第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


<-前頁 次頁->

砂辺※※(大木・男性)明治三十八年生

荷馬車組合

 私は読谷山村の荷馬車組合長であったが、一九四四年(昭和十九)六月、沖縄県輸送組合読谷山出張所長を命ぜられ、以後、配下の組合員たちと共に馬車もろとも徴用された。
 当時、荷馬車は村内で約六〇〇台あり、他村からのものを含めると約七〇〇台にも上った。
 飛行場建設に当たり、北谷以南の村の荷馬車は中飛行場(嘉手納の滑走路)に振り向けられ、私たち北飛行場建設に当たったのは村内の荷馬車の他に、大宜味、金武、石川からもやって来た。
 仕事は飛行場建設のための土運び、芝生運搬、バラス運搬が主なものであった。
 都屋からの芝生運搬は労務者が切った物を運ぶのである。一枚あたりの運搬賃は二銭であったが、一日三〇〇枚も運んだ者がいた。波平の※※は稼ぎ頭であった。
 その他、喜名からは海軍部隊のガソリン運搬もあったし、伊良皆には屋我※※監督が率いる建築班があって、そこの資材運びもあった。
 また渡具知の野外倉庫からの米運搬組もいたが、米の山に分け入り盗もうとして米に潰され、圧死した不埒な者もいた。
 水運搬は専任がおり、四角の木製水タンクを積んで飲料水を運んでいたが、大勢の徴用工たちの需要を満たすには焼け石に水であった。よって特に他町村からの徴用工たちからは、「カリユンタンジャ(枯れ読谷山)」の汚名を貰った。
 他村からの馬方たちは建設現場周辺集落の波平、楚辺、座喜味に仮宿していたが、馬は集落外れの木に繋いであった。そのような集落周辺の畑のキビは、ほとんどが首(梢頭部(しょうとうぶ))が落とされ、馬の飼料にされていた。とかく馬車持ちが最も苦労したことは飼料不足で、困った挙句、西原村に芋買いに出掛けて物資統制令で警察に引っ張られた者もいた。

飛行場建設

 飛行場建設工事は五工区に分けられ施工されていた。
 一工区は、コーラル集積場で、上地の前の池を埋め立てることと掩体壕造りであった。二工区は滑走路北辺にあたり、整地して滑走路と掩体壕造り、三工区は滑走路の中間部周辺で、大宜味村出身の宮城工区長が整地および滑走路造り、四工区は飛行場用地南東端にあたり、与那原出身の運天工区長の下、整地と滑走路および誘導路造り、五工区は用地南西端を田場工区長の監督の下に滑走路および誘導路造りが進められていた。
 一工区の上地の前の池埋め立ては難渋していた。馬車を入れると車輪がめり込んだ。
 資材は杭さえ不足し、土木(天野少尉)と建築(木村大尉)は何かにつけて反目していた。
 掩体壕工事は天野少尉配下の矢野、田中軍属らが設計・監督して工事を進めた。まずドラム缶を積み上げ、その上に女子徴用工員たちがザルで土を運んでかぶせ、土を叩いて形を整え、その上にセメント袋をかぶせてコンクリートを打った。
 与儀※※(波平)はローラー車を運転して滑走路のコーラルを填圧していたが、彼のオヤジ(上司)の牧志(那覇出身)は、そのローラー車の廃油を集めて酒と交換して飲んでいた。

飛行場造りと空襲

 当初、滑走路は座喜味の東南側から斜めに伸びて都屋方向に行くものであった。
 この工事の進捗を急がすように、再々戦闘機が飛来してきて離着陸を繰り返したが、なぜか事故が多かった。
 ある日、お昼休みに一機が着陸したと思う瞬間、機の前部を下にして逆立ちした。そこに続いてきた二機は相次いでその逆立ち機に突っ込み、三機は見る見るうちに炎上した。
 滑走路造りが変更されたのはその事故の直後であった。こうして飛行場造りが着々進行しつつあった時、十月十日の空襲を受けた。
 地上施設はことごとく破壊され、燃料は炎上し、炎は天を焦がした。七分通り出来上がっていた滑走路も爆弾でアバタにされ、それ以後はその補修に一層の馬車部隊の出動が要求された。特に井沢曹長の要求は甚だしく、飼料も乏しい時期に馬車組合はその要求を満たすために苦慮した。
 私への防衛召集は二、三度来たが、天野少尉たちが握りつぶしてくれた。

十・十空襲の時

 十・十空襲はいきなりやって来た。予想しないことだっただけに、ボヤーッとしている所をいきなり横っ面を張られた感じだった。
 当時、家庭での豚屠殺は厳禁され取締りが厳しかった。食料確保のため、屠殺に当たっては届出をしなければならず、自分の飼育した豚でも勝手に処分することは出来なかったのである。
 十月十日の早朝、薄暗い時に飼育豚のワチグルシー(密殺)を敢行した。
 解体を済ませた時、空襲された。初めての空襲で動転したが、それでも一家の分は取っておき、隣近所にも分配して余った分は埋めた。
 静かになってから事務所に行って見ると、窓ガラスは爆風で粉々になって飛散し、事務所内は道具や帳簿類が散乱していた。

国頭へ避難

 毎日空襲が続き、素人判断でも米軍の沖縄進攻は必至と思われた。
 一九四五年(昭和二十)三月の末、何日だったかは記憶にないけれども、家族は疎開させてあった。疎開のためにも馬車組合は動員されたが、ほとんど自分の家族と親戚の分しか運搬できなかったのではなかろうか。馬車組合は組織的には動かせなくなっていたのである。
 近海に敵艦が近付くと、軍は尻に火がついたように南へ去って行った。
 私は飼い豚もほったらかしにして「六インチ自転車」に鶏を括り付けて国頭を目指した。
 県道は避難する人々でごった返していた。恩納で一泊し、羽地村稲嶺で一日を過ごした。
 奥間に着くと、その日から壕掘りをした。米軍が進攻して来たので、せっかく掘った壕を捨て、山の中に移り、家族と共にさまよった。
 夜間は役場吏員の上地※※や知花※※たちと共に芋掘りに行った。馬も潰して食べた。その時使用した小刀は、私が村警防団第三分団長の時、比謝矼の糸洲鍛冶屋で軍の車両修理に当たっていた桜木軍曹が鍛(う)ったものだった。村警防団副団長の比嘉※※は日本刀を作って貰っていた。
 籾(もみ)を入手した知花※※先生の奥さんは、瓶に入れて棒でつつき脱穀しようとしたら底を抜かしてしまった。比嘉※※が帰らなくなり、大騒ぎしたこともあったが、幸い事なきを得た。
 草の葉をかじり、雨に打たれてさまよい、ついに国頭村奥で米兵に捕まった。
<-前頁 次頁->