第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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山城※※(渡慶次・男性)大正八年生

除隊延期となり中国へ派遣

 私は沖縄県立農林学校を卒業後、読谷山村役場に勤め、戸籍係から学事主任、そして兵事主任を歴任した。
 その後、満州の満州拓殖公社で測量に従事していたが、一九三九年(昭和十四)、第六師団都城歩兵第二三連隊へ入営した。満期となっても除隊とはならず、さらに基礎訓練を三か月受けて中国南京に送られた。主として南京警備に当たりながらも、「北支」へ派遣され黄河陽動作戦に参加したりして実戦経験を積み重ねて行った。

第二長沙作戦「ヨウロウシの戦」

 各地を転戦しているうち小隊は二五、六人になっていた。内地からの補充もつかず、この小隊を指揮して警備に当たっていたところ、一小部落で中国軍に包囲されてしまった。
 あたりの気配からしてどう見ても敵は中隊規模以上の兵力である。多勢に無勢、その上当方には重機関銃一、軽機関銃二、歩兵砲一門しかないので突破は不可能である。
 敵は射撃を仕掛けてくるのに、こちらは一切の行動を控えじっと我慢である。うっかり応戦してこちらの兵力が知られると大変なことになるからであった。したがって本部との連絡もうかつにはできない。
 こうしている内に敵も射撃の手を止め、包囲の体制のままとなった。これは飲み水・兵糧攻めの手と読んだ。一日二日はそのまま過ぎたが、三日目からはイライラし始めた。兵糧は尽きてくるし、飲み水も乏しくなってきた。この部落に井戸は無いのである。
 それからは包囲の敵だけでなく、兵隊たちのイライラとも戦わなければならない。冷静に状況を判断させなければならない。この兵力の差ではどうせ死あるのみである。どうせ死ぬのなら、飛び出して狙い撃ちされるより、機会を見て敵にも出血を強要しよう。けれどもその機会は訪れるだろうか。この不安はしばしば苛立ちとなり自分の中でも駆け巡る。遂にその夜も襲われなかった。依然包囲のままである。
 翌日、苛立ちはその極に達し、破れかぶれに撃って出ようとする気配は辺りに満ち満ちていた。こういう大和魂は如何なる指揮官でもどうにもならない。つまり正常の状態ではないのである。
 ところがその時である。夢では無いかと疑った。四列縦隊に隊伍を整えて敵が正面からこちらへ堂々と進んでくるのである。
 我々の存在は眼中に無いと言うのか。あるいは傍若無人と言おうか、そのままの隊伍でズンズン接近して来た。全く考えられないような情景に接し、思わず心が震えた。
 「歩兵砲!」命ずるが早いか、歩兵砲弾は敵の隊列の中で炸裂した。後は撃つだけである。砲身も焼けよと撃ちまくった。混乱した敵に向かって機関銃は猛然と火を吐いた。
 兵たちのイライラはたちまち歓声となり、着剣した銃を手に部落を飛び出していた。
 しかしそこに見たのは硝煙の立ち上る中に転がる死体と、苦痛にうめく負傷者の恐怖の目しかなかった。敵のこの奇怪な行動は今もって不可解である。この戦いで師団長賞詞を受け、これは戦陣訓話にも記載された。
 捕らえた捕虜を尋問すると、「一番強いのは日本の六師団、二番強いのは我々支那軍、三番目は日本軍」と言った。
 その後、南京の歩兵学校に一年間入り、陸軍曹長となる。

