第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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町田※※(牧原・男性)明治四十一年生

召集令状と徴用令書

 私は一九三四年(昭和九)に役場に入った。その頃は平和でよい時代であった。
 戦争による緊迫感は一九三八年(昭和十三)頃からではなかっただろうか。拡大する「支那事変(日中戦争)」と連勝ムードの中にも、役場への召集令状が増えてきた。一年に一〇〇人ぐらいにも「赤紙」がきたこともあった。臨時召集令である。
 召集令状は連隊区司令部から警察を通し、「特使」で役場に配達されるようになっていた。役場では令状受領後、二時間以内に配達しなければならないとされていた。役場ではその頃から宿日直を二人制にしてそれに対応した。
 宿日直は令状を受領したら直ちに村長、兵事主任に連絡し、「急使」が各字の該当者に届けることになっていた。急使は役場吏員を地域別に割り当てた。
 「急使」用として動員令用赤電灯、それに令状入れの鞄があった。鞄には急使が事故あるときは、直ちに発見した人が届ける旨の書付があった。
 戸籍係は兵事係とともに応召体制上重要であったために召集されなかった。
 一九四三年(昭和十八)になると、飛行場その他の陣地構築作業が始まり、徴用令が出るようになる。
 戸籍係はいよいよ多忙になった。一九四四年(昭和十九)から四五年にかけて警備召集、防衛召集が頻繁に入るようになった。防衛召集は満十六歳から四十五歳までの予備役、後備役に関係のない男子であった。

十・十空襲後の役場業務

 十・十空襲で喜名は大変な被害を受けた。役場の隣の郵便局まで焼けたが、小さな道路を挟んだ役場は無事であった。
 この空襲で非常態勢に入り、灯火官制下、ローソクの明かりを頼りに、召集事務、供出関係事務等の処理に当たった。役場敷地の南東の角に書類退避壕を作り、重要書類はそこに避難させてあったが、書類照会やその他の事務の際には、一々引っ張り出していた。
 役場敷地の南側、県道近くのガジマルの木の下に人員避難壕を作ってあったが、それはあくまで緊急用で、本格的な壕は部落東方山あいのビンジャクに二本の横穴式壕を掘ってあった。
 一九四五年(昭和二十)に入ると具体的な村民の島内疎開計画が立てられ実施に移される中で、短時日(たんじじつ)の業務で万全とは言えなかったが、疎開勧告、指導、受け入れ地の準備、輸送の方法等の業務が行われた。各課から吏員を引き抜き疎開業務に当たらせたのである。
 その頃、役場吏員の徴用関係の仕事は儀間※※さん、馬車徴用関係は松田※※さんが担当していた。兵事主任與久田※※さんは必勝を信じ、疎開を拒んでいたが、地元の壕に避難中、砲弾による落盤事故で圧死したと言われる。
 ちなみに読谷山村の疎開指定地は国頭村であった。
 三月二十三日から上陸空襲が始まり、事実上の役場業務は三月二十二日までとなり、俸給は三月二十一日に支払われ、疎開組の職員は六月分の俸給までの支給となった。

家族と共に避難

 三月二十六日家族と共に家を出て、北谷村久得から御殿敷を通り石川に出た。その先からは空襲が激しくて動けなかった。
 美里村の兵事主任棚原さん〈美里村伊波の出身〉と会い、岩陰を求めて避難していたところ、岩の反対側で砲弾が炸裂した。静かになった夕刻、仲泊に下りて瀬良垣に向かい、親戚の壕に落ち着いた。
 米軍が上陸したことも知らないある日、米兵に囲まれ、「デテコイ」という声に怯えながら潜んでいると、黄燐弾を撃ち込まれた。
 壕入口は煙に包まれ、燐光があたりを埋め尽くした。びっくりして思わず飛び出し、裏山に向かって駆け出すと、背後から狙撃され銃弾が耳元をかすめた。
 後で気がつくと他の一人の男も一緒であった。その時の身なりは国民服に巻脚絆という格好だったので兵隊と間違われ、狙撃されたことは当然だったかも知れない。
 敵の降伏勧告の呼びかけは相変わらず続いた。
 夕方、静かになった頃家族と再会し、さらに山の奥深くに逃げ込んだ。
 五月二十七日、海軍記念日の頃だったと思うが、恩納岳の攻防は熾烈を極めた。居た堪まれずまた北の方へ移って行った。
 六月に入って間もない頃だったと思うが、飢えに苛まれ、もう逃げられないと観念して山を下りた。実は石川に地方民は安全に収容されているとの情報もあったので、その方が投降を決心させた大きな動機でもあったのである。
 投降すると石川へ連れて行かれると思っていたら、羽地に着いた。そこで家族と引き離され、カンパン(収容所)に入れられた。カンパン作業で名護まで出ることもあったが、その頃までは日本軍の特攻機の来襲があった。
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