第六章 証言記録
戦災孤児たちの戦争体験


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コラム

米側資料に見る孤児

 ジョージ・ファイファー著の『天王山』(上・二七七頁)にこういう記述がある。
 「(米軍の沖縄)上陸当日の夕方、アーヴィング・オーテルというコネチカット州で徴兵された兵が、読谷飛行場の近くで壕を掘っていた。この時、鋭い注意力をもった同じ小隊の兵が、背嚢を背負って彼らのいる空き地に向かって匍匐しながら近づいてくる一人の日本兵を発見した。そして、自動小銃の一連射で彼を倒した――。その後、この兵はそれが女性で、背嚢だと思ったのが背負っている子供であったことを知った。『それは私たちに非常なショックを与えた。とてもすまない思いでいっぱいだった。しかし、やがて私たちはもっとひどい状態に慣れていった』第一夜から三か月の間、間違って沖縄県民を撃ち殺してしまうことはごくふつうのこととなった」
 米軍人アーヴィング・オーテルが目撃したこの撃ち殺された女性は、死亡した日付、場所、そして死亡状況から、高志保在住の与那覇※※さんのお姉さんであると思われる。次に与那覇※※さんの証言の一部を紹介する。
 米軍から「親のいない赤ん坊が収容されているが、身寄りはいないか」という呼びかけがありました。父は「きっと子供が邪魔になって捨てた親がいるんだな」と大変憤慨して、収容されている人たちの中に、赤ん坊の親戚がいないか探し回っていました。しかし見つからないので、父がその赤ん坊の顔を見に行くと、なんと長女の子どもだったのです。父は非常に驚き、長女が隠れていたナカブクの壕で一緒だった人たちに長女の行方を尋ねました。
 四月一日、長女たちが隠れていた壕は米軍に見つかったため、壕内の人たちのなかには慌てて飛び出す人もいたそうで、姉も赤ん坊を抱えて壕を出たそうです。おそらく姉は私たちのいたシムクガマに向かっていたのだと思います。赤ん坊を保護した米兵の話によると、長女は赤ん坊を背負って夜道を歩いている所を米兵に撃たれたそうです。弾は姉のわき腹を貫通して姉は亡くなり、赤ん坊は奇跡的に助かったという事でした。全ての事情を知った私たちは、ただ悲しみに暮れました。
 与那覇※※さんのお姉さんとその子どものように、米兵による攻撃によって家族を失い、孤児になった読谷村民が少なくないことは、抜粋して紹介した戦災実態調査からも明らかである。
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