第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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石嶺※※(比謝・男性)明治四十年生

 「沖縄への敵上陸は必至である。あなたは家族をどうする?ねえ、石嶺先生」
 「実は本土疎開も考えてなかったわけでもないのですが…」石嶺は口ごもってしまった。
 今更そのような返事をしても、今の情勢下ではどうしようもない。本土疎開も終わり、今や本島内疎開が話題になり始めていたのである。ところが石嶺は本島内の疎開地もまだ決めてなかったので、ついあのような返事にもならない返事をしてしまったのである。
 そのような石嶺の心を見透かすように、「もうそんな話は遅いですよ。軍は首里の堅塁によって本県を守ります。どうです、疎開地は首里にしませんか」
と、その将校は言った。
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 雲間からいきなり顔を出した太陽は、風呂場の西高窓から斜めに光芒(こうぼう)が差し込んでくる。その光の中に湯気が生き物のようにムクムクと起こっては昇り、上っては光線の外に消える。ここは沖縄県立農林学校寄宿舎の風呂場のなかである。
 学校を軍に接収され、この風呂場も将校専用となった。職員だけは特別に風呂を使うことが許されている。
 石鹸を塗りながら石嶺は思案した。本当に敵の上陸はあるのだろうか。そして万が一、そのような事態になったらどうなるのだろうか。
「軍の作戦は首里に拠(よ)って戦うのですね」と念を押すように言うと、
「当然じゃ、沖縄を失ったら内地だって駄目じゃけん」
との声は浴槽の中からした。思わずそこに目をやると、彼は頭の上に濡れタオルを起き、首まで湯につかって気持ち良さそうに目を閉じていた。
 本土疎開は何回かすでに出発している。県内疎開はまだ話の段階であって、行われてはいない。けれども、「早く疎開地を決めなければ」と石嶺は思った。
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 石嶺※※は県立農林学校教授嘱託である。一九四四年(昭和十九)四月、北谷国民学校から昇任、着任した頃は大きな希望で胸が膨らんでいた。母校で後輩たちを指導することの喜びと、すぐれた先生方の中で自分の研究も進められるという喜びからだった。けれどもたった二か月で校舎は軍に接収され、生徒と共に軍の陣地構築作業にかり出されるようになっていったのだった。
 「首里の堅塁に拠って本県を守る」か。石嶺はかつての風呂場の中でのあの将校の言葉を思い出し、それをつぶやいた、と同時に本島内疎開についての彼の考えが決まった。
「喜瀬武原だ!」
と、心の中で叫んだ。
 首里で決戦というのであれば、そこは最も激しい戦場となる。戦場にわざわざ疎開することもあるまい。それなら首里の逆で山原しかない。そして東西に海からも奥まった山の中で、しかも読谷山から近いところでなければならない。つまり、五年生をかしらとする五名の子どもたちを連れて、何とかたどり着ける所というわけである。
「よし、喜瀬武原だ。喜瀬武原に行こう」
こう決心したら、石嶺はもう立ち上がって、外間を呼んだ。
「外間※※であります」
「やあ、外間君。あなたは喜瀬武原の出身でしたね」
「そうであります」
外間は一年B組、石嶺が担任しているクラスの生徒である。石嶺は自分が考えている家族疎開の件を話し、外間の協力を求めた。
 そして、「私も何時防衛召集されるか分からない。たとえ防衛召集はされなくても農林学校の教師として、生徒隊と行動を共にしなければならない。妻子を安全な場所に疎開させ、後顧(こうこ)の憂いなく職責を果たしたい」ともつけ加えた。
 「私としては、先生のご家族が喜瀬武原に疎開されることを大歓迎いたします。ひとまず帰省して、父とそのことをよく打ち合わせて参ります」
と言うと、いが栗頭を下げて丁寧に礼をして帰っていった。
