第六章 証言記録 「いくさ場の人間模様」


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池原※※(古堅・男性)大正六年生

 三月二十三日の空襲は早朝から始まった。敵機動部隊接近中という情報は二、三日前から流れていた。今朝の空襲の様子からすると、敵機動部隊の位置は随分近いのかも知れない。この様子だと長く居座る気であろうか。
 空襲の様子もこれまでとは違って見える。今までは海岸や軍事施設だけ狙ってきたのが、今日のものは部落や民家にも攻撃を加えているようである。それは壕の中にいても炸裂音や地響きからして、弾着のおおよその見当はつく。
 こういう事態に立ち至ることも予想して、今までの空襲体験も生かして、この部落はずれのフルギンガー(古堅井戸)に、今潜んでいる防空壕は掘ったのである。小さな流れ一つ隔てた向こうは旧闘牛場で、そこには防衛隊が駐屯しており、あたりには炊事やら自活班等のいろいろな急造施設がある。
 さいわいフルギンウガン(古堅御願)と真栄田城跡に囲まれたこの谷間への爆弾落下はまだない。けれどもこのように周辺近距離まで爆撃されるということは、いずれここに来るのも時間の問題ということだ。果たしてこの壕で耐えられるだろうか。そして今の状況からいろいろ考え併せると、それはもしや上陸作戦のためではないだろうか。
 池原※※は、薄暗い壕の中で膝を抱えて不安におののいていた。不吉な思いが後から後から黒雲のように脳裏に湧き広がる。
 と、突然ガガーンというすさまじい大音響を聞いたと思ったら、何がなにやら分からなくなってしまった。硝煙と土埃が立ちこめ何も見えない。やっと人心地つき、硝煙の晴れ間を恐る恐る這い出し、壕口から下の方をうかがうと、防衛自活班の飼っていた数羽の鶏は、その囲いとともに跡形もなくなっていた。小川のほとりには馬が死んで、屍をさらしている。爆弾は二発以上投下されていたのである。
 ※※たちの壕はコの字型になっており、入口に畳を立てかけてあったので、爆風の被害は免れた。隣接の※※(池原※※)や※※(伊波※※)の壕とは、中で筒抜けになっていた。彼らの壕口は潰されてしまっていたので、その後出入は※※のところからするようになった。※※は爆風で耳をやられ、一時聴覚を失っていた。防衛隊員数名が戦死したが、その中には嘉手納の※※の長男も含まれていた。
 静かになると畑のチビに移動した。そこは比謝川沿いの高いがけの下で、湧き水も近くにある。
 移動途中の道で見回すと、爆撃で砕け散った木片が遠く比謝川の水面にも浮いていた。フルギンガー(古堅井戸)の西のアジバカ(按司墓)近くの野戦倉庫から飛んできたソーメン箱の木片である。あらためて爆弾の威力に驚いた。
 比謝橋の近くには暁部隊の基地があり、上陸用舟艇が係留されていたので、時々観測機が水面すれすれに飛んできて銃撃した。
 「絶対に死ぬなよ」松崎※※曹長は※※の手を握ったまま言った。別れに来たのだ。三月二十六日、暁部隊と山部隊が島尻に移動することになったのだ。ピカッと砲弾炸裂の閃光がきらめくと松崎の蒼白な顔が浮かび上がった。間を置かずガガーンと炸裂音が響く。
 「兵隊にこんな物は要らない。戦が終わったらまた会おう」と、はるばる「満州」から持ってきたというシーツと金二〇円、それに写真一葉を手渡すと立ち去った。
 二十六歳の松崎の胸中にある言うに言われぬ悲壮感は、※※の心に痛いほど伝わって来る。
 思えばそれは、決して長いとも言えなかったが、松崎とは随分親しくやってきた、と※※はありし日々の記憶をたどった。
 満州第六十六部隊から沖縄に転駐して来た時、当初、松崎の部隊は古堅の民家に分宿していた。
 ひょんなことで肝胆相照(かんたんあいて)らす仲となったけれども、それは二人の年代のなせるわざだったのかも知れない。あるいはこのような緊迫した情勢下では、却って親しく語り合う友を持ちたいとする外地から来た松崎の心と、わが郷土防衛のために遥けくも来てくれたという良盛の心とがそうさせたのかも知れない。
 勤務外の時間になると松崎は、決まって※※を訪れ、浴衣を借り着して国へ帰ったようだ、と言ったものだった。夜遅くまで二人で青年らしい夢を語り合ったこともあった。
 北谷村久得に移動後、十五夜の月見の宴に招くと、南※※伍長(北海道)と二人でやってきた。
 軍旗祭には※※が招待された。軍のトラックを差し向け、下にも置かない程の大歓待だった。
 「戦が終わったらまた会おう」※※は松崎の言葉を口の中で繰り返した。これが最後かも知れないと※※は思う。
 再会するには二人とも生き残らなければならない。この情勢ではそれは無理だろう。そうすると松崎か、自分か、あるいは両方とも…。稲妻のような閃光が闇を切ると、ダダーンと炸裂音が闇の宙をつん裂き、向かい川岸の崖にこだました。
 軍も引き揚げるようなこの地にいると危ない、そう考えた※※は隣の※※や※※の人たちと共に国頭行きを決めた。
 戦世とは言え、生まれ故郷を後にして逃げるということに心がかりはしたものの、いつまでもそのような感傷に浸っている訳にもいかなかったし、そのような余裕もなかった。
 「二、三日したら迎えに来ますから」と言い残して、祖父母を置いて壕をでた。
(結局、※※が祖父母と再会したのは、米軍に収容された後であった。迎えに来る者もいない哀れな老夫婦は、二人で壕を出てトボトボあるいていくところを米軍に収容されていたのである。)
 「松崎※※曹長は沖縄本島真壁にて戦死」との福島県生活課調査係からの連絡が一九五九年十月十九日、消息を尋ねていた池原※※の下に届いた。
 一九六三年、池原は霊石を携え、福島県石城郡小川字中野地の松崎※※(※※の父)の宅を訪ねた。
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