第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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玉城※※(儀間・男性)大正十二年生

兵役について

 私たちの同年生までは徴兵検査を受けて、甲種合格したものは熊本や都城、鹿児島等の連隊に入隊し、いわゆる現役兵として二か年の教育を受けることになっていた。私は体が小さく、その上頑健ではなかったので徴兵検査では現役兵には合格しなかった。
 戦局が逼迫してくると、続々若い者に警備召集や防衛召集が入った。警備召集は軍隊教育を受けた者に来たが、防衛召集は軍隊教育を受けたと否とにかかわらずに駆り出された。
 一九四五年(昭和二十)三月六日の防衛召集は最後の召集令で、十五歳以上四十六歳までの人はほとんどが召集された。
 各字においては区長、代理区長、警防団長、書記等は字民の世話、避難引率、軍との連絡、自警活動等々のために召集令からはずされた。

防衛隊員として入隊

 一九四五年(昭和二十)三月六日、役場に集められて、配属隊が告げられた。入隊したのは南風原村津嘉山在の球一二五二六部隊高射機関砲隊渡辺隊であった。この部隊は当初、読谷山村字楚辺に駐屯していたが、第九師団武部隊の台湾転出にともない、新しい作戦配備計画によってあわただしく南風原に移動していたのである。
 入隊後は全く一からの初年兵教育と陣地構築に明け暮れたが、移駐後日なお浅く、十分な陣地構築はなされていなかった。

空襲と機関砲隊

 三月二十三日以後は連日空襲が続き、空襲警報で高射機関砲は壕に避難させ、敵機が去ると洞窟から出すということの繰り返しであった。
 本来なら敵機の来襲に際して砲門を開き防戦すべき機関砲が、全く逆の対応をしていたのである。その理由は、機関砲座をはじめ、付属の施設が全く出来ていなかったためであった。

南下、そして部隊壊滅

 南風原陸軍病院が撤退南下した後、豪雨の中を南へ下った。完全軍装で弾痕に落ち込もうものなら泥亀のようになり這い上がることも出来ず、逆に没する者もいた。
 その後、弾雨の中で後退を続けている内に散り散りとなり、部隊は自然解散の状態になり、残ったわずかな者たちは具志頭村具志頭に辿り着いた。
 具志頭に着いて隊の再編成に取り掛かったが、組織できる程の兵員は無く、指揮命令系統も全く乱れた敗残兵の群れに過ぎなくなっていた。
 ある軍曹が直撃弾を喰らって即死すると、伍長は兵長に、兵長は一等兵に軍曹の埋葬を命じた。一等兵は銃口を突きつけて、「互いに野垂れ死にするのに埋葬も糞もあるか」と反抗した。至近弾が激しく飛来し炸裂する中である。「埋葬したければ手前で勝手にやりやがれ」という捨て台詞を機に残存兵員たちは完全にバラバラになった。軍隊の強い結束が、以後は相互に危害をも加えかねない存在となった。

海岸を彷徨(ほうこう)

 具志頭海岸のアダンの陰は、敗残兵と難民で足の踏み場もないほどであった。リーフ近くまで寄ってきた哨戒艇は夜通し照明弾を撃ち上げ、迫撃砲を撃ちこんでくる。
 撃ちぬかれた内臓をさらして苦悶している兵。死んだ母親の傍らでは幼児がうごめいていた。冷たいからだをまさぐって乳を求めているようであった。私たちは、醤油桶に水を汲んでくるが、蛆と泥で飲めたものではなかった。
 国頭突破を考えたが、海岸を覆い尽くしている死体を目にすると、決断がつかなった。
 アダンの陰を出て、崖を上がると機関銃や迫撃砲の釣る瓶撃ちだった。でもこのままではどうにもならない、と意を決してアダンの陰を出た。

捕虜になる

 崖を上がりうまく脱出して北を目指して逃げた。岩陰に潜み、畑の畦に隠れて状況をうかがい、なるべく地形の悪いところを選んで進んだ。歩いている内に四人となった。同じ部隊の三人と、他の部隊の比嘉※※(四十歳前後)の四人である。
 破壊し尽くされた集落の中を通り広場に出たと思ったら、突如激しい機関銃の集中射撃を受けた。
 牧原の高良※※さん(四十五歳ぐらい)と楚辺の比嘉※※さん(四十歳過ぎ)がやられたように思ったが、どうなったか後は分からない。
 転がり込んでいた茂みに潜んでいたら、米兵二、三〇人が近寄ってきた。息を殺してジーッとしていたが、震えは止まらなかった。やがて発見され捕らえられた。
 自分たち四人だけと思っていたら、同じ草むらの中から他に四、五人も出てきた。彼らはよれよれの着物を着けていたので難民収容所へ送られ、私は一人だけで国場の仮収容所へ連行された。
 敵に捕らえられる直前、自分で死ねなかった(自決できなかった)ことを後で悔いた。ところがあの草むらでジーッと潜んでいた時、家族の姿が浮かんで仕方がなかった。幻だったのであろう。それが自分を死なせなかったものと思う。

ハワイへ送られる

 国場から屋嘉捕虜収容所に送られ、二日間いてハワイ行きとなった。七月に二番目のビクトリー型輸送船で嘉手納沖を出航したが、その日は覚えていない。
 船中ではアンダーシャツにパンツ、それに半分に切られたタオルを一枚支給された。一番目に出航した僚船より先にハワイに着いて、真珠湾から陸軍捕虜収容所へ送られた。
 落ち着き先はイタリアカンパニーと言っていたので、かつてはそこにイタリア人捕虜が収容されていたと思われる。
 その後、ホノルル港前の砂島収容所〈第七収容所〉に移された。仲田大隊といい、隊長は与那原出身の人であった。
 宿舎は二階建てバラックに一部テント張りがあり、立派な食堂もあった。夕食後、トランプをしながら飲もうと思って飲み物を持ち出したら、「バラックでは飲むな。ここで飲め」と、無理強いして飲み干させられたことがある。
 高良※※という三中生はわざとゴーブレーキ(怠けて)して、兵隊相手に「撃つなら撃て」と反抗的態度に出て、銃の床尾板で殴られ前歯を欠いた。それからスターケイド(重営倉)に送られ、そこでの食事はパンと水だけであったという。そして暴れると上からホースで水を浴びせられたようである。
*筆者註
 高良※※は私の師範学校での同期生で、彼が殴られ前歯を欠いたのはストライキの首謀者ということであったようである。そのことを書いた彼の手記は現在筆者の手元にある。
 抑留中いつも思っていたことは沖縄のこと、わけても家族のことだけだった。
 一九四六年(昭和二十一)十一月には沖縄に送還されたが、当初はそんなに早く帰れるとは思っていなかった。雑役で得た金(クーポン)で日用品を買い求め、残った金三〇〇ドルほどは帰る時に小切手の形で持たせてくれた。
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