第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


<-前頁 次頁->

戦災孤児たちの戦時状況(抄)

 以下、戦災実態調査から戦災孤児たちの戦時状況の一部を掲載する。当時の年齢と出身字名を表記した。

一 男児六歳(字高志保)

 戦火が激しくなり身重の母、姉、弟、父方の叔母、母方の祖父母で、「ナカブク」と呼ばれている所に避難する途中、目前で祖父母、母、姉、弟が狙撃され死亡。叔母と男児六歳は負傷してそのまま米軍に捕らえられた。
 都屋の収容所に入ってからは、叔母とは別の場所へ収容され、孤児院に入れられた。父親は陸軍上等兵で昭和二十年六月二十日に摩文仁方面で戦死していた。そのため一人生き残った男児六歳は、叔父の家に引き取られた。

二 男児四歳(字伊良皆)

 両親と祖父母と三人兄弟の七人家族のうち、男児四歳のみ生き残った。
 父は防衛隊で戦死。その他の家族は昭和二十年四月二日、伊良皆東原の壕に避難中米兵に射殺された。次男四歳のみ壕の外で発見されて、石川へ収容され、後に知人に引き取られた。

三 男児三歳(字伊良皆)

 昭和二十年四月二日、伊良皆東原の壕のなかで母親と兄妹の三人が米兵に射殺された。男児三歳のみ壕の外にいたところを保護され、石川収容所へ収容される。父は沖縄本島美里村方面で戦死していた。男児三歳は後に知人に引き取られる。

四 女児七歳と五歳(字長浜)

 羽地に避難中の昭和二十年四月、弟と妹の二人が栄養失調で亡くなる。同年五月五日に水くみに行った際に両親は米軍の銃撃を受けて死亡。七歳と五歳の姉妹は、母方の親戚が引き取り石川へ。

五 男児六歳(字座喜味)

 祖父母、母、弟妹と国頭村奥間に避難中、男児六歳を除き、他の家族が栄養失調にて次々に死亡。八月の初め頃、奥間から羽地収容所に収容された。父は戦前にすでに他界していたので、昭和二十一年頃、親戚に引き取られた。

六 女児九歳(字大木)

 両親と姉、本人の一家四人で昭和十六年に台湾へ疎開。父は戦争中死亡。母親と姉はマラリアで死亡した。一人残った女児九歳は知人と共に台湾を引き揚げ、コザの孤児院に収容され、その後首里の石嶺孤児院へ移された。後に、母の姉に引き取られた。

七 男児十三歳と五歳、女児九歳(字渡具知)

 昭和二十年三月末、両親と男児十三歳と五歳、女児九歳の五人で国頭村与那へ避難。昭和二十年四月五日、六日ごろに米兵が小屋まで来るようになったので、山奥へ山奥へと避難を繰り返していた。七月に入り、二見山中で父親が日本軍への食糧供給者と勘違いされ米兵に射殺された。その場で母と子供三人は米兵に捕まり久志収容所に連れて行かれた。母親も間もなく亡くなった。残された兄弟妹三人は一〇か月ぐらい久志収容所で生活し、二十一年五月頃宜野座収容所へ移された。そこで四か月ぐらい滞在、同年の九月か十月頃読谷村民と共に字波平に帰ってきた。

八 女児十四歳と十歳、男児七歳(字比謝)

足をケガした少年(あけぼの出版社提供)
画像
 昭和十九年十月十日の空襲後、両親と二十二歳の姉とともに、女児十四歳と十歳、男児七歳の三人は荷馬車に生活用品をつんで国頭村奥へ避難。二十年五月十五日、山中を南下、恩納村喜瀬武原部落で約二か月滞在。そこで両親が疲れと栄養失調で死亡。昭和二十年七月三十日、同部落で収容された。

九 男児十歳(字楚辺)

 父親は比地から新川に向かう避難中に亡くなり、母親と兄は収容所で栄養失調のため死亡。一人残された男児十歳は、宜野座の孤児院に預けられた。その後、祖父が石川に健在であることを知り、石川へ送られた。祖父は家、その他の整理のため、他の三人とは避難コースが別々になっていたようである。

一〇 男児七歳(字楚辺)

 家族の中で、祖母と男児七歳が生き残った。祖母は養老院へ入所、男児七歳は孤児院へ預けられた後、コザの親戚宅に引き取られた。

一一 女児七歳、男児五歳(字楚辺)

 両親と女児七歳と男児五歳は四名で中城村字荻堂から島尻に避難した。両親は島尻で被弾して死亡。残された女児七歳と男児五歳の二人は、石川収容所で祖父母と合流した。

一二 女児十五歳と十三歳、男児十歳(字座喜味)

 大宜味村字喜如嘉の山中に家族七人で避難中であったが、祖母は山中を逃げ回る体力が無く、山中に一人残されそのまま栄養失調で亡くなる。次いで七月に母親が、十月には父親が栄養失調で亡くなった。女児十五歳と十三歳、男児十歳は、長男(成人)と共に収容される。

一三 女児十五歳、男児十歳と八歳(字喜名)

 一家は戦時中南洋サイパン島にいた。昭和十九年の六月に父が陣地構築中に死亡。翌月に四歳と二歳の妹が栄養失調で亡くなった。そして翌月には母親も亡くなったが、死亡原因は不明。残された子どもは二男一女。その後の消息は分からない。

一四 女児十四歳、十二歳、十一歳、九歳、五歳(字座喜味)

