第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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与儀※※(波平・男性)大正十二年生

 読谷山飛行場の建設が始まると、私はローラー車の運転手として牧志さん(那覇)の下で働きました。自動車の運転免許で特殊車両も運転できたのです。
 仕事は主に滑走路の填圧(てんあつ)でした。路面に撒かれたコーラルを填圧して、航空機の離着陸に耐え得るような滑走路にするわけですが、私が速くローラー車を通すと、同じ重量がかかるのですが、軍の方からはゆっくり填圧せよと言われました。
 填圧した後には芝生を植えていましたが、擬装用だったのでしょうか、それにしても填圧したコーラルに芝生が根付く訳はないと思うのですが…。
 工事にはレールを敷いて運搬用ガソリンカー(牽引車)もあり、三、四台のトロッコを引いていました。
 当時、機械油は統制物資でしたので一般にはなかなか手に入りません。それで荷馬車持ち(バシャムッチャー)たちは菜種油も使っていたようですが、それでは一日ももちませんので、大変機械油を欲しがっていました。
 仕事は午前七時から夕方まででしたが、後になると突貫作業で夜遅くまでもローラーを運転しました。
 私が運転していたローラー車の廃油は、結構、馬車の潤滑油として使えたようです。
 上司の牧志さんはその廃油を座喜味の※※(※※商店)にもって行き、酒と変えて飲んでいました。※※商店は、酒と交換した廃油を馬車持ちたちに売っていたという事です。
 給料は日給二円七十銭で、当時としては大変厚遇されておりましたが、その他に軍からの食事や酒の差し入れもあり、非常時下にあっては贅沢と言いましょうか、大変恵まれていました。このままだと兵隊に取られるのは延期になればと、思ったほどでした。滑走路はほぼ形が整い、離着陸試験も済んだのですが、やはり填圧は弱かったようです。
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