第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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知花※※(波平・男性)明治三十九年生

 読谷山国民学校が飛行場建設のため接収 *された後は、各字の村屋(事務所)や大きな民家の離れ等を借りて分散授業を行なった。
 *注 一九四三年(昭和十八)七月、飛行場用地買収仮契約=神直道元航空参謀の「沖縄読谷飛行場土地買収について(照会)回答」一九六七年(昭和四十二)十一月四日
 私は、波平の※※や※※の離れで授業を行なった。それまでの学級編成を解いて一・二年、三・四年と二学年統合の複式学級となったのである。
 高学年は軍の作業に駆り出されて松の皮むき等に従事して、ほとんど授業は受けていなかった。
 喜名に移って後の鍋墨の供出が印象に残っている。それは新校舎の赤瓦が目立つため、攻撃目標になることを恐れて、鍋墨を瓦をとめる漆喰に混ぜてカモフラージュするためのものであった。ところがこの新校舎は未使用のまま軍に接収された。
 一九四五年(昭和二十)に入り、空襲が激しくなり、教師達は担任する児童たちの安全管理に精いっぱいとなった。
 三月二十三日は卒業式の予定だったが、その日の朝から空襲が始まった。そのような最中、知花※※(高二)がやって来て「先生、卒業式はありますか」と言った。私は「卒業証書は後で上げるから、家族と行動を共にしなさい」と言って帰した。全くの自己判断であったが、それで良かったと思っている。
 その後、空襲は激しさを増してきたので、家の前のガジマル下の急造退避壕に避難したが、そこでは頼りないと思われたのでシムクガマに移った。
 四月一日、砲弾飛来が遠のき、犬が来て洞窟入口を嗅ぎまわっていると言う声に、血の気が引く思いがした。しばらくすると、米兵が現れたというので、息を殺してひそんでいた。
 「こんな暗い所で死ぬのは嫌だ。爆弾を投げられ、識別もつかない状態で死ぬのは嫌だ」と心の中では思いながらも、ぶるぶる震えていると、「煙草を点ける間だけでも外に出てみよう」と※※のおじいと※※のおじいに促されて外に出て捕虜となった。
 ※※のおじいと※※のおじいは、ともにハワイ帰りで、アメリカの事情に通じていたと思う。
 米兵に保護収容されたとはいえ、米軍上陸前に散髪したザンギリ頭と、青年学校の制服と帽子という格好で、特に帽子の星印が目立ち、兵隊に間違われないか心配したが、どうということもなく、都屋のティラのガマ近くに移された。
 先に収容された人々は食料を支給されていたが、私たちには何も与えられなかったので豆を炒って食べた。
 翌日から水とケース入りの携帯口糧、後で聞いたKレーションというものだっただろうか、それを支給された。
 都屋には四、五日いただろうか、日本軍機の来襲に際して米兵は逃げ、私たち難民はテントの中でぶるぶる震えていた。
 都屋には、宇座・渡慶次・儀間からも難民が連行されてきて相当な人数に膨れ上がっていた。四、五日後、私たちは村内北部に移された。そこで二週間過ごした後、四月二十日頃だっただろうか、トラックで石川に移された。
 後の組は石川へは入れず金武に収容され、そこがいっぱいになるに従って中川・漢那へと移動させられたらしい。
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