 祖母は国頭村辺土名で栄養失調で死亡。母と子どもたちは謝名城、有銘、羽地と避難していたが、石川に収容された。その矢先に母の乳が止り、一番末の乳飲み子が死亡。その二日後に母はマラリアで死亡。父は防衛隊で、昭和二十年六月二十日摩文仁村米須にて戦死。

一五 女児十一歳(字伊良皆)

 兄は徴兵、姉も従軍看護婦として家を後にしていたが、後に両名ともに戦死した。
 昭和十九年十月頃、伊良皆地域の空襲が激しくなり家族と女児十一歳はクーニー山の壕へ避難する。昭和二十年三月になって空襲が激しくなり、山原へ馬車で避難。途中、父は砲弾を受け死亡。女児十一歳は一人で避難を続け、ある教員一家と出会ってお世話になり、後に収容される。

一六 女児十二歳と二歳(字比謝矼)

 父は防衛隊、長男は陸軍上等兵として家を後にしていた。昭和二十年三月二十五日、残された母と十六歳の男児含む三人の子どもは国頭へ避難。国頭で終戦を迎える。収容されて間もなくの昭和二十年十二月二十四日、国頭村奥間にて母は栄養失調で死亡。すでに長男は昭和二十年四月二十五日に沖縄本島宜野湾にて戦死。父も沖縄本島摩文仁村方面にて昭和二十年六月に戦死していた。

一七 女児九歳、男児四歳(字伊良皆)

 昭和二十年三月十日頃、伊良皆東原に壕を掘り、山中生活約二〇日。米軍の上陸を知り、四月二日夜中に国頭へ逃げる途中、長田大道で米軍の銃撃により母と次男の二人が死亡。当時すでに成人していた長女と三男である男児四歳の二人は負傷。次女の女児九歳は無傷で、生き残った三人はその場で米軍に収容され、楚辺に連れて行かれた。父は防衛隊で、昭和二十年四月二十八日に南風原で戦死。

一八 男児十二歳と十歳、女児四歳(字波平)

 昭和二十年四月一日、父、母、長女、次女が米兵に射殺された。生き残ったのは三人の子どもだけ。

一九 男児九歳と六歳、女児〇歳(字波平)

 父は昭和十九年に防衛隊に召集され、二十年六月に戦死。男児九歳と六歳、女児〇歳は、母と祖母と長女五歳と共に四月一日に楚辺にて米軍に収容、後に石川収容所へ移された。
 翌二十一年の二月に五歳の長女が栄養失調で死亡。次いで三月に母も栄養失調のため死亡した。

二〇 男児二歳(高志保出身・フィリピン在)

 当時一家でフィリピンに移民していた。家族は父と母、きょうだいは三男二女。男児二歳は次男であった。父はフィリピンにて現地召集されて昭和二十年七月にダバオ市方面で戦死。男児二歳以外の家族全員が(母と四人の兄弟姉)昭和二十年にミンダナオ市で栄養失調により相次いで死亡。月日は不明。男児二歳だけが生き残った。

二一 女児十五歳、男児十二歳と九歳と八歳(字渡慶次)

 昭和二十年三月頃、祖母、両親、嫁いでいた長女とその子、そして四人の子どもたちという八人の大所帯で辺土名に避難。さまよい歩いて、避難中に祖母は死亡。五月に一家は収容された。三か月後に父親が栄養失調で死亡し、さらにその三か月後に母親も栄養失調で死亡。

二二 男児十三歳と十歳、女児八歳(字渡慶次)

 一家はサイパンに移民。父親は現地召集で昭和十九年七月に戦死。母と子ども八人が共に避難中、家族みなが居るところに砲弾が直撃したため、その場で家族九人中、五人までが死亡。生き残ったのは男児十六歳を含む子ども四人だけであった。

二三 女児七歳、男児一歳(字儀間)

 昭和二十年三月に母と男児一歳、女児七歳は中川に避難。母は四月に死亡したが、原因は不明。父親(陸軍伍長)は沖縄本島鏡水方面で昭和二十年六月に戦死。

二四 女児八歳、男児二歳(字大湾)

 父親は陸軍軍属で二十年四月、沖縄本島北谷村久得山で戦死。当時十七歳だった長男は海軍に入隊、昭和十九年二月に台湾東方海上にて戦死。母と当時九歳だった三男、二歳だった四男は昭和二十年四月五日に壕を追われて戦火にあい死亡している。

二五 女児十四歳(字波平)

 昭和十九年八月に一家で台湾に疎開。しかしその年の十二月ごろ、マラリアでまず父が亡くなる。翌二十年の夏ごろ、兄がマラリアで亡くなる。そして母も亡くなった。その時一番下の弟は、夜、乳を飲みながら母と一緒に亡くなった。母は高熱でガタガタ震えてたので、遺言を言う暇もなかった。
 母が亡くなって後、弟(次男)は女児十四歳が育てていたが、約半年後ぐらいにマラリアで亡くなった。女児十四歳も、母と弟と同じ時期にマラリアに罹っていたため、母や弟たちが亡くなった時に、火葬にも行けないほどだった。マラリアで家族が一人去り二人去りして、一人残った時には、「もう、自分は生きていいのか、いないほうがいいんじゃないか」と思ったという。他人にお世話にならないといけないので、女児十四歳にとって、そのことがとても辛かったと語る。戦後、遺骨を持って沖縄に帰ってきた。
<-前頁 次頁->