第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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知花※※(波平・男性)明治四十四年生

学校、その他のこと

 一九四三年(昭和十八)当時、私は渡慶次国民学校に勤務していた。学校は直接軍によって接収されることはなかったが、諸用件で兵士たちの出入りが多かった。特に近くに駐屯していた通信隊からは毎日数回学校の井戸に水汲みに来ていた。
 一九四四年(昭和十九)、座喜味の集落に戦闘機が墜落して、民家の屋敷囲いの木に引っかかった。幸い炎上を免れ、操縦士も無事だったが、上官に散々叩かれ責任を取れと言われていた。撤去作業中、中佐が作業中の民間人に「血を流したくなければ汗を出せ」と言っていた。
 事故機は二式戦闘機といい、当時としては最新式で、プロペラ軸の先の方は尖っていた。いかにも敏捷(びんしょう)そうなこの機は、速度も速かったが、なぜか事故も多かった。
 事故機は頭から突っ込んで逆立ちの格好となり、その特徴であるプロペラ軸の先端部分はへし折れていた。
 渡慶次国民学校の久場校長は、平素から万一の際の御真影の奉護について心を悩ましていた。
 一九四五年(昭和二十)三月、いよいよ御真影を羽地村へ護送することになり、カナキン(金巾)の白布に包み、首から吊り下げ胸部に捧げ持ってうろたえていた。

敵上陸前の空襲

 集落の南東のはずれあたりで爆弾の炸裂音が相次ぎ、こちらまで地揺れがする。飛行場の方からだろうとは思われるが、それが飛行場のどの辺かは分からない。この地揺れからするとメージマ(前島)あたりもやられているのではないかと思われた。三月二十四日のことである。
 昨日の空爆とは話にならない。この調子で行くと集落が潰されるのは時間の問題だ。大変なことになったものだ、と思った。とは言え今の爆撃地点がどこであるか確かめたい気も起こる。
 物見高い私は家族を屋敷内の壕に押し込んで、自分は※※のガジマルに上って飛行場の方に目をやった。
 座喜味城跡東方上空に艦載機の編隊を見たと思ったら、それが機体を傾け、キラリと朝日に輝き急降下して爆弾を投下し、楚辺方面の海上に去っていく。激しい轟音と振動でガジマルが煽られ、飛行場は硝煙と砂塵がもうもうと立ち込めている。
 午後になると、攻撃の手は集落内にも及ぶようになってきた。
 焼夷弾攻撃をかけられたのだろうか、いつの間にか※※から※※あたりにかけて一帯は火の海となり、山羊や鶏がけたたましく鳴きながら逃げ惑っている。
 警防団長の比嘉※※と※※の知花※※の三人で、※※の畜舎の火を消し止めようとしたが、全く手が着けられなかった。地獄の劫火(ごうか)は風を呼び、ゴウゴウと燃えさかり、※※の家は焼けて崩れ落ち、次いで馬車小屋も見る見る炎に包まれ、その火の粉は※※の屋根に飛んでいく。三人は必死に防火に努め、どうやら※※は類焼を免れた。
 夕方、静かになった頃、機銃掃射の跡を調べて見ると、土中三〇センチばかりのところに一六ミリ機銃弾がめり込んでいた。
 この頃、字書記の上地※※は、字事務所の重要書類を避難させる作業中、機銃弾を受けて即死、殉職した。
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