さーん!」としがみついたらしいです。山中をずっとさまよって、すごく不安だったからだと思うんですけど。東さんは、私がすがりついてきたことと、また私が元気な様子だったので、一緒に連れて歩くのも可能だと判断したそうです。東さんが「自分で歩けるなら、連れて行くよ」と私に声をかけると、私はすぐに「はい!」と答えたそうです。そうして、やっぱり山にとり残されて怖かったんでしょうね、「お父さん、お父さん」と呼んで、恩納のお父さんに置いていかれたら大変だという一心で一生懸命走って付いて行ったらしいですよ。
 米兵の食べ残しなのか、ふたが開いている缶詰を私が拾ったことがありました。上のほうは腐っているようだったので、「上は食べられないけど、お父さん、下はまだ食べられますよ」と言って、お父さんに食べるように勧めたらしいです。だからお父さんは私に「私もあんたに助けられたかもしれないよ」って言ってくれてます。もちつもたれつで私も必死だし、東さんも食べ物をなんにも持ってなくて腹をすかして弱っていたらしいですから。
 妹のことなんですけど、私は何も考えずにそのまま置いてきてしまって。まだ七歳だったから、ただ必死に東さんを追いかけたんです。だから妹に、とっても悪いことをしたなって、今でも申し訳なく思って辛いんです。

東さん一家との日々

 東さんが、「うちの子供になろうね」って言って、自分の家族が避難している壕に連れて行ってくれました。奥さんは最初、壕に帰ってきた夫が知らない子どもを連れているから驚いたようです。でも、東さん夫婦の子供はみんな男の子で、ずっと女の子が欲しかったということもあり、私を引き取ってくれました。恩納村の壕からはすぐに出て、石川の収容所に行きました。
 拾われてから一年あまり経ち、私は八歳になりました。その間私は、東さん夫妻を「お父さん、お母さん」と呼び、二人の子どもさんや東さんのお母さんなど、みんなに可愛がってもらいました。「来年は学校あるかそうね(入学させようね)」って話しも出て、お母さんがアメリカ兵の軍服を仕立て直して、学校に持っていくカバンを作ってくれました。
 そんなところへ、私のおじが訪ねてきました。その時、お父さんは警官になっていて一、二か月ほど金武へ講習会に行って家を留守にしていました。おじは、お母さんに「両親が亡くなったので、※※はうちなんかが親戚ですから、連れて行きましょうね」って言ったそうです。そしてすぐに私を引き取ろうとしたそうです。でもその時は、お父さんは家にいらっしゃらなかったから、お母さんは「この子を拾ってきたのは夫で、今は巡査の講習受けに行って留守にしてます。※※は夫が大変苦労して山のなかから連れて来ているから、夫の許しを受けて、それから連れて行くんならそうしなさい」と言って断ったらしいです。だけど私のおじは、その後も二回訪ねて来て、「※※はお父さんを失っており、自分はおじにあたるので私が連れて行く」と言って、私を無理に連れて行ったらしいです。お母さんは、お父さんがいない間に連れて行かせたら、とっても怒られると思ったそうですが、仕方が無い。親戚と子どもの取り合いはできないさとあきらめたって言っていました。
 その後、東のお父さんとお母さんは、私を探してくれたようなんですが、ずっと見つけられなかったそうです。私はその後、あちこちの親戚の家を転々としていたものですから。
 はじめは、比謝矼で戦前料亭をやっていた人のところへ行ったんですよ。次に本土で生活していたおじいさんが、小学校六年の時に帰ってきたので、おじいさんとは初対面でしたけど、中学校からおじいさんと一緒に那覇で暮らしたんです。でも中学を卒業する時に、おじいさんが事業に失敗して一緒に暮らせなくなったので、嘉手納の親戚のところに卒業までの半年お世話になったりしていました。そうやって転々としてましたし、東さんのところへ行きたくても、お世話になっていたのは八歳の時だったから家も住所もわからないし。だからお礼もできないまま、私は結婚して読谷に住んでいたんです。戦後二〇年以上経ってから、東のお父さんとお母さんが私を見つけて、訪ねて来てくださったんです。顔はいつも思い浮かべていたから、すぐわかりました。

そして今

 東さん夫妻の存在が、私にとっては本当にありがたいんです。お二人はみんなに私を紹介するときにも、自分の長女だと紹介してくれるんですよ。実の子供たちが焼きもち焼くくらい可愛がってくれる、親以上の存在ですよ。
 それでも、戦争がなければ、父母はまだ九十歳くらいですから、今も生きていたかもしれないなって、だから何で戦争ってあるのかなって思うんですよね。生きてさえいれば、親を頼ることもできる。私にはどんなに苦しい思いをしても、「助けてちょうだい」って頼っていくところも無いんです。それだけは、今でも、戦争って憎らしいなって思います。自分ひとりの力で生き抜いていかなくてはならなかったから。両親がそろっている家は、それだけでもうらやましくて、私だってそれを味わえたらいいのにといつも思っていました。何十年経ってもね、消えないですよ、心の傷跡は。
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