第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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古堅※※(都屋・男性)昭和四年生

米軍上陸前

 私は一九四四年(昭和十九)三月、学校を卒業と同時に海産物補給要員として軍に徴用された。そのため防衛召集はされずに、軍へ納めるための魚取りに従事した。
 その頃の漁労は主にグルクン(たかさご)等の追い込み漁で、軍の方では私たちの帰りを待ち受け、浜から収穫物をすぐトラックに積み込んで持ち去った。
 出漁中に空襲が多く、イナン礁で艦載機に襲われた時は刳り舟を転覆させ、その陰に隠れていた。波平の水がま(ナコーリ)の下で襲われた時は舟を捨てて帰ったこともあった。
 漁夫といっても網元の雇い人が多く、それらを含めて二〇数人はおっただろうか、磯に敵戦車進攻妨害のための松の杭打ちにも従事した。

日本軍の駐屯状況

 山部隊(※※、※※、※※、※※等に分宿)と石部隊(※※に宿泊)であったが、それらは菊地准尉を長とした築城隊であった。
 当時の読谷での日本軍の海岸線における築城は、渡具知から楚辺間と、天浜(ティンバマ)(都屋)から残波に至る間は、磯に松の大木を打ち込み進攻戦車の妨害をし、都屋漁港区は迎撃陣地としてトーチカ *や壕を築いていた。
  *(筆者注 ノッチガマからアブトゥガマを貫き、網干し毛までを連結した陣地があった。)
 ※※にいた二名はダイナマイト専門兵であった。
 菊地准尉の下には田中軍曹や五十嵐一等兵がいたことが記憶に残っている。中村上等兵は万年上等兵と言われ恐い存在だったが、神谷兵長は尺八をよく吹奏して親しまれていた。これら北海道出身の兵士たちは住民ともうまく解けあい、夜間の交歓会等もあった。
 下級兵たちは芋、黒砂糖を欲しがり、そのために民間人に接触する者も多かった。豆腐作りを珍しがって見入る者もいたが、本音は出来たての寄せ豆腐にありつけるという魂胆の方が大きかったのではなかろうか。とかく下級兵は不遇だった。
 兵の宿舎への出入に当って衛兵は一々それをチェックし、上官には捧げ銃(つつ)をしていた。
 ある日、家主の※※の女主人が外出から帰ってくると、いきなり衛兵に捧げ銃されて度肝を抜かれたという。
 ※※には下地先生がおられ、児童は離れの畜舎で授業を受けていた。しかし高学年の児童たちは松の皮剥ぎ仕事で軍に協力を要請されることもあったようである。

空襲・避難

 一九四五年(昭和二十)三月二十三日からは終日砲爆撃が続いた。その前から軍命により避難が始まっていたが、家屋財産のことが気になり、ためらっていた家族が多かった。※※一家は国頭へ避難すべく荷物をまとめていたところ、空襲に逢い焼夷弾で荷物は馬車もろとも焼け、馬も焼け死んだ。
 都屋で最初に焼けたのは※※、※※、※※である。私はくすぶる集落内を駆け抜け、我が家に足を踏み入れた途端、床板が手前に跳びはねてしたたか頭を打った。爆風で傾いた我が家の床板はすべて釘から離れてばらばらになっていたのである。
 その後、ティラの壕に何日潜んでいたであろうか、それは二、三日だったとは思うが、全く穴暮らしとなった。後にシムクガマへ移動した。

指定疎開地へ

 山田の近くの多幸山山中には一門の者たちが揃っていた。三日ばかりそこに留まり、さらに北に向かう。昼は隠れて夜間歩いたが、仲泊の集落は全焼し、福木が立ったまま燃え、くすぶっていた。
 恩納で本家の人々と落ち合ったが、その頃、北谷村砂辺に敵上陸という情報を得た、郷里都屋に米軍が上陸したという事も知らずに…。
 瀬良垣近くの茂みに馬を繋いでいたところを敵機の集中攻撃に逢い、命からがら逃げ出した。大宜味村塩屋でも同様な目に逢った。
 奥間に着くと敵戦車は既に集落内外に出没していた。ただちに山奥に逃げ込み、その後はずっと山中を転々とした。その様子は、一度進んで老人・子どもを先に連れて行き、男や丈夫な女性たちが荷物を取りに取って返すというやり方で、奥へ奥へと進んで行ったのである。雨が降り出すと男たちは仮小屋も作らなければならなかった。

山中で

 山中では道案内の人がいて、避難者一人にいくらと案内料金を取っていた。そのような案内にもかかわらず敵に遭遇して一斉射撃を受け、一家一門散り散りとなった。
 私は六歳の※※の手を引いていたが、そのまま他とはぐれて歩き続けた。悪いとは知りつつも※※(従姉、現姓※※)の衣類を売り食物にかえた。背に腹は代えられなかったのである。後日、福地又で一門の者と再会した時、※※には随分嫌味を言われた。
 悪いことと言えばこういうこともあった。山道を行く時、楚辺の※※のおじいが、天秤棒で荷物を担いで行くのに出会った。片方の荷の上にある四角の包みを失敬したら、その分だけ軽くなり釣り合いが取れない。何も知らない老人は肩を入れなおして歩いて行った。後で包みをほどいて見ると馬肉で作った油味噌だった。

捕虜になる

 喜瀬武原近くまで南下した。島尻では戦火もおさまり田植えまでしているという情報があったことから、何とか島尻まで突破しようと考えていた。
 そのような時、兄の知人の農林学校二年生二人と出会った。一人は本部町の人で他の一人は嘉手納の末吉と名乗った。折から来合わせた陸戦隊の三人とともに山裾の掘っ立て小屋で馬の皮を焼いた。他人が剥ぎ捨てた馬の皮を焼いて食べようとしたのである。
 立ち上る煙は間もなく敵狙撃兵の標的となった。転げるようにして小屋を飛び出すと、前を走る陸戦隊員は首あたりから血がほとばしり、それでも十数メートル走ったかと思うと、浅い流れにドタッと倒れた。思わず右に向きを変え走ると、木の根に足を取られて転倒し、イジュの木の下にへたり込んだ。両手を上げるのは同時だった。
 陸戦隊員三名は殺されたようだが、私たち三人は米兵の銃口に囲まれ、土下座させられた。近くから女や子どもたちが連れて来られた。
 しばらくすると一人の女が三人の米兵に茂みの中に連れ込まれた。この女は金武村の防衛隊員の妻という事だったが、そのときの捕虜の中では唯一の若い女性であった。
 数十分経った頃、米兵の一人に腕を取られて帰ってきたその人は、足取りも危なく、まるで魂も抜けたような姿に変わっていた。
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