第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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曽根※※(座喜味・男性)大正十一年生

 私は一九四三年(昭和十八)四月、伊波国民学校から母校の読谷山国民学校に赴任した。その年の運動会は無事行ったが、すでに北飛行場の建設は開始されていた。それでも、学校はどうにか普通どおり続けられていた。
 その頃から馬に乗った将校や、國場※※たちが来るようになり、まもなく校門から校庭を横切り忠魂碑のすぐ北を通る白線が引かれた。つまり学校敷地は二分されて南側は軍に接収されることになり、その後、接収地内に建っていた南側校舎は徴用工たちの宿舎となった。
 接収した校舎の代替校舎として、一九四三年(昭和十八)八月頃から喜名の分教場敷地に新らしく校舎を建てるべく敷地地均し工事が進められていたが、工事は遅れているようだった。
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