 外間は荷馬車を仕立てて石嶺の家族を迎えに来た。喜瀬武原ならどこでもよい、と思っていたのが、外間の家ではアサギ(離れ)を空けてくれたのである。
 こうして石嶺は家族を送り出してホッとはしたものの、それ以後は一人住まい、炊事、洗濯、掃除も一人でやらなければならない男やもめとなった。
 三月二十五日の空襲は、それまでのものより激しく、これでは到底出られないと思った。けれども学校のことが気になる。何とかして学校までは行かなければと、と思うと朝食もそこそこに家を飛び出していた。比謝橋通りを無我夢中に駆け抜け、天川坂(アマカービラ)に達すると一息ついた。嘉手納大通りは危険なような気がしたので、平安名呉服店の裏を通り、学校に着いた。
 学校には波平農夫が一人いるだけで、家畜が一斉に鳴き立てていた。二人で飼料を与え、さて、帰路につこうとすると、艦載機の大編隊が次から次へと波状攻撃をかけながら飛んでくる。その爆弾投下地点はこちらに近付いてくる。
 頭を押さえてあたふたと畑を横切り、近くの古い墓に飛び込んだ。ガガーン、ドシーン、ヒューンという音が入り乱れ、墓は大地ごと揺れる。
 両手で耳を覆い、目を閉じて、体は屈めるだけ屈め込んでいた。こうして何時間古墓にひそんでいたであろうか。それは正午になっても終わらない。午後になって少し静かになったと思ったら、また近くで炸裂が相次ぎ、ドサドサーッと土砂の雨を降らせてくる。
 夕方、静かになったと思ったら、もう古墓を飛び出していた。心はもう我が家のことも、何もない。喜瀬武原へ喜瀬武原へと急いでいた。
 翌日はただちにマーブックヮ山へ避難小屋を造った。昨日のことに懲りたからである。よい教訓を得たとも思った。民家密集地帯ほど危ないところはないのである。そういうことでは喜瀬武原とても例外ではあるまいと考えた。
 二十七日、祖慶※※に会った。同じく農林学校に勤めていて、しかも隣村の山田出身ということもあって、石嶺はこの先輩教師に会うと、何だかホッとした気持ちになった。
 本土への集団疎開が始まっていた頃、職員室で教頭の安里※※を囲み、祖慶、仲宗根※※、島袋※※らと疎開について話し合ったことがある。
 「敵潜水艦が出没していて危ないぞ」と言ったのは確か祖慶だった。その話が出ると皆腕組みをして、話はそれ以上は進展しなかった。その後、彼の発言を裏書きするように、疎開船遭難の噂が流れた。
 祖慶にはそういったような、物事をズバリと言う、剛直さと言おうか、そういうところがあった。
 石嶺はそのような祖慶を頼りに、今後のことを質した。
 「一昨日、学校に行ってみたのですが、とうてい今から、そこへ引き返すことは出来ません。鉄血勤皇隊も結成されるという話でしたが、これからどうしたらよいでしょうか」
家族のことについては、おくびにも出さなかった。
すると祖慶は、
「そんなことは自分で判断するものだ」
と、にべもない。
 そのようなことを言われると、石嶺の心の中には、行かなければならないという気が、強く頭をもたげてきた。祖慶の言葉の中には、お前は農林学校の教員だろうという響きがこもっていると感じ取っていたのである。
 二十八日の晩、とうとう牧原の学校本部壕に向かった。暗い山道を歩く石嶺の心は重く、暗かった。教師としての石嶺と、夫であり親としての石嶺の心が互いに押しくらをして、揺れに揺れた。責任感と恩愛の情の葛藤に、心は潰れんばかりであった。
 途中立ち止まって、幾度引き返そうかと思った。しかし頭を振り振り考えると、陛下の赤子をあずかり、未曾有の困難に彼らと共に身を挺するという考えが、からくも妻子を思う情を押さえつけた。
 山路を南へ南へとたどり、読谷に近付くにつれて対向者が増えてくる。読谷から北へ北へと向かう防衛隊員が多い。彼らの話を総合すると、読谷方面の兵員はほとんど他へ配備替えされるという。
 こうしていくつかの群に会い、彼らをやり過ごし、振り返ったりする内に、いつしか自分の足も北に向き、防衛隊員たちの後を追っていた。
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