ブーゲンビルで

 山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、仇討ちのため友軍機が大挙飛来した。タロキナとブーゲンビルの飛行場は飛行機で満ち、エンジンの轟音は島全体を揺るがすぐらいであった。
 間もなく仇敵を求めて飛び立ったこれらの友軍機は、ほとんどが帰って来なかった。そして帰投する僅かな機は、敵に潰された滑走路に降りることが出来ず、海に突っ込むのが見られた。それ以後は敵に完全に制空権を握られ、連日空襲を受けることになった。
 補給路は完全に断たれて、いよいよ棄兵となった。草の葉はもちろん、クモ、トカゲの類まで食べた。
 一匹のトカゲを数人が追い回し、先に捕らえた人が頭を踏んで潰し、ポケットに入れた。他の兵がいない所で、それを針金に刺して焼いて食うのである。
 火縄を吊るして火種を絶やさないようにしたが、遂には火縄にする物も無くなって、その後は木を擦り合わせて火を起こした。
 靴は破れほとんどが裸足であったが、衣服に至ってはまともな物は無く、裸同然であった。
 せめてもの軍隊らしいことと言えば、そのような中でも朝夕の点呼はあった。裸足に裸同然の点呼では、定めし異様であっただろうが、それはあくまでこの状況とは無縁の立場から見た場合であろう。
 「頭ッ右」の号令で点呼は終わると、「カシラー右たって、こんな状態で右に向くかよ」と自分の男根を指差す者もいた。彼に留まらず下半身さえ満足に覆えない者がいたのである。
 丸々とした体は肥えているのではない。栄養失調からくる浮腫(むく)みなのである。
 「飯をお椀の一杯でも食ってみたい」と言いながら死んでいく者が多かった。そうした時でも何とか生き残れたのは、粗食に慣れそれに耐えてきた沖縄県人であった。いや、それ以外にも理由はあったかも知れない。とかく極限状態に置かれなければ人間のギリギリの姿は身体面でも精神面でも分からないのかも知れない。
 そのような時、沖縄への米軍上陸のことが知らされた。「我々をこんな所に連れて来て、故郷は米軍の上陸を許すのか」といきり立った。沖縄出身兵はことごとく八つ当たりし、上官の命令も聞かなくなった。
 間もなく結束して不穏の情勢を醸し出した。それには手がつけられない。力で屈服させられないという意味ではない。他県人たちにも郷土を醜敵に踏みにじられた者たちの心が痛いほど分かるのである。そうした憐憫(れんびん)の情や、国土の一角を侵されたとする苦痛が等しく胸にわだかまって、沖縄出身者たちをそっとして置きたい気もあったのである。
 けれども歯軋りならまだしも、相手かまわずあたり散らされては大変なことになる。
 「お互いのこの無念さは言うに言われぬものがある。手当たり次第ぶち壊したい衝動に駆られる気持ちはわかる。けれどもそうしたからといってどうなるものでもない。ここが我慢のしどころだ。沖縄出身兵の名に恥じぬよう自重しよう」私は同郷の者たちに訴えた。
 「聞けば沖縄には米軍が上陸したという報道は伝わったばかりだ。その後は何も分かっていない。吉報を待とう。そして愈々(いよいよ)ともなればこの山城、同じ沖縄人同士だ、脱走でも逃亡でも何でもやるぞ」
 こうした緊迫した事態はようやく収まったと思ったら、間もなくするとそれ所ではない事態に立ち至った。圧倒的多勢の豪州軍が潮(うしお)のように押しかけてきた。
 その後、プリヤカ川を挟んだ平地で両軍相対峙していたが、午前四時頃、豪州軍側からいつになく激しい砲撃が開始され、払暁(ふつぎょう)戦の火蓋は切って落とされた。
 「支那」では戦死するのは第一線の兵である。けれども連合軍相手では大隊本部も前線も区別はなかった。徹底的に重砲火で叩き潰すのである。これは兵器の差であり、物量の違いである。
 それでも頼みはプリヤカ川であった。この川が彼我(ひが)を隔て、我々を守ってくれると信じていた。ところが夜が白み始めた頃、轟音を立ててやってきた敵戦車は、いとも簡単に川を渡ってきた。水陸両用戦車なのだ。
 撃ち出す戦車砲はあたりをすっかりなぎ倒し、後は死者の山と重傷者の群れが残った。
 自動小銃を構えた豪州兵は、念入りに死者と負傷者を選り分け、負傷者には銃を撃ち込んで歩く。左腕貫通銃創を受けた私は、地に倒れ伏したままこの状況を見て取ると、自分の軍刀の切先を首筋にあてがった。自動小銃弾をぶち込まれるよりはと自刃(じじん)を図ろうとしたのである。けれども敵はそのまま引き返していった。
 こうしてプリヤカ川の戦闘が終わったのが午前八時、四時間の戦闘で我が大隊は二三人しか残らなかった。
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