第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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池原※※(楚辺・男性)昭和四年生

通信隊へ入隊

 私は沖縄県立工業学校在学中の一九四五年(昭和二十)二月、〈学徒〉防衛通信隊員として軍に徴されて入隊、球砲兵司令部無線本部付きとなった。
 入隊と同時に県立第一中学校の武道場で受信訓練を受け、機器操作の場合は運動場で行われた。九九式歩兵銃は一中の二階校舎に保管されており、空襲警報時には銃携帯で待機するようになっていた。
 壕に敷く板を探しに行く時に一中校門前の校舎が炎上した。
 四月一日頃、首里は避難する人でごった返し、道路にはいろいろな物が散乱していた。

最初の犠牲者

 ある日、面会人が来たとの知らせがあり、てっきり屋良小学校に防衛召集で入隊した父かと思ったら、学生らしいとのこと。同郷の池原※※〈昭和三年生で一中生〉さんと察して彼らの寮(一中養秀寮)へ出向いたら、彼は炊事班員で野菜徴発に出て不在であった。
 その晩(四月十二日)、養秀寮が直撃弾を受け、嘉手納出身二人が行方不明という情報が入った。その後に伝わった情報でその二人とは、池原※※(楚辺出身)と佐久川※※(比謝矼出身、一中生)ということが判明した。これが一中最初の犠牲者となったが、恐らく全沖縄鉄血勤皇隊における最初の犠牲者だろうと思う。私が養秀寮に訪ねて行った時に会えなかったのが残念でならなかった。
 その後、安谷屋※※(一中生、首里出身だが、父母が教員だったため大湾に住んでいた)と会ったが、彼は元気で小学校同窓生の話をした。

負傷者収容

 同じ部隊の曹長が石嶺町北辺で重傷を負っているので収容に行けとの命を受け、衛生兵他数名と出掛けた。一中敷地の裏を通り、山川交番前に出ると砲弾で大穴があいていた。儀保町大通りからは特に砲弾飛来が激しく、ようやく平良橋近くまで来た。橋を超えるには岩陰で砲弾落下の状況をうかがい、頃合いを見て一、二、三の号令で飛び出した。ところが橋は破壊されており、ちっぽけな橋なのに渡るのに時間がかかった。周辺には兵士や軍馬の死体が散らばっていた。
 曹長は墓の中に横たわっていた。傍らの布団で墓入口を遮蔽してから応急措置に当たるべく、布団を引っ張ると中に死体がくるまれておりぞっとした。思わず墓の岩壁に手をこすり付けた。何事も無かったように衛生兵は応急措置を施し、皆で曹長を担送したが、あの時のことを思い出すと本当にぞっとする。

南下

 慶良間の赤嶺君が用便中背中に艦砲弾の破片を受けて即死した。彼には死んだら頼むと言ってあったが、逆になった。
 豊見城ではトーチカの銃眼から敵情を探り、砲手に合図していたが、その頃からは海軍、陸軍ごちゃ混ぜの通信隊となっていた。
 防衛隊員は随分ひどい扱いをされており、気に食わない時は足蹴(あしげ)にされていた。
 壕入口の水溜りで飯盒を洗っていたら、「お前、防衛隊か」と聞かれたので、「いえ、学生です」と言うと、「危ないから気をつけろ」と言葉を和らげた。何たる差別か、防召とは区別するのであった。
 豊見城から本部まで伝令に行かされたことがあった。三回ほど一人で行った。一日橋を通り識名に出て、繁多川まで行くのだが、一日橋付近は砲弾落下が激しく本当に怖い所であった。
 さらに戦況が悪化して行く中で、命令が下されたが、私は怖くなって「出来ません」と言うと、「お前、それでも日本人か」と叩かれた。代わりに平安座出身の田場が行ったが、帰る途中至近弾で舞い上がった泥に埋まった。救い出してみると、腰を打ってはいたが打撲傷程度ですんでいた。

部隊壊滅

 六月十三日頃、摩文仁村小渡は死体の山になり、摩文仁集落は負傷兵だらけで、私が入れるような壕は見つからなかった。そこで清水見習士官に呼ばれて一緒になった。和田少将(砲兵司令官)の壕まで砲弾が飛んでくる。危ないので移動する、とのこと。
 ギーザバンタで県庁職員家族や他の難民と一緒になった。岩の割れ目で天井はない。敵は近くのサーターヤー付近に迫っているというので、銃に弾を込めて戦闘態勢に入ったが、その後状況に変化なし。
 六月二十四日頃、残った兵員はほとんどが負傷。久保中尉が最後の訓示を垂れ、全員で「海ゆかば」を歌うと県庁職員家族は泣いた。私も思わず泣いた。
 私は裸足でギーザバンタに下りたが、死ぬ気はなかった。死ぬなら飲み水がある所、誰にも見られない所で死にたいと思った。
 港川の近くまで行った。照明弾が撃ち上げられ、砲撃された。兵士三人と学生三人となる。一週間後、はじめて飯にありつけた。
 知念岬へ筏(いかだ)で行こうということになったが、先に出たグループが失敗したので筏で行くのは諦め、二組に分かれて匍匐(ほふく)前進している内にグループからはずれた。大腿部破片貫通創で蛆が湧き出した山入端※※(喜名出身、工業生)を私が支えて歩いていたが、匍匐前進の時見失ってしまった。
 与那原の弾薬倉庫に突入しようとしたが、小隊長は居なくなり残ったのは私と平安座出身の田場、それに清水見習士官だけとなっていたので取りやめた。
 夜通し這いまわり、明け方、丘の陰で死体を避けて眠った。夢の中かと思われるようなざわめきが起こり、目を覚ますと夜はすっかり明け渡り、私たちは米兵に包囲されていた。

ハワイへ

 捕らえられるとすぐ屋嘉捕虜収容所へ送られ、一晩過ごすとハワイ行きとなった。ハワイへの船中ではアンダーシャツにパンツ姿で、食事は一日二食あてがわれた。昼食後にタバコが一本配られた。
 途中、日本軍の航空機か、あるいは潜水艦かの来襲ということで緊張したことがあったが、味方にやられて死ぬのだったら本望だと思った。結局、一七日か一八日かかってハワイに到着した。
 ハワイには二〇日間ぐらい居て、シアトルに送られた。間もなく汽車でサンフランシスコへ転送され、さらにウィスコンシン州へ送られる予定だったが、終戦となり沖縄へ送還されることになった。
 途中、ビキニ環礁近くへ寄り、十一月勝連のホワイトビーチヘ着き、屋嘉に送られた。
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