第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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波平※※(座喜味・男性)大正九年生

沖縄戦直前の読谷山村役場

 私は一九四三年(昭和十八)六月、食料増産農会技手として役場入りし、一九四五年(昭和二十)二月まで勤務した。
 宿直は吏員一人に使丁との二人制であったが、当番の時、召集令状が来ないかと何時も冷や冷やであった。それだけ召集令状は重要な物であり、受領と処理には大変気を使ったものである。
 召集令状が届く前には連絡があった。嘉手納警察署から古謝という女性が夜からでも自転車でやって来た。その連絡を受けて宿直当番は全役場吏員に通知した。そのための連絡網が作られ、吏員全員常時待機という体制であった。一地方役場の吏員とはいえ天皇の官吏で、無定量の勤務は当たり前であった。
 召集令状受領時、村長が特使を迎え、丁重に令状を受領し、その後は各字に令状配達の急使を派遣した。
役場吏員
 その頃の役場吏員は次の通りであったと記憶している。
  村長   知花清(高志保)
  助役   伊波※※(楚辺)
  収入役  山城※※(座喜味)
  勧業主任 上地※※(楚辺)
  兵事主任 與久田※※(宇座)

  吏員
  玉城※※、喜友名※※、真玉橋※※(以上喜名)照屋※※、波平※※、
  比嘉※※、棚原※※、島袋※※、喜友名※※(以上座喜味)
  上地※※、知花※※(以上波平)
  大城※※(高志保)、喜瀬※※、儀間※※(以上儀間)、仲村渠※※(長濱)
  新垣※※(瀬名波)、知念※※(渡具知)、松田※※(楚辺)
  仕丁 二人

村葬

 村葬の時は吏員全員で準備に当たったのではなかろうか、よく憶えていない。玉城※※さんや松田※※さんが墓標を書いていた。
 助役伊波※※さんのスマイルは独特なものがあったので、古堅国民学校の女教員たちは、「伊波さんの顔は村葬向きではない」と言った。

ヤーガーの悲劇(宇座)

