第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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與久田※※(長浜・男性)明治四十三年生

次第に軍国町になる

 私が徴兵検査を受けた頃は、世界的な恐慌下の軍縮時代であった。したがって軍隊とはいっても普通一般家庭の生活とはかけ離れ、余り関係がなかった。
 徴兵検査は普通本籍地で受けるべきだったが、私たちは師範学校で受けた。甲種合格して、いわゆるミチチャーヒータイ(短期現役)として第六師団歩兵第二三連隊都城に入営した。
 (編者註 普通現役兵は兵営内で二か年の教育訓練を受けたが、師範学校卒業生は三か月間の訓練で伍長に昇進し予備役に編入された。いわゆる短現伍長である。)
 ところが高まる軍国調の中にあって軍事、国防は最重要事となって行き、国民生活にも影響が出始めた。
 勝連村浜国民学校内に設けられた青年学校では教練教師が不足し、私がその代役として教練指導に当たった。しかし、木銃さえ揃わない軍事教練ではどうにもならなかった。ところが当時の気概たるや、当たるべからざるものがあった。

徴兵忌避の嫌疑

 そのような頃、補充召集の件で問題が起こった。本籍地で調べた結果、現役原簿に徴兵検査、その他に関する記載がないという。これを徴兵忌避と決め付けられ、軍法会議に回すということになったのである。
 そこで私は、師範学校で徴兵検査を受け、短現で歩兵第二三連隊都城へ入営したことを申し立てたが、聞き入れられなかった。
 とうとう那覇の連隊区司令部へ照会することになった頃、十・十空襲で同司令部は焼け、後はうやむやになった。

御真影奉護人

 一九四五年(昭和二十)三月二十三日、空襲が激しくなったので校長は、二十四日予定の卒業式取り止めを決めた。
 浜国民学校では職員にも避難命令が出たので、私は名護町安和の妻子の所へ行くべく準備を進めていた。校長は私に残って貰いたい気持ちがあったようだが、私の決意の程を察して御真影奉護人に指定して国頭に向かわせた。
 御真影奉護は本来校長の職務であるが、私を指定したことは、責務の傍ら妻子のもとに行かせる温情だったのである。
 御真影を首にかけて舟で島を離れたけれども、私の心は震えた。普段なら仰ぎ見ることさえ不敬とされる御真影、それを首にかけて行くとは恐懼(きょうく)の至りであるし、第一、護送の責任を無事果たせるか不安であった。
 羽地村眞喜屋に着くと全島の御真影はここで奉護されていた。校名を告げ御真影を預け、逃げるようにして立ち去った。

避難

 安和の人たちは嘉津宇岳に逃げ込んだ。男は私を含めて五人しかいない。その五人も私と義兄の他は皆老人である。疎開した人々は皆私のする通りに倣った。
 生き延びる方法は木の茂った所、水のある谷間を隠れて行動することを話し、強く確認した。それでもマブ山の宇土部隊陣地は洞窟もあり、食料もあるからそちらへ行った方が良いと言い出す者がおり、実際にそこへ行った人たちは部隊と共に全滅した。
 その他にも慌てて羽地村田井等方面へ逃げた人たちの中には、ピアノ線に引っ掛かって狙い撃ちされた者が多かった。
 山を越えて本部町本部の近くで放れ馬を捕らえて引いて帰ると、どこからか二頭がついて来ていた。後にそれらは食料に変わった。
 山の中にも敵の出没が頻繁になる。日本の敗残兵が現われ手榴弾を示し、共に米兵襲撃をしようと言ったが、「私は家族をはじめ部落民を保護する責任がある」と言って断った。

凌辱、そして報復

 日本軍の抵抗が余り無いと見て取ったか、一人二人で山に現われる米兵も出てきた。
 ある日、一人の娘が谷底から水を汲んでの帰り、二人の米兵に出くわした。この娘に二人の米兵は猛然と襲いかかった。力づくで押し倒され、口をおおわれ体は押し開かれた。こうして獣欲を放散した二人は、後も顧みず、何事も無かったかのように姿を消した。
 藪の中から息を呑んで一部始終を見ていた私は、目前の恐怖が去ると、悔しさと憤りで心がたぎり立った。同胞が犯されたのである。鬼畜の正体を見た思いがした。
 跳び出したのは義兄と同時だった。娘のことが気になったからである。死んだように横たわったまま動かない。
 近寄ると彼女は突然立ち上がり、両手で顔を覆い「ヒーッ」と泣き声を上げてヨロヨロ立ち去った。哀れな娘はついにこの山から姿を消した。(後日、私はこの娘を田井等で見かけた)
 この話を伝え聞いた敗残兵たちはいきり立った。必ず報復をすると言った。関わりを恐れて逃げようとすると、「お前たちも見ておれ」と足止めされた。
 翌々日、やはり米兵は来た。前日の者たちと同じ人物だったかどうか、それは分からないが、やはり半裸の二人である。武器も持たずにノッソリとやって来た。距離も余り遠くない。
 固唾を呑んでこの二人に目を注いでいる時、山のしじまを破って数発の発射音が響き、遠くでこだました。その瞬間、二人は大地と一つになっていた。飛び出した敗残兵たちは横たわっている死体を足蹴にしたり踏ん付けたりして憎悪の限りを尽くしていたが、やがてその二体を茂みの中に引きずり込んで行った。
 夕刻までこうして様子をうかがっていたが、やがて私たちも手伝わされて藪の陰に埋めた。ところがしばらくすると敗残兵たちはまたやって来て遺体を掘り出し、山奥へ運んで行った。
 米兵を撃ち倒した時、一時は「やった」という胸のすく思いがしたが、死体も片付いて静かになると、これからの米軍の動きのことが心配になってきた。
 女たちはおびえ「報復はきっとある。男は残らず殺される」と言い出した。
 翌朝未明、食事を済ませると男たちは女たちに急き立てられて山の奥に逃げ込み、一日中妻子の身の上を案じ、息を殺して隠れていた。
 夕闇が漂う頃、女たちを残した所へ戻ってみると、そこには誰一人残っていなかった。
 その時には女子どもたちはすでに田井等の収容所に運ばれていたのである。後日、私の妻は収容所を抜け出し、私を迎えに来てくれた。
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