第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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儀間※※(渡慶次・男性)明治三十二年生

飛行場建設の労務指導員となる

 一九四三年(昭和十八)、読谷山飛行場建設にともない、国場組の労務指導員となった。一日五〇〇人から六〇〇人ぐらいの徴用人夫たちを指導して飛行場建設作業に当たったのである。こうした大事な業務に従事していたので防衛召集からは外されたのだと思う。
 一九四四年(昭和十九)十月十日の空襲後、身分は球九一七三部隊(本部は喜名)に引き継がれ、現場資材係(座喜味)となった。任務は以前と同様、徴用工を使って空襲後の滑走路および諸施設の修理補修に当たった。
 こうした指導員の重責を順調に果たし得たのは、自分が字の役員はもちろん、村の農会奨励員(原山勝負の審査員にもなる)を数期も勤めたことから、徴用工に顔見知りが多く、指導しやすかったことにもよる。それに当時としては国防の一翼を担っているということで、徴用工自身も使命感に燃えていた。
 責任者の立場に立たされて最も心配したことは、同じ事務所に常勤する女子事務員たちのことであった。結婚前の若い女性たちをあずかり、万一、沖縄が戦場になった時にどのようにして彼女たちの安全を確保してやるか、ということであった。

部隊解散

 三月二十日だったか、今後の万一のことを女性事務員たちにさり気なく訊いてみると、「お国の一大事の時、国に殉ずるのは当然だ」という返事が返ってきた。けれども別れの時は早くもやって来た。私たち乙種工員は軍と行動を共にしなくてもよいということから、三月二十二日に解散することになったのである。
 事務系女子工員たちの中には志願して軍と行動を共にしたいと申し出るものもいたが、一応は全員解散することとなった。
 座喜味で豆腐を買ってきて豆腐ゥンブサーを作り解散会の料理とし、酒は特配(特別配給)を受けた。余興は兵隊が青竹を立て、それを米兵に見立てての試し切りを披露した。物騒な余興ではあったが、当時の雰囲気をよく表しており、皆感銘した。
 三十日には緊急立ち退き命令が出て、砲弾が降りしきる中を辺土名へ向かった。家族は軍の差し向けたトラックですでに疎開させてあった。
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