第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」
渡久山朝章


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はじめに

 一九四四年(昭和十九)に入ると太平洋各地で米軍を中心とする連合軍の反撃は著しく、日本軍の「玉砕」(全滅のこと)、「転進」(退却のこと)が相次ぐようになってきた。
 一月のニューギニア島への米軍上陸に始まり、二月はマーシャル諸島のクェゼリン・ルオット島の日本守備軍「玉砕」、三月にはパラオ島が空襲され日本軍は艦船四〇隻、飛行機二〇三機を失い、その上空路避退中の連合艦隊司令長官古賀峰一ら幕僚が行方不明になっている。
 六月にはマリアナ沖海戦で空母三隻、飛行機三九五機を失い、七月七日サイパン島「玉砕」と続く。
 一方、大陸でも攻守所を変え、ビルマのインパール作戦では全軍総退却命令が出され、九万の日本軍兵力から三万人が戦死、四万五千人が戦傷病者となる悲惨な結末をたどる。
 こうした戦況の中で東条内閣は総辞職したが、米軍はたたみかけるようにグアム島を奪回、八月に入るとテニアン島の守備隊は「玉砕」している。
 そして十月、沖縄がはじめて激しい空爆にさらされた。その頃からは日本軍は総崩れの様相を呈し、比島沖海戦で戦艦は「武蔵」を含む三隻、空母及び改装空母四、重巡六、軽巡四、駆逐艦一二を失い、連合艦隊は壊滅状態に陥った。
 こうなると連合軍の次の進攻目標は沖縄だということが当然予想された。十月十日の大空襲はそれを窺わせるものであった。
 そのような状況下で、一九四五年(昭和二十)二月、島田知事から非戦闘員の疎開命令が出された。疎開といえば県外疎開もあり、読谷山村からも十・十空襲前に九州各県へ疎開している。私たちが普通「疎開」という時は、この県外疎開のことをさし、それに対して県内疎開、あるいは『県史』でいう島内疎開のことは単に「避難」と言ってきた。
 避難という言葉の中に、一時的な難を避けるというニュアンスを感じ取って、疎開と言わずに避難と言ったのだろうか。万一それが「無敵皇軍」ということを信じてのものであったとするならば、それは無惨にも裏切られたとしか言い様がない。あまつさえ、一敗地にまみれた後は、避難民と蔑(さげす)まれ「避難民ユンタンジャーとも蔑称され」、「とよむ読谷山」の栄(は)えある村名を改称させる因にもなったのである。(『読谷村誌』七四、七五頁参照)

閑話休題

 島田知事の命を受けて、わが村でも本格的な村民疎開業務に取り組んだ。まず疎開地を国頭村の奥間・比地・半地・桃原・与那・それに大宜味村の謝名城と決め、国頭村に臨時役場を設け、喜友名※※・知花※※等を派遣し、受け入れ態勢作りに入らせたのである。これには国頭村の人々の避難小屋作りの奉仕などもあり、短時日内の事業にしては驚くほど進捗したが、何せ多数の村民受け入れのことでもあるので、小屋の絶対数は足りなかった。
 その他の業務として村民への疎開指導、輸送手段の確保等もあったが、結果的に見てそれほど成果をあげてはいない。
 「疎開が始まると、渡久山※※等を派遣して疎開地への途中に中継点休憩所を設け、国頭へ向かう村民を誘導し、また湯茶等を提供したりした。特に三月二十三日の空襲がはじまってから疎開した人々には大変助かったと思うが、それも大した日数は機能していない」(渡久山※※メモ)。
 疎開に当たって村民の間ではためらいも多かった。故郷墳墓の地を捨てて行くという、先祖への申し訳なさと後ろめたい気持ちがあり、正直なところ家屋財産への執着も大きかった。そうしたこと以上に気掛かりなのは、未知の疎開地での生活の不安ということであったし、現実の問題として、疎開地が余りにも遠隔であるということと輸送手段の不足等々であった。なかんずく、母子家庭や老人、病人を抱えた家族などは、疎開について二の足を踏んだと思われる。
 さて、疎開をためらっていた人々も、やがて上陸空襲が始まると手や肩に、あるいは頭上に運べるだけの荷物を持って北に向かうようになる。夫不在の妻たちは幼児を背に負い、頭には荷物を載せ、右手に持った風呂敷包みに子どもを掴ませながら、何日かかるか分からない道のりをトボトボ歩いて行く。それでも米軍上陸直前まで、村民の三分の二は村内に留まっていたという。
 以下本稿では上陸前後の空襲に始まって、敗戦の日(一九四五年八月十五日)までの村内外各地の様子や村民の姿、軍人・軍属として海外に派遣された村民をも含めて、その証言を元に実態を求めていきたいと思う。
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