 生まれたばかりの子を抱きしめ、その顔をつくづく見つめ、この子と共に、もうここで死のうと山内※※は思った。
 三月二十五日、子どもが生まれた日、軍から恩納村宇加地の東の山に行けと言われたが、動くことは出来なかった。それでその時からこのままここで留まっているのだが、宇加地の山に行った人々も戻ってきて、今やヤーガーは混雑を極めている。宇加地の山に行ってもそこには身一つ隠す壕はなかったのである。
 あきらめ切った女たちは※※の手を取り、一緒に死のうとさめざめと泣いた。この状況ではたとえ元気な者でも、どこへ行っても同じだというやり切れなさは、誰の胸の内も同じだった。
 宇座のヤーガーは、こうした絶望的な人々の暗い気持ちを包んで無気味に静まり返っている。
 字警防団長知花※※も、どうしてよいか分からなかった。何とかしなければ、という責任感みたいなものが彼を突き上げ、責め苛む。どうせ無駄とは知りつつ、長老たちの意見も聞いてみないわけにはいかなかった。
 「生きられる限り、生き延びるんだ。絶対に死んではいけない」と言ったのは※※(屋号)の※※おじいである。この頼もしい老人はヤーガーに黒糖一樽運び込んで来てあった。彼の言葉に※※もそうかも知れない、そうでなければならないとも思った。
 ではどうしてとなると、それは誰も分からない。でもまあ、こんな堅固な洞窟だから、と後は自分で慰めともつかぬ事を考えた。それは皆そう考えていることでもあろう。
 この堅固な洞窟に大惨事が起こったのは、それから余り間がなかった。
 三月二十九日午後三時頃、遂にヤーガーの上に爆弾が落ちた。最初の一発は洞窟入口の方に落ち、猛烈な爆風が洞窟内を襲った。
 入口近くにいた※※と、※※(屋号)の家族は布団を抱えて奥の方へ駆け込んだ(奥の方は中二階のようになっていた)。
 與久田※※は「大丈夫だ。大丈夫だ」と、皆を落ち着けるように大声で叫びながら奥へ進んだ。彼の声が三回言い終わるか終わらない内に大惨事は起こったのである。
 二発目の爆弾がヤーガーの真上に落下した。
 崩れるとは夢想だにしなかった厚い岩盤からなる洞窟が、天井からドドドッと落ちてきた。もうもうと立ちこめる土埃の中で、人々は泣き叫び、父の名を呼ぶ者、母を呼ぶ者、子を求める声が入り乱れ、岩石の下敷きとなり「助けてくれ!」と喚く声で、洞窟内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図を現出した。
 大丈夫だ、大丈夫だ、と叫んでいた與久田※※は、村役場の兵事係を勤めていた人である。
 剛毅な彼は皇国の必勝を信じ、役場で疎開の話になると同僚らを笑い飛ばしていた。こうした気丈な彼も、ここで「大丈夫、大丈夫」という声を残して落盤で圧死した。
 岩の下敷きになっていた山内※※を呼ぶ声がする。それはすぐ傍らで、同じように岩石の下敷きになっている後神谷のおじいだ。※※が手を伸ばしてまさぐると、おじいはむしろにくるまり、その上に大石がのっかっているようである。
 ※※の※※が通ったので、「助けてくれ」と救いを求めると、彼一人の力ではどうにもならず、※※のおじいと二人でやっと石を払いのけ、二人を助け出した。しかし救出された※※の背に負ぶされていた子どもはすでに息が絶えていた。
 ※※のおばあは、落石で顔面全体を潰されていたが、辛くも一命は取り留めた。※※のおじいも落石に圧されて救いを求めていたし、※※のおじいは外に脱出する人々に押し倒され亡くなった。
 ※※のおじいは頭をやられ、血が流れるままに前の田圃に飛び出していった。崩れた石の中から救いを求めていた比嘉※※は知花※※と松田※※に助け出された。
 ※※が父に連れられ、崩れ落ちた岩の傍らを這って出ようとする時、彼女の父は古堅※※に足を掴まれた。国民学校高等科一年(十四歳)の※※は、下半身を岩に挟まれ、動けないのである。こうしてもがき苦しんでいる彼をだれも助けてやることは出来なかった。岩が大きすぎて動かせなかったのである。
 翌三十日も激しい空襲が続いた。ヤーガーのアブグァー(裏口の溝)から脱出して※※の墓に入った※※たちは、ひしめく人に押されて身動き一つ出来なかった。こうした中で生後五日目の赤子はしきりに泣き続けた。声を出すことさえはばかられる。アメリカ兵に聞かれたらどうなるかと恐れ、人々はハラハラした。
 思いあまった義母は、これ以上他人に迷惑をかけてはいけないと、「もうこの子はあきらめなさいね、※※」と本気で言った。息を殺している中で※※がしゃくり上げた。
 その時、※※の小母さんが、「もう少し待て!」と赤ちゃんを取り上げ、着衣を脱がせ裸にし、豚の脂を塗り、拭いてやると、泣きやんでぐったりと寝てしまった。生まれて五日目、産湯もつかっていないし、ムンムンする体臭と、炭酸ガスの充満した墓の中では、赤ちゃんも耐えられなかったのであろう。
 「どうせ死ぬなら自分の家の壕で」と人々は移動し始めた。夕刻である。
 ※※のおばあと小母さん、それに※※のおばあの三名は、ヤーガーに布団や生活用品を取りに出かけた。
 ヤーガーの中では古堅※※が二十九日の三時頃から岩の下敷きになったまま、国民学校で習った歌を気力のなくなった細い声で歌ってはウンウン呻いていた。それを見た女たちは、涙を流し、「※※、この際はどうすることもできない。助けようにもどうにもならない。どうせ私たちも死ぬ身だ。あなたは家族とも一緒のことだし、そうした運命の下に生まれたと思って極楽へ行くんだよ※※」と手を合わせた。
 その後、山内※※たちが再びヤーガーに行った時、※※は「マライに続くルソン島 快速部隊の進撃に…」と歌っていたが、「※※…※※」といくら呼んでも返事をしなかった。
 新垣※※の家族はヤーガーが爆撃された時、洞窟の二階部分のすぐ前にいた。祖父だけは二階の中におり、爆撃で崩れた岩石で二階入口をふさがれてしまった。石が大きく、動かそうにも動かせず、祖父※※は生きたまま閉じこめられたのである。
 その後※※は父に連れられ、腐臭が充満するヤーガーへ行き、祖父への食料運びをした。
 四月二日、米軍に捕らえられ、都屋の収容所に四日程いて、また宇座に帰された。その頃まで祖父は生きていた。腐臭が立ちこめるヤーガーに着くと、父は※※を入口で待たせ、タオルで口と鼻を覆い、食事を届けに行った。洞窟入口で待つ十歳の※※の悲しみはたとえようもなかった。
 その後、アメリカ軍から立ち退き命令が下り、宇座にいる人々は皆、金武村に連れて行かれたが、それからはこの老人に食事を運んでくれる人もなく、鬼気(きき)迫り、悪臭ただよう洞窟に一人残された。
 (以上は、筆者が直接聞き取りしたのをまとめ、『読谷村と戦争』という題で、読谷村立歴史民俗資料館『紀要』四号に載せたものである。
 山内※※の部分については、宇座誌『残波の里』の座談会を参照し加筆した。)

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ヤーガーは遊水池の下に沈んだが、
フェンスの横に記念碑を建立して悲劇を後世へ伝える
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