第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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渡久山※※(比謝矼・男性)明治二十八年生

 私は一九四二年(昭和十七)、大政翼賛会沖縄県支部中頭郡協力会議員となり、読谷山村役場の援護課に務めるようになった。一九四三年(昭和十八)、食糧が配給物資に指定され、沖縄食糧営団株式会社設立にともない、同会社に加入した。
 一九四五年(昭和二十)、読谷山村では村民の疎開地、国頭村に至る間の避難経路に二つの中継地点を設け、疎開者の休憩、連絡、案内、飲料水や握り飯の給養等の世話に当たることになった。第一中継地点は恩納村安冨祖に置かれ、第二中継地点は羽地村田井等に置かれた。
 私は安冨祖中継地点の責任者として、疎開者の休憩の世話をした。
 一九四五年(昭和二十)三月二十五日、自分の家の疎開のこともあるので引き返してみると、家は機銃掃射を受けて屋根には穴があき、家具等が滅茶苦茶に破壊されて床の上に散乱していた
 隣の佐久川古着店と読谷山村産業組合の建物が火を噴出しており、村警防団長の比嘉※※と共に消火を試みたが力及ばずあきらめ、疎開準備を済ませて国頭へ向かった。
 その頃、安冨祖中継地点はすでに廃止されており、私は羽地村の田井等中継地点に着任した。
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