第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


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※※を山で拾って

東※※さんの証言 大正六年生
 私は「支那」にも兵隊として行ったが、沖縄に戻ってうちで農業しておったら、二十九歳でまた兵隊に引っ張られた。球部隊に所属して名護、伊江島、島尻、いろんなところに行った。
 首里で部隊がおおかたやられて解散したので、私は仲間と四人で小さい板船を作って北部へ脱出した。仲間は石川伊波の人、東村有銘(あるめ)の人、そして今帰仁の人だった。私たちは、死を覚悟して一晩中めちゃくちゃに漕いで、はじめは浜比嘉に上陸した。そこで伊波の人は米軍に撃たれて「腹痛い、腹痛い」と言いながら死んでいった。初年兵でまだ若い人だったが、かわいそうだった。浜比嘉のアダンの中に船ごと隠れて夜になるのを待って、浜比嘉から更に船で有銘の大浦湾に上陸した。そこで三人は生まれ島(故郷)を目指してばらばらになった。
 もう五月は過ぎていたんじゃないかと思う。久志の山まで一晩ぐらいかかって、そこから安富祖の山に着くまでには夜明けごろだったよ。それで少し歩いたらね、学生らしき者が二名死んでいたよ。それから黒人兵が四、五名死んでいた。手榴弾を投げ込まれたみたいだった。そこで、一人でぶらぶらしておった※※を見つけたんだよ。※※は痩せて、足なんかヘーガサ(皮膚病の一種)がいっぱいできておった。私を見て「お父さんよー」って、すがりついて来た。山の中に他は誰もおらん、この子一人だった。※※の妹は、※※とはだいぶ離れたところにおったから、妹とは思わんかったんだよ。私をミーチキーしていた(じっと見つめていた)が、下痢してとても弱っていたから、連れていけなかった。後から※※が「ウットゥグヮー(妹)」って言いよった。可哀想だったけど、連れに戻れなかったよ。
 ※※はアメリカーが食べ残した缶詰を持っていて、それを私にくれて「上を捨てて、下のほうは食べられるよ、お父さん」と言ったんだよ。それをもらって食べたら、私は元気が出た。私は食べ物は何も持ってなくて、十何日間、黒砂糖と水ばっかり飲んで、たまにガニグヮー(小さな蟹)をみつけてそのまま食べたりしておった。だから※※のくれた缶詰で助けられた。
 ※※は「お父さん、ここが道だよ」って山田までの道案内をやるぐらい元気だった。私は※※がくれた缶詰で元気になったから、もし自分の家族が全滅して誰もいなくなっていたら、この子と二人で暮らそうと思って、連れることにした。二人なら生活もできるだろうと。
 ※※は私がちょっと走ると、ソーヌギティ(たまげて)泣いた。それで「あんたが泣いたら、二人とも殺されるよ」って言ったら我慢しよったけど、ちょっとでも先に行くと「お父さんよー」して泣きよったから、※※を連れてくるの、とっても苦労したよ。一人なら走れるけど、※※を連れていたらそういうわけにもいかない。橋も壊されていることが多かったし、藪の中から歩くからよけい大変だった。
 二人で山田まで、何日かかったかね。仲泊から久良波までは浅瀬を歩いた。兵隊は道から歩きよったから、※※と私は海から行こうと。首から下は海水につかって歩いた。※※は浅いところから歩いて。今、歴史街道になっているところを通って、ガマンターというガマの前を通り、ナゴウバルから次は山田に。山田のカーブヤーガマに家族を避難させてあったから、そこで家族と会った。妻と母と二人の子供と親戚、みんな無事だった。私が※※の手を引いているから、「あんたこの子、どこの子ね」って妻はびっくりしていたよ。
 私は「戦は負けているのに、ここに隠れて何するか」ってみんなに言って、アメリカがトラックで連れに来ていたから、それに乗って石川に行った。だからガマには四、五日くらいしかいなかったよ。

石川収容所にて

 石川の収容所で暮らしていたら、※※のお兄さんが来ておった。ここに※※がいるって話を人づてに聞いたと言って、捜してうちに来ていたよ。十二、三歳だったと思うよ、アメリカタバコを持ってきて、「お父さんに差し上げます」と言って。「※※はうちの妹ですが、自分はアメリカーに連れられて、母は殺されたので、※※ともう一人の妹は山にうっちゃん投げられてしまいました。※※たち二人はもう死んだものと思っていましたが、こちらのお父さんに助けられて※※は生きてると聞いて、捜しにきました。今、自分が※※を連れて行っても、食べさせていく力がないから、その間ここで育てていてください。また回ってきますから」と言って帰って行った。私は「兄弟もいるなら安心さ」って妻と話して、そのまま※※の面倒を見ることにした。
 しかし、私が巡査の講習を受けに金武に行っていた間に、※※のおじさんが連れに来て、私が帰って来たら、※※がいなくなっていた。私は妻をとっても叱ったよ「どんなに難儀して連れてきたんだから、そのまま行かすか」と言って。それから※※の夢を見はじめてよ、どこかに必ずいるはずだからと妻とあっちこっち探したんだよ。※※は親が具志川の出身と言っていたから、具志川にいるかもしれないと思って、一度は具志川まで捜しに行った。雨のなか、傘をさして二人で。でも、そんな子はいないと言われて笑われて。どこもかも歩いて捜したよ、あの時は若かったから足も丈夫だし。こんな可哀想な女の子、簡単には人に渡すことはできない、そんな思いだったよ。
死を覚悟した親によって、晴れ着が着せられた
収容直後、母に抱かれる幼児(アメリカ国立公文書館映像資料より)
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 そしてね、ある時に噂が聞こえてくるわけさ「※※はおじさんが連れて行きよったけど、アマホーリクマホーリ(たらい回しにされているらしいよ)」って。とても残念だったよ。ここにおいておけば、もっと良くできよったはずだから。
 ※※にまた会ったのは二〇数年経ってからだった。私の末の弟が、読谷の大湾にあった山内っていう卸屋で荷物おろしの仕事していた時に、店に出入りする※※を見たわけさ。弟は※※と収容所で一緒に暮らしていたから※※の顔を覚えていた。※※と年も近かったんだよ。弟から※※を見かけたと聞いて、私たち夫婦はとっても喜んだ。それでも「ユクシェーアランガヤー」(嘘じゃないかなあ)と半信半疑だったが、二人でお菓子を買って会いに行ったら、実際に※※であったわけよ。
 ※※は私たちを見てびっくしりしてよ、でも※※は覚えていたよ。こっちもすぐわかったさ、面影がとても残っていたからね。私は「アイ、※※!イヤーヤ、お父とお母をカメェーティンクーランナー」(※※!あんたはお父さんとお母さんを探しにもこないのか)って※※に言ったさ。そしたら※※は「お父ターヤ マーガヤタラー、ムルワカランタン」(どこだったか全然わからなかったよ)って言っていてね、私たちがどこに住んでいたのか、子どもだったから分からなかったって言っていた。
収容直後の波平の人々(アメリカ国立公文書館映像資料より)
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 その後、三年ほど前に※※と一緒に妹の遺骨探しに行ったけど、当時は禿山だったのに、今は木が鬱蒼としげっていてね、全然景色が違うから、どこだったか分からなくって捜せなかったのが残念だよ。
 この話を人にしたら、あんたたちのは芝居になるような話だって、みんなに言われるよ。
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