第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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当山※※・※※(瀬名波)大正四年生(夫婦とも)

荷馬車組合

 日本軍の陣地構築作業が始まった頃、私は瀬名波の荷馬車組合長をしていた。陣地構築現場における荷馬車の需要が高まったため、我が字でも相当数の荷馬車があった。
 軍工事に際しての荷馬車は、主として洞窟陣地構築の枠材としての松材運搬であったが、弾薬運搬もしたことがあった。
 早朝になると荷馬車は、事務所前から大道商店の前まで並ぶような盛況であった。私は組合員たちの馬車の配車が主な任務であったが、各部隊の渉外将校たちはより多くの荷馬車を確保しようと私の家に押しかけた。そういうわけで、私の家の縁側は将校たちの集会所みたいな観を呈したこともあった。
 球部隊での運搬作業を例に取ると、恩納村安冨祖で切り出した松材を積み、親志でまで運ぶ者と、親志から宜野湾村大山まで運ぶ者があった。
 親志では県道沿いにテントを張り、松材と人間と荷馬車でごった返していた。そこではまた製材も行っていた。大山は製糖小屋の近くに本部があり、前広場に資材集積所があった。
 私は配車と現場回りで一台分の賃金を得たが、日給八円貰ったことを憶えている。
 自分の馬車は他人に預け、その稼ぎから幾分かの礼金を貰った。
 軍に対する荷馬車組合の総元締は砂辺※※(大木)で、副は知花※※(宇座)だった。

防衛召集

 防衛召集の令状は届いていたこともあったが、荷馬車組合長という証明で三回ほど召集免除になった。しかし一月中旬の召集は否応もなかった。飛行場守備防衛隊員として屋良国民学校に入隊した。隊長は首里出身の米須中尉であった。
 入隊当初は私服のままだった。比謝川の上流河岸の食料・被服倉庫に軍服受領に行き、やがて新品の軍服が支給された。
 三月二十三日に小銃を渡され、その取り扱いについては、弾こめと引き金を引くことぐらいしか説明されなかった。
 米軍上陸直後、屋良漏池(ヤラムルチ)へ伝令に行かされ、絶え間なく降り注ぐ砲弾に往生したが、一応任務は果たした。
 その後、部隊は解散状態となり、私たちは久得から東恩納に抜け、村はずれの製糖小屋で休憩した。坐っているといきなり照明弾が上がり、びっくりした戦友の持っていた銃の照星(しょうせい)に頬を引っ掛けられ怪我をした。
 石川岳近くで馬を見つけて荷をつけ、久志に達すると、新垣※※(大湾)が指揮する護郷隊の一隊に出会った。彼らに合流し間もなくすると米軍との対戦となり、散り散りになったので辺土名ヘ向かった。辺土名で知花英康・※※親子と逢った。クバ笠にモンペ姿で芋を担いでおられた。その後、自分の家族と会い安田へ行った。
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 米軍上陸前、朝芋を煮ていると兵隊が貰いに来た。いつものことなので常に余分に煮て彼らの分も取って置いていた。高志保(国吉屋取)の国吉という現地入隊の初年兵もまじっていた。
 日本軍の駐屯が始まった頃、集落近くにテントを張り兵隊は宿泊していた。将校は民家に泊まっていたが、私の家は接収されなかった。
 ある日、兵隊が餅を作ってくれと、もち米を持ってきた。芋餡(いもあん)を入れて作ってあげると、四人で一升の餅をぺろりと平らげていた。また、タピオカ餅を作っていたら、出来上がるまでじっと見ている兵もいた。
 北海道旭川師団の兵隊と言ったが、太田※※という人は十二月頃、「これから南へ行きます」とあいさつに来た。「自分たちはどこで散るやら」と他人事のように言い、それでも「凱旋したらきっと訪れます。そのころ※※ちゃん(息子の※※、三歳)は学校に上がっているでしょうね」とも言った。
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疎開そして山中を彷徨(ほうこう)

 ※※は家族が疎開することは反対していたので、屋良国民学校へ面会に行き、疎開することを了承してもらった。
 三月、空襲が激しくなる前、寒かった時に国頭に向かった。疎開に際しては荷馬車の割り当てがあったが、区長さんが配車し三軒が一緒に疎開した。恩納で一泊し二泊目は羽地村田井等で泊まり、ようやく国頭村辺土名に達した。春の彼岸祭はそこで行った。
 ここで夫※※と再会し、安田、安波、東村高江から与那に行った。後戻りである。
 安波川では、荷物は担ぎ子どもの手を引いて渡った。※※はフィラリア病が起こり、絶えず遅れ勝ちであった。
 浜の草を取って食べると、喉を刺す痛みが起こった。煮詰めると醤油みたいになった。
 辺土名に居た頃、十二歳の※※を連れて、鏡地へ田んぼを越えて芋取りに行った。辺土名の部落外れには米軍の陣地があり、どんどん弾が飛んできた。「男は危ない、しかもフィラリアでは無理」と※※が言った。この子はよく芋取りに行った。一緒の人に「あなたの親は居ないの」と言われたこともあったという。
 女だけ八名で芋掘りに行き、途中、米兵に囲まれたので大声をあげて泣き喚いたら「オジョウサン、ナカナイデ。イモホリ、イキナサイ」と言われたので米兵とは反対側に歩き、しばらくして走って逃げたこともあったと言う。夫が生きたのはこの子のお陰だったと思う。
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