第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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上地※※(比謝矼・男性)大正十三年生

座喜味の部隊へ入隊、真栄平へ転駐

 一九四四年(昭和十九)十月十一日、座喜味城跡の西、サンティン毛に駐屯中の山三四七八部隊騎兵隊に現役入隊した。辺りは松林でその中に三角兵舎があり、そこで三か月の訓練を受けた。
 一九四五年(昭和二十)一月一日、島尻郡米須の小渡海岸への米軍上陸阻止の任務を帯びて真栄平に転駐、三月まで陣地構築に従事した。
 三月末、甲号戦備の命が下り、陣地で宿泊するようになる。私たち下士官候補生四人は特に真壁村新垣の野砲の交代監視を命ぜられた。
 敵は上陸陽動作戦に出ただけで、ついにこの地からは上陸して来なかった。

中部戦線に投入

 五月、宜野湾へ敵が迫り、同方面守備の球部隊は全滅し、私たちの部隊も一線投入が決定された。守備につく所は首里大名地区である。
 守備につく前に将校斥候(せっこう)を先発させ、配備先地点の洞窟や陣地の探索に当たることになった。連隊副官小山大尉、中隊長と曹長で斥候団を組織し、先導は私が選ばれた。
 他部隊のトラックに便乗して出発したが、トラックを追いかけるように砲弾は飛来し、炸裂した破片が飛び交った。
 一日橋で車を捨て、ぬかるみの中を歩く。儀保町を通り西森辺りに来ると砲弾の飛来ことのほか激しく進めなくなった。岩陰に寄りじっと機をうかがった。小山大尉はついに抜刀し、「進め」の号令をかける。崩れた太平橋を渡り、後は無我夢中で走る。
 大名では岩陰や洞窟、それに陣地の状況を確認し、帰隊後、兵力配備計画を立てた。
 翌晩、全員大名に集結し、配備についた。武器は無いので急造爆雷と手榴弾で斬り込み攻撃をかけるということになった。斬り込み隊は三人一組で、各小隊それぞれ八組を編成した。
 目標は津覇国民学校、上原、小那覇の敵陣である。私の分隊は伊保の浜の敵陣攻撃を命令された。運玉森辺りは迫撃砲弾の落下がすさまじく、大きく迂回して西原へ向かった。
 西原製糖工場は火の手が上がっていた。レールを渡し掛けその上に畳を載せた掩体壕で休む。
 伊保の浜の方角が分からず、闇の中でじっとしていると、人影が現われた。こちらから声をかけると合言葉が返ってくる。近寄ってさらに誰何(すいか)(名前を尋ねること)すると、仲程※※(比謝矼)だった。話を交わす間もなく戸山兵長と棚原(与那原出身)に促されて元来た道を引き返したが、方向を全く見失ってしまった。彼我の砲弾が激しく入り乱れて落下する。
 戸山兵長が「上地、お前が先頭になれ」ということで、坂を這うようにして上がる。頂上に達すると、黒い大きな影が立っている。思わず逃げ出すと相手も大声で喚きながら走り去った。
 間をおかず機関銃の射撃が辺りを襲った。墓に逃げ込んだら自分ひとりになっていた。
 やがて機関銃が静まると、下から戸山兵長と棚原二等兵が出てきた。
 翁長と思われる所に出ると、前で何やら音がする。戸山が手榴弾を投げつけると、日本語らしい叫びが起こった。畦(あぜ)に潜んでいる者に「山」と言うと「川」と答えた。相手は将校の一団で、確認もせずに手榴弾を投げつけたことで散々怒られた。

「転進」命令

 五月二十七日、総攻撃の命が下り、敵の後方撹乱に出掛けるが、前線にさえ近付けない状況であった。
 六月二日、「後方への転進」という師団長命令が出た。四列縦隊で南に向かったが、これは言わずと知れた退却である。兵員の数は極度に減少し、残る者もあるいは負傷し、疲労はその極に達していた。そして私たちが目にするのは、地上を覆う友軍兵士たちの屍だった。

八重瀬岳の戦闘

 元の真栄平の陣地に帰ってきた。
 八重瀬岳の前面に敵戦車が現われるようになり、それに対戦して撃退せよとの命令が下った。
 私は入隊当初からずっと一般小銃の兵だったが、この時を期して軽機関銃手になるよう中隊長竹田中尉の命を受けた。分隊長が弾薬手として付いた。
 私たちの兵力としては、小銃と軽機関銃に手榴弾、それに僅かな擲弾筒(てきだんとう)だけである。擲弾筒ならともかく、小銃や機関銃でM1の大型戦車を相手にどれほどの効果があろう。結局、機関銃の目標は相手の戦車随伴歩兵ということになった。
 夜、敵の進攻予想地点に出掛け、岩石混じりの土を掘り蛸壺壕を掘って布陣した。
 夜が白々と明けると、ススキというススキには草ゼミがいっぱい止まっている。日が昇り露が乾かないと飛べないセミの姿には悲しくなったが、逆に夜が明け渡ると動けなくなるのは自分たちではないかという事に思い至ると、背筋の寒い思いがした。
 太陽は私の恐怖心を無視するかのようにグングン上がっていく。
 敵の気配は全く無い。それでも兵たちは無口になって行く。相互の会話もヒソヒソ声に変わった。
 十一時頃、大音響を轟かせて戦車群が進攻して来た。蛸壺壕の前に立てかけた迷彩用アダンの葉の間をすかして見ると、後方には相当数の随伴歩兵を従えている。これは一気に八重瀬岳を奪取しようとする挙に出たものと思われる。
 しかし戦車は一定の間隔を保ち、戦車砲の砲撃を繰り返すだけで我が方予想の進攻地点には接近して来ない。砲弾は私たちの前面を飛び、八重瀬岳に注がれ、その姿はすっかり硝煙に包まれ、山際もさだかではない。
 布陣は一応成功していた。敵進攻側面の死角に位置している。けれどもこうして距離を保たれては手も足も出ない。うっかり動きを見せると戦車の砲塔はこちらに向く。
 「待て、じーっと待て。近付くのを待て」声を殺して命令する竹田中尉の顔面は蒼白で、唇はワナワナ震えている。
 やがて戦車群は前進し始めた。ガラガラというキャタピラの音に混じってスットン、ガガーンという発射、爆発音を繰り返して接近して来る。双眼鏡をかざした竹田中尉は「敵一〇〇メートル」「敵九〇メートル」と叫ぶ。「敵六〇メートル」、言い終わらない内に「中隊長殿!撃って良くありますか」の声に、「よし、撃て!」。
 敵の随伴歩兵に向けて機関銃は火を吐いた。戦車の周りで右往左往する歩兵たち。すると戦車はピタリと停止し、ぐるっと砲塔を回して砲をこちらに向けた。後は滅茶苦茶に砲撃を浴びせ掛けて来た。
 加藤上等兵が破片で頬を撃ち抜かれて仰向けにひっくり返った。頭を打ちぬかれうつ伏せになっているのは誰だか分からない。
 しばらくじーっと潜んでいると、ボーボーと火焔放射器の音がした。機関銃をほったらかして蛸壷壕を駆け出ると背後から機関銃弾が追いかけて来た。

米軍に収容される

 与座岳頂上の岩陰陣地に銃眼を作り潜んで、夜になると交替で斬り込みに行かされた。この頃からは中隊もバラバラで、辛うじて佐藤※※見習士官が指揮を取っていた。
 最後の夜、私は国頭への突破命令を受け、残りの兵たちは全員斬り込みに行くことになった。
 翌日、防衛隊員と共に岩陰に潜んでいたら、麓で米兵四人が陣地構築をしていた。
 撃てば確実に殺せる至近距離だったが、自分たちもやられると思ったので手を出さなかった。
 晩、松川分隊集結せよとの命があったが、私は防衛隊員と共に後方へ退いた。手榴弾二発を持って突破準備しているところにダイナマイトを仕掛けられ、目が見えなくなり、腕の皮が剥がれむけた。そうこうしていると米軍に捕まった。
 屋良飛行場の捕虜収容所のテントの中にそよ風が入るだけで、剥けた腕は痛んだ。

ハワイへ送られる

 一か月後、視力は回復し、腕の傷も癒えたので、飛行場からすぐ港へ送られ、ハワイに向かった。
 船中は全裸で、輸送船の船倉の地べたに放り込まれた。食事は一日二回で、一日に一回は甲板に出した。一人が発狂して船から身を投げた。船を止めて捜索するも見付からなかった。
 ハワイに入港前に被服が支給された。イタリアカンパニーの近くにテント宿舎があった。
 すっかり元気になったと思ったが、相撲を取ると口から血が出た。
 三か月ぐらい居て、病人、老人、子ども組と一緒に送還されることになった。船中は吊り床であったが、台風の影響で大分揺れた。
 二五日間かかって金武湾に着き、屋嘉に送られ一月ほど収容された。
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